第5話 5月14日(日):俺と一緒に温泉極めない?

 咲華之湯の露天風呂エリアは、五つの種類の温泉がある。

 九壇が泉質オタクであることが判明するきっかけとなった源泉かけ流し湯。その過程で話題に上った寝ころび湯。九壇と出会った楽華の湯にもあるつぼ湯。源泉を加熱して適温に調整した天然温泉。それから、美肌効果・冷え性・肩こりなどに効果的な高濃度炭酸泉。

 野外ベンチでしばらく涼んだ七里は今、つぼ湯にはまって寛いでいる。


 つぼ湯とは、その名の通り壺の中へお湯を溜め、湯を独り占めするための風呂だ。贅沢にもお湯をざぶりと溢れさせ、ぴたりと壺にはまってのんびり過ごす。

 大風呂のように足を伸ばすことはできないけれど、好きな体勢で丸まって浸かれるつぼ湯は心理的にも心地よかった。

 七里は、踵を壺の縁に乗せて足首から先を湯船の外へ出しながら、隣のつぼ湯でタオルを頭の上に乗せ、まったりしている九壇に話しかけた。


「九壇くん、十種類の泉質って、なにがあるの」


 七里は別に、温泉好きというわけじゃない。湯ノにゃんスタンプを使っていたのは偶然で、どちらかといえば猫が好きだからという理由で集めていただけ。

 そんな七里は、情熱的に泉質を語る九壇の姿に絆された。

 元バスケ部なだけあって引き締まった肉体を持つ九壇は、その外見とは裏腹に、泉質の変遷歴や咲華之湯と楽華の湯の違いについてスラスラ流暢に紡いでいた。

 ただ好きなだけでは語れない、よほど情熱的に追いかけて研究しなければ口をついて出てきやしない話を浴びて、七里はいつの間にか九壇へ尊敬の念を抱くほどだ。

 だから、話の続きを聞いてみたかった。七里はよく晴れた青い空を眺めながら、鼻歌でも歌うかのような暢気さで言った。


「教えてよ、泉質のこと」

「えっ、ほんとに話、続けていいの。マジかよ七里……最高すぎない?」


 ざぶ、と九壇が浸かっているつぼ湯のお湯が波打ち溢れる。頭に乗っていたタオルもべしゃりと壺の外へ落ちた。

 何事かと思って七里が隣を見ると、凛々しい目を大きく見開き、嬉しそうに顔を歪ませた九壇が、身を乗り出して七里を見つめている姿が見える。


「ふは。いいよ、続けて」

「最高の友よ、ありがとう! 早速だけど、気になる十種類の泉質な。まずはここ咲華之湯と同じ塩化イオンを主成分とする塩化物泉ね。保湿効果が高いから『温まりの湯』って呼ばれてる」

「……待って。今、イオンって言った?」

「言った。なに、七里。イオンとか好きなの」

「そういうわけじゃない。いきなり化学的な用語が出てきたから驚いただけ」


 まさか温泉の話でイオンが関係しているとは思わなかった。

 けれど、よく考えてみれば、さもありなん。この世の物質はほぼ全て解明されていて、無機物に至っては、イオンがどうとか電子がこうとか陽子がそうだとか、そんな化学用語で表すことができるのだから。

 七里の驚いた様子に気を良くしたのか、九壇がニヤリとしたり顔で笑った。


「おっ、目の付け所がいいね、七里。そうなんだよ、今、使われてる泉質名ってさ、イオン表示なんだよ。新泉質名っていうんだけどさ。昔昔は、炭酸泉とか重曹泉とかわかりやすい名前だったんだけど」

「待て待て、待って」


 泉質の種類を定めることに変遷があったことは聞いている。

 けれど、新泉質名って、なんだ?

 新があるなら旧もあるのか。四、五回くらい泉質種類が変わっているから、もしかしてその度になんちゃら泉質名だなんて名称変更がされたのか。

 九壇くんはもう少し、泉質初心者に優しくしてくれてもいいと思う。だなんて思いながら、七里は九壇に抗議した。


「九壇先生、オレ、その新泉質名っての説明受けてません!」

「あ、そうだった」


 いっけね。と頭の後ろをガシガシ掻きながら九壇が舌を出す。


「えっとねー、温泉ってさ、温泉の成分を掲示しないといけないんだけど、その成分が書かれているのが温泉分析表ね。ほら、脱衣所に貼ってあったでしょ? あの分析表に泉質名が書かれているんだけど、ここに書かれているのがイオン表示の新泉質名。どんな物質が含まれているのか明記されています!」

「イオン成分の組み合わせなら、十種類以上ってことじゃん。……じゃあ、十種類の泉質って結局なんなの?」

「そっちは掲示用泉質名です!」

「……ややこしくない?」

「だよな! なので、温泉の詳しい成分を表しているのが新泉質名。ざっくり大まかな分類が掲示用泉質名って覚えて帰ってください!」


 九壇がニカリと朗らかな笑顔を浮かべる。その表情を見て、温泉の種類や成分を目にするとき、きっとこの爽やかで男前な笑顔を思い出すんだろうな、なんて七里が思っていると、隣の壺に浸かる九壇が、急に真面目な顔つきで切り出した。


「で、肝心の十種類の掲示用泉質名なんだけど」


 どうやら泉質の話はまだ終わっていなかったらしい。

 確かに十種類の泉質がなんなのか聞いてなかったな、と思いながら、七里はいつの間にか九壇の真剣さに釣られて壺の中で正座をしていた。

 じょぼぼ、と壺へと注がれるお湯の音を背景に、真剣な眼差しをした九壇が語り出す。


「単純温泉、塩化物泉、炭酸水素塩泉、硫酸塩泉、二酸化炭素泉、含よう素泉、含鉄泉、酸性泉、硫黄泉、放射能泉の十種類です! 咲華之湯と楽華の湯はナトリウム塩化物泉だから、掲示用泉質的には、塩化物泉ってこと」

「新泉質名的にはナトリウム塩化物泉ってことか……これはテストに出ますか、先生」

「テストしていいの!? 付き合い良すぎじゃん、七里!」

「覚えるの、別に苦じゃないし……いいけど」

「ありがとう、運命友よ! ……でもテストはしない。俺が温泉話するときに思い出してくれればいいから」


 そう言ってはにかむ九壇の頬は、ほんの少しだけ照れて赤くなっていた。


「俺さー、泉質オタクだからさ。当面の目標は十種類の温泉コンプリートなんだよね。やっと高校生になってバイトもできるようになったから、夏休みには温泉旅行に行きたいんだよね」


 緊張を解いた九壇が壺の中で長くしなやかな四肢を伸ばすと、ざばり、と湯が揺れて溢れていった。九壇は目を伏せ、琥珀色の湯面を見つめながら、何度も腕を振るってお湯を波立たせている。


「もう夏休みの話? 九壇くん、気が早すぎない?」

「夏はあっという間に来るんだって! 今から計画立てて準備しないと秘境には行けないでしょ」

「ひ、秘境!? 九壇くん、秘境に行くつもりなんだ!?」


 驚いた七里の声が裏返る。

 この男は本当に自分と同じ高校一年なんだろうか。そんなことさえ頭をよぎった。

 七里の頭の中にあるのは、もっぱらプログラムのことだけだ。九壇のように、高校生活を満喫しようだとか、夏休みを有意義なものにしようだとか、そんなことは頭になかった。

 学校に友人はいないし、情報処理部に所属はしているけれど、ほぼ出ていない。自宅でパソコンに向き合って、プログラムを書くことだけが生き甲斐だ。


 今はPythonでコードを書いているけれど、将来を見越して使える言語は増やしたい。その将来だって、プログラミングをエキスパートになるか、それとも総合的なI Tエンジニアになるか迷っているところだ。

 技術は多く持っている方がいいとも思うし、中途半端な技術と知識しか持てないなら深く突き詰めた方がいいのだろうか、とも思う。

 その答えを出すためにも高校では情報処理部へ入部したけれど、主な部活動は資格取得や大会を目指してひたすら問題集を解き続ける、という内容だった。

 もっと自分でサーバを立てたり、アプリケーションを開発するような部活だと思っていたのに、完全に調査不足であった。


 思っていた活動内容と違う部活動。退部することも考えたけれど、七里が通う稜泉高等学校は部活動への入部が義務付けられている。今更、プログラムとは関係のない部活へ入り直すよりも、多少なりともコードの気配やアルゴリズムの匂いを感じられる処理部の方がまだマシだった。

 そんな風に中途半端な高校生活を送っている自分とは大違いだ。七里の中で、九壇へ向ける尊敬の念がますます強くなる。


「凄いな……夏休みに秘境温泉か。もしかして、旅費のためにバイトとかしてんの?」

「してるよ。ホームセンターの裏方のアルバイト。それから、スーパーの荷出し係とかも」

「えっ、もっとオシャレなバイトかと思ってた。九壇くん、カッコいいのに」


 高身長で体格も顔もいい九壇はカフェや服屋で雇ってもらえそうなのに、まさかの地味系裏方バイトで驚いた。

 七里が瞬きを繰り返していると、九壇があはは、と笑いながら話を続けた。


「それ、バイト先のおばちゃん達にも言われたなー。でも俺、接客向いてないよ。七里とスラスラ話せてるのは、温泉の話してるからだし」

「……そういうもの?」

「そういうもの! それに、高等部に進学するまでバスケ部だったからさ、頭と口を使うより、身体使うバイトの方が向いてんだよね。あと、体力落としたくないし。温泉ってさ、結構カロリー消費すんだよね。貧弱な体力だと温泉巡りできないからさ」

「……めちゃめちゃ温泉ファーストな思想だった」


 清々しいまでの温泉第一な思考で、七里は感嘆のため息を吐く。

 九壇のように、好きなもののためにひた走ることができれば、迷いや不安が消えるだろうか。あるいは、九壇とともに温泉を巡れば彼のような境地に立つことができるだろうか。満面の笑顔で親指を立てている九壇を見ながら七里は思う。


「なあ、七里」


 そんな七里の考えを読んだのか、否か。

 九壇が真っ直ぐ七里を見た。陽の光を移した湯面に反射した波模様の光を黒い目の中に湛えた真剣な視線が、七里をジッと見つめている。


(あっ。その目はずるい)


 決して七里にはできない眼差しに、ほんの少しだけ嫉妬した。ゆらゆらと揺れる湯面に、ザバザバと流れ込むお湯。周囲は人がやってきて騒々しくなりはじめているというのに、七里の耳に届くのは、自分の息遣いと心臓の音だけ。次に九壇がなにを言い出すのか、漏らさず聞き取ろうとする耳が、自分の集中力が、九壇の大きな口元をジッと凝視させた。

 そうして——。


「俺と一緒に温泉極めない?」


 九壇の真っ直ぐな誘いに、七里は迷うことなく頷いた。

 温泉を巡り語る九壇の姿を間近で見たら。ともに旅をして温泉を巡ったら。九壇のようになれるかもしれない、と。


「次会うときまでに、泉質テスト考えてきてよ。オレ、勉強してくるから」


 七里がそう言うと、九壇はホッとしたように破顔して、ぐにゃぐにゃになりながらつぼ湯の湯面をバシャバシャ叩いて喜んでいた。

 それを見た七里もまた、照れたように破顔して、お湯の中で手を組んで水鉄砲を作ると、びゅ、と九壇目掛けて勢いよく噴射するのであった。






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第一部・完、といったところで、少しお休みいたします。

再開は7月を目指したいところです。よろしければ、作品フォローなどしていただけると嬉しいです!





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ふたり、湯船に沈む。〜そうだ、温泉行こう!男子高校生の温泉巡り〜 七緒ナナオ @nanaonanao

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