断章2

「──響、わたしのせいで自分の弱みを見せなくなっちゃったんじゃないかなって思って」

 彼が初めて倒れた時のことを話した後、杏澄さんはそう言った。中身の減ったビールの缶を両手で持ち直すと、べこりと音を立てて側面がへこむ。

 彼の患っている病気は、簡単に言うと脳の疾患らしい。発作が起きると意識がなくなり急に倒れたりするが、それもまだわかりやすい方だという。周囲の人間にはただボーッとしているだけに見えても、発作が起こっているかもしれない。でも、本人にすらその時の記憶がないから、当然ながら発作が起きたという自覚もない。結果として周囲からは「人の話を聞かない」だの「無視された」だのと勝手な評価が貼り付けられていき、本人は──気がついた時には周りの人が怒っていたり悲しんでいたりする。……何も生まない、誤解だらけの世界が彼の周りに構築されていく。

「こう言っちゃうと嫌味っぽいですけどわたし、昔から優秀な子供だったんです。テストの点もよくて、運動も人よりできて。響が何かと病弱で体を動かすのに向かないっていうのは幼い頃からも理解していたつもりなんですけど、ぼんやりしがちだっていうのは完全に、個人の性質だとばかり思っていたので。……だから、人の話聞いてないとか、やたら物事を不安がったりとか、……そういう、なんて言えばいいのかな。消極的だったり散漫だったりするところを、一辺倒に個人の責任にしたがってしまったと言うんでしょうか。身体が弱いだけを理由にして全部片がつくと思ってたら大間違いだぞって、弱いからこそ人より努力しなきゃいけないことだってあるし、弱さをはね除けるだけの気の強さが必要なんだからって、よく言ってたんです。励ますつもりだった。少しでも胸を張って生きていけるようにと思って。でも……」

 彼が初めて意識を失ったのは、彼が高校に入ってからのことだったという。杏澄さんは彼の脳の疾患が見つかるより前から──おそらくは十年以上の期間にわたって定期的に──そんな助言をかけ続けていたのだろう。……何も悪いことはない。それは杏澄さんにとって間違いなく善意の言葉だったし、過酷な社会を生き抜くための正論でもあった。

「響の主治医は、『脳の神経が活発になりやすい』という表現をしました。だから必要以上の刺激を伝達した時はパンクして機能停止してしまうこともあるし、そうじゃない時も……人よりも多くの刺激や感情を受け取って生活しているんだって。……それを知った時、なんだか今までのことが全部繋がったような気がしたんです。響はよくわたしのことを『強い人だ』と言って……わたしはずっと、それを身体の強さのことだと思ってきたんです。学校のマラソン大会とか、部活とか……試験の前や受験期もよく徹夜しましたし。そういう『多少の無理をきかせる』ことがわたしにはできて、響にはできない。そういうことだと思ってた。でも違ったんです。それだけじゃなかった」

 顔を上げた杏澄さんの目は、アルコールで湿らせた以上に潤んでいた。戸惑いを隠せないといった風に、下の方で大きな瞳を泳がせる。

「響はきっと、わたしに言われるまでもなく頑張ってたんです。わたしが気づかないような些細な出来事や言動で傷ついて、わたしが『ふぅん』としか思わないような他人の感情にも、ちゃんと気づいて共感してた。きっと。だから疲れやすくて。……それなのにわたしは、弟の頑張っても埋めきれないところばかりを責めてた。もっと努力しろ、追いつけって、手も差し伸べようとせずに勝手に前を走ってたんだなって、思い知らされました。……ずっとそのことを謝りたかった。できることならやり直したいと思った。でも、その頃にはもう、響は笑って『大丈夫』としか言わなくなっていて……」

 その姿は容易に想像できた。何も傷ついていないからという風に頬を上げ、目を細め──もう放っておいてくれという本心を隠すために、足早に背を向ける。でも人との繋がりを完全に断ち切るには相手を傷つける覚悟が要るから──他人の助けなしで生きていくのは不可能だと自分自身がよくわかっているから、相手との関係を維持するために軽く手を挙げる。また明日とでも声をかけるみたいに。……今よりも少し若く、幼く、学校の制服を着ている彼。鏡に写った自分に、どこか似ている。

「ああ諦めてるんだなって、」唐突に吐き出された言葉に、魂が震えた。自分の本質を見抜かれたと錯覚した。「思いました。わたしのこと」

「……そんなことは、」

「いえ、いいんです」杏澄さんは目を伏せたまま、口元だけで笑んだ。ゆっくりと首を横に振る。「共感を示したところで、響には見透かされると思うから。響の中でわたしはずっと『強い人』で、相談してもらったところで、わたしの返答は腰を屈めて相手の目線に立ったつもりの他人の言葉なんです。……自分でもそう思う。わたしはどうしたって当事者にはなれない。想像しても及ばない。……昔みたいには、もう頼ってもらえない」

 杏澄さんは缶の飲み口を指先で丁寧に拭った。何度も──子供の頭を撫でるように。思い出を慈しむように。

 純粋に優しい人だと思った。自分にもこんな人がいてくれたらと彼を羨む程度には。

 でも、同時に重荷だろうなと冷めた感想を吐き捨てる自分もいた。自分を気にかけてくれる人が純朴であればあるほど、自分の罪が浮き彫りになる。負い目だけがこの両肩にのしかかってくる。……そのうち立っていられなくなる。

 その優しさだってどうせ、強者の余裕から生まれる同情でしかないでしょうと。

 そう静かに罵倒したくなる。そんな自分の屈折した心が汚くて、憎い。

「だから──あなたがいてくれてよかったなって、心から思います」

 いつの間にかまっすぐにこちらに向いていた視線が、重く身体の中心を刺した。

「わたしの代わりになんて傲慢なことは言えない。……でも、わたしは弟にとっての『強い人』であり続けるって、そう決めたんです。本当にどうしようもなくなった時に、わけも聞かずに笑って肩を貸してやれるような──実家の柱みたいな人間になるって。……わたしにはもうそれしかできないから。だから──弟のそばで、そっと傷を癒してやれる存在にわたしはなれないから──浅見さんに、託したい」

 たぶん、自分自身の傲慢をも飲み込み受け容れた強さで、杏澄さんはそう口にした。……深く頭を下げてまで。

「浅見さんみたいな友達がいてくれてよかった。これからもどうか、弟と一緒にいてやってください」


 


 あの時飲んだビールの苦味が、今になってこみ上げてきた。

 聞かなければよかったと思う。いや、聞くより先に彼を……殺しておけばよかったのだ。

 毎日のように殺す練習をした。自分の腕を捲り、手首にナイフを当て、この毒の血を無理やりにでも飲み込ませる。そして同じナイフで彼の首を搔き切る、あるいは心臓を一突きする──そんなイメージトレーニングを繰り返していた。

 だからだと思う。深く眠れずに起きて来られた昼間があった。目覚めずとも悪夢に魘されている一時があった。僕は眠っている彼の傍らに膝をつき、ずっと息を荒げて殺気を放っていた。眠りが浅くなるのも無理はない。

 いっそのこと、僕がナイフを構えて「殺せる、殺せる」と必死に自己暗示をかけていた、あの一部始終を聞いてくれていればよかったと思う。「お前のしていたことを知っている」と問い詰めてくれたってよかったし、気づいていたならその場で突き飛ばして怯えてくれればどんなに楽だっただろうと思う。

 それでも僕は──何も知らない顔をして歩み寄ってくる彼の無防備さに呆れつつも、確実に救われていたのだ。僕は安寧という名の幸福を知ってしまった。あまつさえそれを求め続けてしまった。……甘かった。

 死の鍵を見つけ出して魂を喰らう──それだけを目的に生きてきた。目的があったからこそ、ここまで自我を維持していられた。

 だから、考えもしなかったのだ。見つけた後、どうするかなんて。

 当然殺すものだと思っていた。契約を結んで、殺す。僕の場合は契約を結んだ時点で相手の人間が死ぬことは決まっているようなものだったから、契約を結べさえすればそれでよかった。無理心中だ。相手には申し訳ないけれど、これは一人の人間、一体の悪魔の枠で収まる話ではない。

 僕の魂がに渡ることさえ避けられればいい。だから一刻も早く正しく死ぬ。生き永らえることは許されない。

 ……そう思って生きてきたのに。

「…………殺せるわけがないだろう……」

 霞む意識をどうにか保ちながら、独りごちる。嗚咽を誤魔化すように奥歯を噛みしめる。

 ──限界だった。弱くなった。

 優しさに当てられて、誠実さに毒されて、おかしくなった。狂わされた。


『俺にあんたを助けさせてほしい』──と。


 そう言って手を差し伸べられた瞬間からだ。それまで張り詰めていた僕の中の何かが、音も立てずにほどけてしまった。決意とか覚悟とか、今更取り下げて後戻りなんてできるはずもない──僕が僕であるために保たねばならなかったものの全てが。


 ──ああ僕は誰かに助けてもらいたかったのかと。


 今まで考えないようにしていた全ての感情に、その一言で名前がついてしまったから。

 どう頑張っても救われた気になってしまうから、彼の言葉は罪深い。

 そんなの、縋りつかずにはいられないじゃないか。

 殺すなんてできるはずがないじゃないか。

 あんなに強くて優しいひとが、僕だけのために命を落とすなんてあっていいはずがない。


 あのひとのことを幸せにしたい。あのひとにだけは幸せになってもらいたい。

 だったら、僕に赦された献身は一つだけだ。


「──さよなら、僕の鍵。僕の心に触れてくれた人」


 僕みたいに嘘と逃避ばかりの人間だったら、どれだけ楽な生だっただろう。

 たった一本の赤い線を引き合わせた神を呪いながら、僕は先刻渡されたばかりの名刺に火をつけた。

 黒いインクで印刷された「真渕」の文字が、灰も残さず消えていく。

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