神学校へ3

「やぁロルフ。釣りなどやってみないかい」


 川で呆けている俺に、たまたま通りかかった級友が釣竿を渡してきた事があった。俺はそれまで釣りの経験などなかったし興味もなかった。なにより、生きた魚を触りたくなかった。現実世界ではスーパーに並んでいる鮮魚だって買えないものだから、魚を食べたいときは鮭の切り身かパック寿司に逃げる生活だったのだ。釣りなどできるはずがない。



「せっかくお誘いいただいて悪いのだけれど、僕はどうも殺生ができない質なんだ」


「そんな事言わず。ほら、この竿を握ってごらん。それで、あの川の中頃にある岩のちょっと右側を狙って餌を投げてやるんだ。簡単だろ」



 無理やり竿を握らされた俺は初めての釣りを実行するしかなかった。狙いを定めて、掲げた釣竿を振り下ろす。そして、糸に繋がれた疑似餌は見事狙い通りの場所に落ちた。



「そいつを上手く動かすんだ。虫や小魚のようにね」



 抽象的なアドバイスを独自解釈し竿をゆらゆらと揺らす。疑似餌は右へ左へ不格好に水中を踊り、最終的に釣果なく俺の元へと戻ってきた。



「やっぱり駄目さ」



 俺がそう言って竿を返すと、級友は退屈そうにそれを受け取った。




「君って奴はちっとも遊び方を知らない人間だね。勉強もいいけれど、疲れちゃうだろう。もう少し、遊んだほうがいいよ」




 どこかで聞いたセリフだった。そして、誰かから借用したような言葉だった。彼がエッケハルト・フライホルツの差し金で俺に声をかけてきたのは明白だった。あの教師は同級生を使い私に勉学をさせないよう画策したのだ。なんて奴だろうか。エッケハルト・フライホルツは、私が度々川で休んでいるのを知って刺客を放ってきたのである。その日から俺は川に行く際、慎重に周りを警戒して人に見つかりにくい場所で座り込むようになった。今まで落ち着いていたところよりきまりが悪く、また、陽が入らないから雨の次の日などはじめとしていて不愉快だった。全てエッケハルト・フライホルツのせいである。


 エッケハルト・フライホルツの親切心は悉く俺にとってマイナスの作用しかもたらさなかった。もしかしたら内心俺の事を憎んでいるかもしれないとも考えたが、さすがにそれは邪推が過ぎる。だいいち、奴にそこまで高度な思考はできない。あの教師は純粋に、心の底から俺に休養を取らせようとしているのだ。花の咲いた脳味噌で、「チャレンジする事に意味がある」とか、「やりすぎはよくない」とかといった甘っちょろい価値観が正しいと平気で信じているのだ。よしんば平時であればそれは人格者の特徴として数えられるかもしれない。しかし今は戦時中で、人類の存亡がかかっている状態。そんな時に奴の悠長な考え方は受け入れられない。俺はとうとう校長を捕まえて、次のような嘆願を行ったのだった。



「勉学に集中したいのですがどうも物足りないのです。シュトルトガルドの学校に通うか、知見のある方を招いて教えを請い、それを授業の代わりとしたいのですが」



 俺の要望は受理された。シュトルトガルド行きは認められなかったが、家庭教師としてシュトルトガルドの識者を呼んでもらえる事となった。爵位はないが貴族である。ハルトナーの縁を頼ったのは言うまでもない。

 これについて両親は当初相当困惑したようだったが、相手が貴族だと知ると二つ返事で承諾した。時折俺のがり勉を咎めていた父親役の人間も貴族が教えてくれるとなると諸手で喜び「寝る間も惜しんでしっかり勉強するんだぞ」と素晴らしいダブルスタンダードを見せたのだった。名字の件もそうだがどうもこの人間は権威主義なところがある。目的の邪魔をされないのはいい事だがその俗物根性には呆れるばかりだった。もしかしたら貴族が「靴を舐めろ」といったら喜んで底にこびり付いた泥や犬の糞を舌で舐めとるかもしれない。家庭教師代(ハルトナーは無償でいいといったがそれはできないと相場より遙かに安い金額を支払う事となった)を出してもらった手前、これ以上悪くはいえないが、奴はそんな人間だった。


 かくして、一流の学者から一流の教育を受ける機会が巡ってきたのだった。これまで自ら進んで勉学に励むなど考えもしなかったが、人生とは往々にして予期せぬ事態に見舞われ、不本意な生き方をしなければならないものである。抗うだけ無駄であるため、受け入れるしかない。




「ごきげんようオリバー・ロルフ。私はフィリップ・ジィーボルト。ハルトナー伯爵から頼まれ君に学問の戸を開かせにやってきた。伯爵とそのご子息のご好意を無駄にしないように。それから、言葉や態度は弁えるように。私は貴族で君は庶民なんだからね。いいね」



 ジィーボルトは最初、鼻もちならない人柄のように感じた。貴族とはこうも人を見下せるものかと軽蔑しつつ、外面だけは従順なふりをしてやり過ごした。こいつから学ばねば明日はない。生きるために、俺はプライドも自由も捨てると覚悟を決めていた。だがジィーボルトはただ偏屈なだけで別段俺を軽視しているというわけではなかった。例えば俺が教えられた事を正確に答えてみせると「庶民だが素晴らしいじゃないか」と称賛し、誤ると「いいかい庶民のロルフ。これはこのように答えるのだ」という具合にご教示いただけた。どうもこのジィーボルトは差別こそするものの人に対してぞんざいな扱いをするわけでもなく、価値を認めないというわけでもなかった。彼の独特な価値観と口振りは、所謂キャラクターという事で俺の中で処理を進めた。


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