第16話

「僕の話をするよ」

 俺が隣に座ると、彼はどこを見つめるでもなく前を向いたまま、ただ静かにそう言った。

「僕の悪魔としての出来は、正直言って最悪だ。僕には人の願いを叶える才能がない」

「そんなの別に、俺はただ──」

 白手袋の右手で、無言のうちに制される。後輩お手製のお守りによる焦げが残っているはずだった彼の手袋は、既に新品に取り替えられていた。

「僕たち悪魔は人間の願いを叶えることで、死後にその人間の魂を譲り受ける。この契約はビジネスだから、やっぱり願われたことについては叶えてあげないと筋が通らない。でも、そもそも悪魔には『願いを叶える能力』そのものは与えられていないんだよ」

「そう、なのか」でも言われてみれば確かに、金の用意も随分原始的だった。人間が大金を願えば、彼らは自分の懐から金を出すのだろうか。……自分で稼いで、貢ぐみたいに。

「驚いたかい?」彼は悪戯っぽく口元を歪めて、少しだけ目線をこちらに寄越した。「キミたち人間は悪魔を自分たちより高位の、そして万能な存在だと思っている節があるけど、それは人間の作り出した都合のいい設定に過ぎないんだよ。実際はもっと単純で、僕たちが仕事で使えるのは生まれ持った個々の能力と、軽い催眠なんかの基本的な技能だけだ。人間で例えるなら前者がその人特有の個性や特技、後者が義務教育の知識の範疇、って感じかな。個体によっては催眠とかの基本的な魔術を、より強力に扱う個性を持ったものもいる。……この辺はまあ、才能と同じで誕生した瞬間の運としか言いようがない」

「才能、か……」

 それを聞いてしまうと、悪魔も人間と大して変わらないちっぽけな存在に思えてしまう。己に与えられたカードで人生をいかにやり過ごすか。それだけが生命の目的になっていく。

 だが、悪魔にはそのゴールがないに等しいのだ。どこまで足掻いても、現状維持。そして、さっき自分に才能がないと言ったカルドは、おそらく俺と同じような生きづらさを抱えている。

 ……なんて、俺なんかが安易に共感してしまったら失礼だろうか。

「これはよくある願いだし、わかりやすいから例えとして使うけど、『お金が欲しい』って言われたとするじゃない。そういう時、催眠が使える悪魔なら他人に金を出させるよう命じて金銭を巻き上げたりするし、物体の転移なんかができれば銀行の金を契約者の家に直接移動させることもできる。普通に契約者の代わりに仕事をして稼いでも構わない。……で、そういうのができない、例えば炎を扱うルーラなんかは戦闘向きの能力だから、現代においては人間の願いを叶えるのが難しい。そういう悪魔を雇っているのが天使の住む世界──天界だ。魔力を結晶化させた魂の代替品を報酬として提供することで、悪魔の力と生命を維持するようにできている」

「なるほどな……」よくできている、というのが率直な感想だった。悪魔狩りの悪魔たちも、置かれた場所でしっかりと能力を発揮できる。天界は天界で、きっと人間の世界や秩序なんかを守らないといけないのだろうから、歴とした契約関係が成立するわけだ。魔物堕ちは悪魔や人間の平穏を乱し、傷つける害悪だから。

「……で、ここからが本題なんだけど」

 カルドは唐突にそう前置いて、俺の返事も待たずに淡々と手袋を外した。

「…………!」

 予想だにしなかった手袋の下に、俺は息を呑む。

 長らくその純白に覆い隠されていたカルドの両手は、銀でできていた。夜の闇をぽつりと照らす電灯の光を滑らかに反射し、月のごとき静謐の輝きを放っている。

「……おおよそ生き物って感じがしないでしょ? まあ、もともと悪魔って時点で生物の概念には当てはまらないのかもしれないけど」

 自嘲気味の吐息に、空虚な笑い声が続く。

「これ、義手ってわけでもなくて、悪魔として存在が確立した瞬間からこうだった」

 手の感覚を確かめるように、握ったり開いたりする。

 その手は義手のような機械的な造形ではなく、芸術作品のように生の質感があった。男性らしい骨張った輪郭を表面に浮き上がらせつつも、肉の柔らかさや温もりが感じられる。人間の手に金属をコーティングしたところで、こうはなるまい。

 だが、本物かそれ以上の生々しさがあるからこそ、その異質は際立っていた。

 美しく、ゆえに本物ではないような。しかし、彼にとってはそれしかない本物の。

「──『銀の弾丸』って知ってるかい」

 驚くばかりで何も言葉を発せずにいる俺に、カルドは自分の手を見つめたまま呟くように問うた。

「言葉だけならなんとなく……必殺技みたいなやつだよな」

「そう。悪魔を撃退できるって言われているんだけど、僕、悪魔なんだよね」

 冗談でも言うみたいに、軽やかに笑った。

「もともと、銀には聖なる力が宿っている。だから僕がこの手で魔物や悪魔に触れたら──まあ言うまでもないことだよ。僕の力が銀である以上、僕の魔力に関わる全ては銀になる。血も肉も、矛も盾も、悪魔にとっては魔力が全て。この身体の全てが魔力なら、僕の全ては仲間からは疎まれるものになる。……なんてね」

「…………、」

 二の句が継げなかった。生まれた瞬間から決められたにしては、あまりにも残酷すぎる運命だった。悲劇で彩られた人生を延々映してきた瞳の底など、人間の分際で見えるはずもない。

 孤独を運命づけられた手で、天は一体何を掴めと言ったのか。

「僕は同胞殺しなんだよ。『銀の悪魔』なんて呼ばれてね。……まあ、触っただけなんだけどね。まだ自分の力がどんなものか理解していなくて、……当時はこんな服装でもなかったからさ。手に何もしていなくて……差し出された手を取っただけで、悪魔が死んだ。触れたところから焼け爛れるように煙が出てね、……そのうち全部溶けてしまって。ついさっきまで人型だったものが、次の瞬間には血塗れの肉塊みたいな……まあ、悪魔に人間と同じような肉体があるのかっていうと微妙なところだし、そういう表現は過剰かもしれないけど……うん。……とにかく、血は未だに苦手で。トラウマってやつなのかもしれない」

 笑っちゃうよね、と彼は言った。乾ききった瞳で、声で──泣きそうに顔を歪める。それでも口の端だけは不器用に持ち上げているから、見ていられなかった。

「…………笑えねぇよ、なんにも……」

 途方に暮れ、俺は顔を覆う。今の俺の顔が誰にも見られないと思うと、感情の奔流が容赦なく外へと流れ出しそうになって参った。……でも違う。これは悲しいのではない。悔しいのだ。我が事のように悔しかった。なんで俺の好きなひとがこんな思いをしなくちゃならないんだろうと本気で思った。今なら無力な俺自身の責任など放り投げて、神すらも呪えそうな気がした。

「……そうだよね。僕が笑ったら、僕が殺してしまった悪魔たちが浮かばれない」

「違うよ……」

 ゆるゆると首を振る。……何も違いはしない。カルドの言うことも正論で、確かに彼は、なんの罪もない同胞を、その意思がないとはいえ殺してしまったのだろう。だが、そいつらは俺にとっては全部他人だ。テレビの向こう側の人間と何も変わらない。数日も経てば、同情ごと全部忘れる。……そうじゃないんだ。俺が今言いたいのは。

 なんでこいつはこんなに鈍感なんだろうと思う。いつもはあんなに鋭くて繊細なのに。なんで自分のことひとつわからないんだろう。自分に向けられる感情が理解できないのだろう。

 俺が心配しているのが、心を痛めているのが、顔も名前も知らない悪魔のためだとでも本気で思っているのだろうか。俺はそんなにお前にとって遠い存在なんだろうか。

「──なあ、俺は人間だよ。悪魔じゃない」

 外気に晒された銀の肌に、ゆっくりと触れた。驚かせないように指先を滑らせて、反応を確かめるように静かに握る。悪魔は一瞬だけ身を強張らせ、それから徐々に緊張を解いてゆく。……初めて、受け容れられた。

 その事実に俺はひっそりと息を呑み、そして──これが彼の「隙」なのだと悟った。つけ込むに値する、固く閉ざした心の隙間。今しかないのだ、カルドを俺の傍に繋ぎとめておけるのは。

 そう確信したから息を吸った。それと同時に、カルドはなおも黙って首を振った。余命いくばくもないみたいな表情が、透明な空気で満たされた肺を焼く。

 拒絶の理由に心当たりなんか微塵もなくて、焦燥感が百足となって心臓を這いずり回った。思えば、その心のさざ波こそが敗因だったのかもしれない。ほんとうは、ただ黙って抱きしめてやればそれでよかったのかもしれない。この瞬間に、無言で行動という名の洪水を流し入れて、悪魔らしくもない良心などぐずぐずに溶かしてやれれば。

 欲をかいた。身綺麗なままでこの世の全てを手に入れようとした。焦って余裕をなくして必死になって……言葉を尽くそうとしてしまった。

 この悪魔相手に必死になった人間など、ほかに掃いて捨てるほどいたはずだったのに。

「お前に触れても俺は溶けたりしない。俺は死んだりなんか──」

 力を込めてそう口にした瞬間に、溶けた。俺の手が、じゃない。カルドの手が。

 まるで俺の体温によって金属が融解していくかのように、どろりと形が崩れる。粘り気のある重い液体が、指の間を伝って俺の皮膚を覆った。自分の意図しないところで喉が震え、悲鳴じみた声が口から洩れ出る。

「キミだって死ぬよ。……僕の身体は水銀だから」

 俺はまじまじと、傍らの悪魔の目を見つめた。それと同時に、この事実をただの人間に打ち明けるのは、これで何度目なのだろうとうっすらと思った。この期に及んで俺は、カルド・レーベンという悪魔を求めた過去の人間たちに対して、優越を覚えようとしていた。

 ……本当にバカだと思う。愚かで仕方がないと思う。でも、俺はきっと狂ってしまった。目の前の男に狂ってしまった。だから見えるのだ。俺に語りかけるこの悪魔の表情が、子供のようにたどたどしく見えてしまう。

 それを打ち明けるのは俺が初めてなんじゃないかと、バカみたいな期待をしてしまう。

 真実がどっちだろうと、この悪魔の拒絶の意思は変わらないというのに。

「固体の時は銀、液体の時は水銀だよ」

 指の間から手の甲、腕へと流れ落ちた水銀が、逆再生されるようにカルドの腕へと戻っていく。液体だったそれがすっかり彼の体の一部となって輪郭を取り戻すと、その指先は俺の指に緩く絡みついた。

「もちろん物質としては全くの別物だよ。銀を溶かしたからって水銀になることはないし、水銀を固めたからって銀にもならない。でも、僕の身体はそうじゃない。僕の力は僕だけの法則に従って変質している。僕の身体をかたちづくるこの力は、魔力を流せば液体になるし、魔力供給から切り離せば固体になる。それに合わせて、僕の身体の一部は銀にも水銀にも変化する。……これが僕の性質で、天から賜った才能なんだよ、響君」

 わかってくれたかい、とでも言わんばかりに小首をかしげる。重力に負けた白銀の髪の一束が、繊細な光を放って赤い瞳の前を横切った。その一瞬が、涙を零す瞬間を切り取るよりも遥かに美しく映ってしまうものだから、俺はその引力から逃れるようにして再度項垂れた。俺の視界の外で、ゆっくりと指が解ける。離れていく。

「……わかんねぇよ、全然……わかりたくもない」

 俺は俯いたその場所で息を吸って、声に変換するために顔を上げた。俺の意識とは別物の、何か超自然的な力が働いたかのような、白昼夢中の行為だった。

「俺がお前を求める理由は、ただ──……ッ⁉︎」

 前のめりに訴えかけようと動いた身体が、不意に後ろに傾いた。気づくと俺の体勢はベンチの肘掛けに後頭部を打ちつける形をとっていて、それでも頭の後ろにある感触は硬くなく、痛みも感じず──その体温を髪越しに感じて、悪魔の手に抱えられていることに思い至る。──俺を押し倒したのも彼なら、庇ったのも彼だった。

「…………本当に、もう少し物分かりがよかったら助かったんだけど」

 鈍く獰猛に輝く赤い月がふたつ、夜空を背景にぽっかりと浮かんでいる。

 はあ、と忌々しげに吐くため息があまりにも近い。俺の四肢に覆い被さるその仕草は、獲物の喉笛を噛みちぎらんと鼻を近づける狼を思わせた。……それなのに、この獣の魅力的なことといったら。

 心臓よりも先に、俺の心も魂も全部絡め取り、抜き取ってしまいそうだ。

 このまま死んでもいいと、同じ景色を目にした人間の何割が思うことだろうか。……間違いなく全員だ。これこそが至福なのだと本気で錯覚した。捧げることが至上の喜びだったし、俺がそれをしようとすることでこの悪魔が苦悩し表情を歪めるなら、それはそれで本望だった。

 だって、こいつは自分が殺した相手のことを一生忘れない。忘れられなくなるほど、こいつの中で俺の存在が大きくなればいいと思った。あとは笑って差し出すだけだった。

 ……なのに、次の瞬間に俺の口から零れた声は、恐怖と戸惑いに震えていた。

「カルド…………おまえ、なに、」

 害されないとでも思っていたのだろうか。俺が相手に置いているのと同じだけの信頼を、親愛を、相手が同じだけ持っているとでも思っていたのだろうか。

 ……違う。この震えは、この感情は、この正気は──たぶん、相手の矛盾を直に感じてしまったせいで生じた代物だった。

 愚かな人間の魂を冷淡に睥睨する傍らで、それでもなお縋りつくように俺の左手を握りしめる銀製の指は、初めて聞く彼の弱音そのものだった。行為でも言葉でも隠しきれない彼の弱みを体温を通じて感じ取っているから、俺は至上の狂気に染まりきれない。

「僕はきっとキミを壊すよ」

 鼻先が触れ合いそうなほど詰められた距離で、囁き声を浴びる。揺らめく瞳に蠱惑の色が滲んで、ひときわ熱い吐息がかかった。

「──知ってるかい。水銀っていうのは気化した時の方がヒトの身体を蝕むんだ。僕がその気だったらキミ、今の一息で神経やられてたかもね。……まあ、その気にならなくても僕と一緒にいたら命はないんだけど。……きっと苦しいだろうねぇ。頭が狂って、変なものを知覚して、寒くて怖くて歩けなくなって、きっと何もできずに死ぬんだろうなあ」

 あの日みたいに──そう嬲るように耳元で囁かれて、声にならない呻きが洩れた。間を置かずに悪夢の映像が脳裏を駆ける。喉が引きつって、わけもわからず涙が伝う。……俺は今、悲しいのだろうか。怖いのだろうか。──あるいは、今この瞬間に初めて俺は、この悪魔からの洗脳を受けているのかもしれない。隷属しろという一方的な魅了チャームを。既に悪魔の毒が巡り始めているようで、呼吸すらままならない。

 ──それでも、混乱の只中でも、無理だと。情けなくもそう直感してしまった。

 こいつの抱えるものは大きすぎて、何も持たない、脆い人間の筆頭みたいな俺には、あまりにも荷が重すぎた。分け合ったって、きっと先に潰れるのは俺だ。

 こいつはそれを知っているから、分けてすらくれない。ひとつたりとも。

 だからこいつは今こうやって、俺の心を無理やりにでも蹂躙しているのだ。乱暴に言葉のナイフを突き立てて、ぐちゃぐちゃと音を立てて抉って、俺の心を殺そうとしている。……こんなにも近くで、独りの寒さに身を震わせているのに。

 …………全部、全部俺のためか。

「……俺が、……俺が弱いからか…………?」

 例えば俺が、この一生付き合うべき負のギフトを持って生まれてこなかったなら。

 例えば俺に、こいつの荷物を少しでも抱えてやれるだけの力があったなら。

 ……俺はこいつを引き止めることができたのだろうか。

 一生を、共に。

「大丈夫」

 悪魔は責め苦を与えるためだけに近づけた美貌をゆらりと離して、清々しく笑った。

「僕にとっては、ヒトも悪魔も等しく脆いさ」

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