神学校へ2

 一日の中で勉学に割く時間が増え、俺は稀代のがり勉として過ごす事となる。

 日曜日、健康優良な子供達が降り注ぐ陽光の下で駆け巡り、やれ誰彼が一番石を飛ばしだの、やれ誰彼が一番早く泳いだだの、やれ誰彼が猪の角に突かれただのといった笑い声を聞きながら、俺は薄暗く辛気臭い部屋の中で羊皮紙を黒くしていった。

 数式、公式、年表、リンガ語を羊皮紙にペンで書き記す。積み上げた文献と空のインク瓶の数だけ知識が脳に刻まれ賢くなっていくような気がしていく反面、自身の無能を思い知っていった。覚えれば覚える分だけ分からない事が増えていく。一つを得たら十の不足が見え、十を得たら千の未知の片鱗を感知するのだ。勉学は途方もない。尻尾だけ見ればそいつが怪物だと分かるくらいに巨大な、圧倒的な存在だというのをこの時になって思い知ったのだった。恥ずかしながらテキストなど捲ってこなかった学生時代には、この恐ろしい化物がすぐ隣にいるなどとは気付きもしなかった。巨大だからこそ全貌が見えず気にもならないが、一度感知してしまえば目を逸らす事ができない。知恵とは、悪魔のような存在なのである。

 その怪物の存在に触れたが故に、俺の精神は少し狂気に冒された。夜に中々眠れず寝返りを繰り返し、立ち上がっては先程消したランプに明かりをつけて文献を読んでみてはまたランプの灯を消し横になったり、暗闇の中で覚えたリンガ語や聖書の暗唱をしたりして、ようやく意識が朦朧としてきたと思ったら夢の中でも同じ行動を繰り替えし、朝になると自分の立っている世界が現実か幻想か分からないままに身支度をして学校へ行ったり勉強をしたりしていた。起きていても寝ていても周期的にやってくる頭痛に襲われ、それでもなお文机に向かってペンを走らせていく。気が付けばブツブツと独り言を漏らしてはたとし、時にはランプの底に溶けて固まった蝋燭の蝋を齧って吐き出したりしていた。所謂ノイローゼというやつだろう。はっきりと述べれば常軌を逸脱しつつあって、戦死の前に過労死か社会的な死が目の前にあった。無差別殺人、自殺、破壊行為といった蛮行に手を出さなかった事を、我ながら賞賛したい。

 そうはいっても危ういところはしばしばあった。感情の部分で折り合いをつけるのに難儀すると、暴発しそうだった。

 この時分、もっとも腹が立ち殺害の一歩手前までいっていたのが教師のエッケハルト・フライホルツである。奴は私の事を贔屓して無暗に褒め称えながらも、二人きりになると酷く醜い、賢人のような面をして、さも自分が思慮深い人間であるといわんばかりの口ぶりで、どこかで聞いた事のあるセリフを俺に聞かせるのだった。




「いいかいオリバー。疲れすぎては駄目だよ。そうしないと、歯車に巻き込まれてしまうからね」




 俺はそんな戯言を聞いて「はい」と答えるだけ答えてはいたがいつか殴打してしまいそうで恐ろしかった。エッケハルト・フライホルツの言葉が耳に入ると全て怒りに繋がり不愉快で、感情を抑えるために大変な心労が伴った。教師というだけで上から目線で中身のない言葉を偉そうに吐き出す姿が醜悪だった。口から出される汚物の臭気に晒される自身の不幸を呪った。人間のクズが何の権利があって俺の人生に口出しするのか。教師という立場だけしか価値のない下衆な人間はさっさと徴兵されて人類栄華のために死ねと思った。

 俺はこのエッケハルト・フライホルツという男について、出会った当初から段々と嫌悪していた。ノイローゼにより過剰な敵愾心を向けていたところも否定はしないが、なにより無責任でお気楽なところがあるし原田に似ているしで、いいところなど一つもない人間に見えたのだ。本音を言えず、人前では「いい先生です」と方便を使い、本人の前では「僕の恩師です」とおべんちゃらを並べる。そうしなければ内心が悪くなり神学校への推薦を取り消されてしまう可能性があった。もしかしたらエッケハルト・フライホルツのせいで俺はノイローゼとなってしまったかもしれないが、事実確認が困難であるため明言は避ける。いずれせよ気に食わない教師であったが、神学校へ行くまでの辛抱だと我慢した。


 また、エッケハルト・フライホルツと同様に、父親役の人間も俺を心底疲弊させた。奴も奴で俺の身を案じ、「勉強だけが人生じゃないぞ」「もっと外で遊べ。部屋に籠ってばかりじゃ病気になるぞ」と父親らしい事をいうのだ。

 俺にしてみれば本当の父親ではないので大きなお世話以外に聞こえず鬱陶しく、「遊んでいる暇などあるか」と叫びインクの空瓶を投げつけてやりたかった。しかし俺が誰のおかげで勉強ができているのかといえばこの父親役の人間のおかげである。彼は俺にとってのスポンサーであるわけだから無下にするなどできるはずもなく、「たまにはいいかもしれないね」と、渋々外に出ては時間の浪費を惜しむのだった。

 父親役の人間に外出を勧められた際、俺は近くの川に行き、大きな木にもたれてじっと水が流れていくのを見ていた。そこでは昼間の光を蓄えた水面にチラと虹色が差し込む。魚の鱗が反射して、瑞々しい光沢を俺に見せびらかすのである。隈ができた瞼には、刺激が強かった。


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