第4話 5月14日(日):肉体の幸福がここにはある

 大宮駅からニューシャトルに乗り換えて原市駅で降りて徒歩五分。

 咲華之湯は、アジアの雰囲気が香るような白い建物で、アジアンテイストの落ち着いた内装の日帰り温泉施設である。

 二階建てで受付や食事処が一階、浴場は二階にあり、岩盤房と名付けられたサウナ施設もあるけれど、今日は利用はしない方向だ。


 なにせ一日の時間は限られている。

 二十四時間しかない時間のうち、相棒である七里と温泉を堪能する時間はせいぜい二、三時間だ。着替えと食事を入れればもっと少なくなるだろう。

 幸いにも咲華之湯は、日曜日ではあるけれど、まだ九時台であるせいか混雑はしていない。


(やっぱ、混む前に堪能したいよなぁ……! 広い湯船に入りたい放題……最高ッ!)


 九壇は胸の内にじんわりと広がる高揚感に酔いしれながら、九壇はキョロキョロと辺りを見渡しながら脱衣所の暖簾のれんをくぐる七里に声をかける。


「七里ー、ちゃんと朝飯、食ってきたよな?」

「それは大丈夫」

「おっけー、わかってるじゃん」


 九壇はニカリと笑ってロッカーの扉を開けた。

 食事を取らずに血糖値が下がった状態で入る温泉は、危険だ。立ちくらみや貧血になりやすく、せっかくリラックスしにきた温泉で具合を悪くするなんてことになりかねない。

 チラリと七里を窺うと、九壇が開けたロッカーから二つ離れた扉を開けて背負っていたバックパックを入れていた。

 七里が眼鏡を外したところで、バチリと目が合う。

 視力は悪くはない、と言っていたから、興味津々で見つめていた間抜けな顔をバッチリ見られたかもしれない。


(うわ、カッコ悪ッ! 他人の着替え、見る趣味あるとか勘違いされたら死ねる!)


 九壇は、ポーカーフェイスが上手くない、と西條に指摘されたことを思い出し、バツが悪そうに赤く歪む顔を隠すようにロッカーの中へ顔を突っ込んだ。


(失敗した……バスケ部の着替えのときの癖、完全に出てた……)


 入浴用のタオルやら何やらをゴソゴソと用意しながら、まだ温泉に入ってもいないうちから赤く火照る頬が冷めるのを待つ。

 不自然な沈黙の中で焦る九壇は、そういえば、と思い出した。七里がはじめて咲華之湯に訪れたらしいことを。

 そうしたら、途端に口も気持ちも滑らかに動き出した。


「ここ、楽華の湯と同じく露天風呂に源泉掛け流しとつぼ湯があるんだ。こっちは内風呂の種類が豊富で楽しいけどな!」


 もう完全に落ち着きを取り戻した九壇は、ロッカーから顔を抜き、七里に向かって親指を立てた。


「泉質は、低張性・弱アルカリ性のナトリウム塩化物泉。成分は海水に似ていて、ミネラルや鉄分を多く含んだ天然温泉だ」

「……鉄分? もしかして、ここの温泉も薄めたコーヒーみたいな色、してんの?」

「薄めたコーヒー! ふは、面白い表現するね、七里。琥珀色とか茶褐色って言うんだけど……くくッ、確かに薄めたコーヒーみたいな色だ」


 困惑気味に眉根を寄せる七里の顔が面白くて、九壇は何度も吹き出してしまう。

 笑うたびに七里の顔が赤くなる。それを見て笑うのは失礼だ。笑ってはいけない。いけないのだけれど、駄目だと思うと余計に笑ってしまうのが人間だ。


「ユニークでいいね! ふふ……薄めたコーヒー!」


 ついには肩を震わせ、腹を抱えて笑いを堪える九壇に、七里が赤い顔のままムキになって抗議する。


「お、おい。笑うな!」

「ごめん、ごめんて! ……七里はコーヒー、よく飲むの? プログラムやってるやつって、そういうイメージあるんだけど」


 抗議をしても手やら足やらが出てこない七里の理性の強さと育ちのよさに感心しながら、九壇はさりげなく話題を変えた。


「好きってわけじゃないけど、眠気覚ましに飲む。味でいうなら緑茶のほうが好きだから」


 変えられた話に眉を顰めることもせず、七里が素直に応じる。そのれていないさまに、九壇は思わず瞠目した。


(やっぱり、湯ノにゃん好きに悪いヤツはいない……!)


 九壇は、気を抜けば涙してしまいそうな涙腺をバサリと黒いプルパーカーを脱ぐことで誤魔化す。どうやら七里は気づいていない。成功だ。

 そうして九壇は、コーヒーよりも緑茶派だから七里は琥珀色の温泉に引っかかりを覚えたのかもしれない、と想像を巡らせながら、話を広げていく。


「緑茶はH O T派? C O O L派? 急須で入れて飲むタイプですか、それともお手軽ペットボトルですか?」

「……なにこれ、インタビュー?」

「親睦を深めようと思って。でもこれ以上は温泉に浸かってからにしよう」


 ニカリと笑った九壇は、脱衣が進んでいない七里に向かって、片目を瞑ってバチコンとウィンクしてみせるのであった。






「はぁ〜〜〜、魂が洗われる……さいこう……」


 露天風呂エリアの源泉かけ流し湯に肩まで浸かった九壇は、歓喜のため息を垂れ流しながら呟いた。

 ぬるめのお湯は、浸かりはじめは少し物足りなさを感じるけれど、時間をかけてじわじわと身体を暖めてくれるのだ。

 頭を湯船の縁に乗せ、仰向けになる。手足を伸ばして少し身体を浮かせると、重力から解放された気分になるから不思議だ。

 人がまばらの九時台だからこそできる体勢で、九壇はしみじみと息を吐き出した。


「さいこう……さいこう……」


 繰り返されるのは、あまりにも語彙のない言葉。人は常に理屈とともには歩めない。感覚的に単純な言葉を漏らす時間だって必要なのだ。

 と、九壇が理屈っぽく思いながら湯船に揺られていると、九壇の隣でお行儀よく両膝を抱えて湯に浸かる七里が、律儀にも言葉を返してくれた。


「気持ちはわかる……うん、わかる」

「だよな! 朝風呂、最高だぜ……。足を伸ばして入れる空間、肩まで浸かれる喜び……。肉体の幸福がここにはある……。見なよ、七里。空が青いぜ……」

「オッサン臭いね、九壇くん。いつもそんな?」

「割とこんな」


 九壇はそう言いながら身体を起こし、湯船の中で胡座をかいた。ざぶ、と琥珀色の湯が揺れて、縁から外へと流れてゆく。仰向け体勢はスペースを取りすぎるから、長時間することはない。

 なみなみと揺れる湯面をうっとりと見つめながら、九壇は両手で琥珀の湯を掬って言った。


「……咲華之湯はさぁ、お湯加減がちょっとぬるめなのが最高なんだよね。いつまでも浸かってられるから。あと、温泉に含まれてるナトリウムがさぁ……皮膚に付着して汗の蒸発を防ぐから、湯冷めしにくいんだよ。いつまでもぽかぽか温泉気分って、ほんと最高……」

「……もしかして九壇くん、あそこの寝ころんで浸かる浅い湯船で、昼寝したことある?」


 七里はそう言いながら、露天風呂エリアの片隅に設置された寝ころび湯を指差した。

 寝ころび湯は、その名の通り寝転んで温泉を楽しむエリアだ。湯船は浅く、枕となる石が設置されている。

 頭部分には簡易的な仕切り壁もあって隣人と気まずくなることもないし、全身を脱力状態にできるから手軽にリラックスできるのだ。

 九壇は夏になると、寝ころび湯で昼寝をする趣味がある。できれば通年、昼寝をしたいのだけれど、夏以外だと風邪を引く恐れがあるから自重しているのである。

 それを言い当てられて、九壇は思わず破顔した。


「凄ぇ、よくわかったな!」

「……いや、わかる。……うん、わかるよ」


 しみじみと返した七里は、湯船の中で両腕をぐぐぐと伸ばしながら続けた。


「そういえば、楽華らっかの湯もここと同じ薄めたコーヒー……琥珀色の湯船だけ」

「違うから! 同じように思えるかもしれないけど、違うから!」

「な、なにが違うんですか、九壇くん……」


 九壇の剣幕に驚いたように七里が少しばかり後ろへ下がる。その距離を、九壇は無遠慮に詰めて物申した。


「聞いて、七里。同じナトリウム塩化物泉でもここ咲華之湯は、低張性・弱アルカリ性! 楽華の湯は、強張性・中性のナトリウム塩化物強塩温泉! 水温だってこっちは三十七.六度、あっちは三十九.二度! しかもあっちの計測時の気温は七度で、こっちは二十三度だから、あっちの方が断然熱い!」

「あ、はい……」

「香りだって、こっちはほぼ無臭に近いけど、あっちは匂いがあったでしょ! つまり、含まれている成分に違いがあるってこと! 色だけで判断しないで!」


 顔を首まで真っ赤に染めた九壇は、鼻息荒く七里に詰め寄った。だって、仕方がない。これだけは流せなかった。温泉の色が同じというだけで、成分や水温、効能が同じだと思われてはたまらない。

 そんな興奮しきった九壇の様子に、七里が申し訳なさそうに俯いた。


「ご、ごめん……」


 乱れる水面のように揺れる七里の声に、ようやく九壇が正気を取り戻す。


「あ……いや、俺もごめん! ごめん、ホントごめん! ちょっと熱く語りすぎた。七里が温泉好きでも泉質まで深く掘り下げた泉質オタクだとは限らないのに……ごめん」

「いや……大丈夫。オレ、泉質なんて着目したことないから……よかったら教えてくれる?」

「し、七里……っ! ありがとう七里、やっぱり運命だ!」

「は?」

「ごめんごめん、こっちの話。ええっと……なんだっけ。泉質の話……マジでしていいの?」


 これまで出会った温泉好きは、主に旅の目的地としての温泉が好きな人だけだった。多少、泉質の話ができても大まかな分類程度の話だけ。

 だから正直、九壇は七里に期待をしていなかった。


(七里は多分、温泉エンジョイ勢だ。それなのに、それなのに……!)


 色付き眼鏡をかけていない七里の表情を、そっと窺う。九壇に気を遣っているようには見えない。勢いに呑まれたようにも見えない。

 やはりこの出会いは運命だった。湯ノにゃんが結んでくれた奇跡の出会い。ありがとう、湯ノにゃん。一生、推す。

 そんな過激な思想に浸る九壇の様子が面白かったのか。七里が喉を震わせて笑いながら頷いた。


「いいよ。情熱的に語ってる九壇くん、面白いから」

「お、面白!? そ、そっか……七里が楽しいなら全然話す!」

「よろしくお願いします、九壇先生」

「おう! じゃあ……まずは泉質の種類からな」

 言って、九壇は講義前の教師のようにゴホンとわざとらしい咳払いをした。

「あー……、ナトリウム塩化物泉とか、そういう大まかな温泉の種類ってこと?」


 どうやら七里は飲み込みが早いらしい。湯船の中で小さく挙手をして質問する七里に、九壇はにんまり笑って「七里くん、いい質問ですね!」と教師ごっこをしたまま続ける。


「そう! 泉質の種類はさあ、時代とともに変遷が激しくてさ。めちゃめちゃ古い時代には十七種類もあったんだ。でも、一九七六年に十一種類に制定されて、その三年後の一九七九年には九種まで厳選されたわけなんだけど……」

「だけど?」

「掲示用泉質名ってのが登場して、一九八二年に十一種類まで戻って、二〇一四年にできた鉱泉分析法指針ってのができたことによって十種類に落ち着いてる、って感じ」


 ここに黒板かホワイトボードがあれば、もっとわかりやすく説明できたのに。だなんて思いながら、九壇は七里に身振り手振りを交えながら説明をしていく。


「で、だ。この泉質名っていうのは、療養泉っていう温泉の中でも療養に役立つ泉質を持ってる温泉にしかつかないんだ。そういう温泉は、温泉法っていう法律があるんだけど、温泉法上の温泉っていう名もなき温泉ってことになるわけ」

「えっ……なにそれ、泉質の種類だけでそんな歴史と分類があんの?」

「だろ? 凄いだろ? ロマンを感じるだろ? もっと深く語れるけど……一旦、休憩しよ」


 九壇はそう言って話を切り上げて、源泉かけ流し湯からざばりと上がる。火照った身体を通り抜けてゆく五月の風が心地よい。

 ぬるめの温泉だとはいえ、長々浸かればのぼせもする。温泉に浸かれば血行が促進されて基礎代謝が上がり、勝手にカロリーが消費していく。

 それに、今日という一日はまだはじまったばかりだ。たった一つ、露天風呂に浸かっただけで終わらせなどしない。

 せっかく泉質について語り明かしてもいいと言う友人ができたのだから。


 そういうわけで、九壇はバスケで鍛えた肉体を惜しみもせずに晒しながら露天風呂エリアに設置された野外ベンチに腰掛けて、慌ててタオルを腰に巻いて湯船から上がる七里を手招きするのであった。





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