第3話 5月14日(日):友達と温泉に行くんだけど

 約束の日曜日が来た。

 九壇から七里へ送られたM I N Eは、月曜深夜に送られた日時と集合場所を指定したひと言だけ。

 寝落ちる直前に送られたメッセージを既読にした七里は、翌朝もう一度目を通してスタンプをひとつだけ送った。

 送ったスタンプは、湯ノにゃんだ。

 数ある猫キャラスタンプの中でも、湯ノにゃんスタンプは丸くてふわふわしていて癒されるイラストで、ここ最近はずっと湯ノにゃんスタンプを使っている。


(なんかあの人も、猫キャラ好きみたいだし)


 湯ノにゃんは、純粋に猫キャラとして可愛い。それだけじゃなく、使い勝手のいいスタンプで構成されているから、つい、他意はなく使ってしまう。

 送られた先で、九壇が見当違いの確信を深めているとも知らずに。






 そういうわけで、七里は素直に戸原パーク駅前に八時五分前に到着していた。

 家から乗ってきたコーダーブルームのダークブルーのクロスバイクを市が管理している高架下の有人自転車駐輪場に止めて、ワイヤー錠の鍵をかける。


「こんな朝早くから、どこまで行くつもりなんだか……」


 ぼやきながらも、こんな風に外出することに心が躍ってしまっている。家族以外と外出するなんて、もしかしたら中学以来かもしれない。

 これから会うのは、先週、温泉施設で出会った他校の男子高校生で、会話もろくにしていないやつだ。

 どこの誰かもわからない、名前と学年しか知らないやつと、これから温泉に行く。特別好きになるほど入ったことのない温泉に。


 それはなんだか非現実染みていて、七里は恐れよりも好奇心が勝った。


 前夜はうっかり興奮して寝れなくて、気持ちを落ち着かせるためにPythonの外部ライブラリの更新情報をリスト化して出力するバッチを自作してしまった。

 おかげで今日も少しばかり寝不足で、目元のくまを隠すためにべっ甲柄の逆台形ウェリントンフレームにブラウンカラーの調光レンズをはめ込んだ眼鏡をかけている。


「温泉……温泉か」


 ふ、と頬を緩める七里の準備は万端だ。

 背負ったバックパックの中には日帰り温泉に必要だと思われる荷物を詰め込んで、軍資金おこづかいだって母親からいくらか受け取ってきた。


「友達……と、温泉に行くんだけど」

「あら、そうなの! 帰りが遅くなるようなら、連絡しなさいよ」


 という会話を経て、三千円を渡された。別に小遣いをねだったわけじゃなかったけれど、資金はあるに越したことはない。ありがたく頂戴して二つ折り財布に納めてきたというわけである。

 そういうわけで、七里は九壇との待ち合わせと温泉を密かに楽しんでいるのであった。


「連絡、来てるかな……」


 七里は小さく呟くと、バックパックのショルダーストラップに後付けしたスマホケースからスマートフォンを取り出して、九壇からのM I N Eが来ていないか確認した。

 けれど、通知欄には九壇のくの字もない。


「……あのひと、やる気あんのか?」


 九壇からのM I N Eは、月曜日に送られてきた要件だけだ。その後はなんの音沙汰もないし、今だってそう。

 画面上に表示された時間は午前七時五十八分。二分もあれば、改札前まで余裕だ。

 七里は少し不安になりながら、戸原パーク駅の改札口を目指して階段を上がる。スマホを握りしめる手のひらに、じわりと嫌な汗が滲む。


(もし、いなかったら……?)


 十分にあり得る未来を想像すると、七里の胸がズキリと痛んだ。

 七里は九壇を完全に信用しているわけじゃない。それでも約束を破られるのは、相手が誰であっても辛い。

 階段を駆け上る足の速さが、七里の焦燥を表すように早くなる。ととと、と跳ねる足だけが軽快で、胸の内は鉛を流し込まれたかのように重い。

 七里が最後の一段を登り切り、顔を上げて改札方向を見たその時だった。


「七里ー! おはよー!」


 と。朗らかな声で呼ぶ九壇の姿と笑顔を見た七里の胸が、途端に軽く感じられた。鉛も痛みもどこへやら。なにもなかったかのように楽になる。

 朗らかな笑顔を浮かべる九壇は、黒のプルパーカーにジーンズで、肘まで捲り上げた腕を大きく振っている。

 七里は無意識に駆け出して、九壇の元へと弾むように急いだ。


「……九壇くん、早いね」

「これでも元バスケ部だから。五分前行動が基本になってるってだけ。七里こそ、遅れてないんだから走らなくてもよかったのに」

「いや、無理でしょ。時間関係なく先に待ってるやついたら、走るでしょ」

 七里は握っていたスマホをケースに戻しながらそう言った。七里にとっては当たり前のことを言っただけだったのに、九壇が嬉しそうに頬を緩めて笑う。

「やっぱ、いいやつ! そんな七里にはこれを進呈しようぞ!」


 ジャジャーンと効果音を自らの口で唱えながら、九壇がスマホを操作してMINEにやたらと長いURLを貼り付けた。

 七里がURLをタップすると「トリおり」という名のカラフルでポップなサイトが開く。


「……旅の、しおり?」


 画面に表示されたのは、今日の工程表とこれから行くであろう日帰り温泉施設の詳細だった。


「埼玉県上尾市……咲華之湯?」

「そ。これから行くとこ。秩父方面と迷ったんだけどさ、いきなり片道三時間はキツいと思って。ほら、まだ俺ら、ほぼ初対面じゃん?」


 確かにそれはキツすぎる。

 未遂でよかった、と心底安堵しながら七里はズレてもいない眼鏡フレームのブリッジを押し上げる。


「認識があるようで、なによりです。……でも、あの、九壇くん。このしおりだと、三分発の各停に乗るってあるけど……あと一分しかない。間に合わない」

「大丈夫、第二プランは俺の頭の中にある。十三分発の快速に乗ろう。大宮で降りて、ニューシャトルに乗り換えるから」


 立てた親指をグッと前へ突き出して、九壇が笑う。九壇の頭の中には予備も含めて今日の工程がすべて入っているらしい。

 九壇は七里を連れて駅の改札を通ると、ホームに向かって階段を登りはじめた。


「今日行く温泉はなー、ナトリウム塩化物泉で湯冷めしにくい温泉です! 露天風呂が最高だから露天風呂メインで行こうな!」

「……九壇くんって、マジで温泉好きなんですね」


 誘われてのこのこ出てきてしまった自分は、特別温泉が好きではない。九壇は七里が温泉好きの同志だと、ずっと勘違いしたままだ。

 七里は、名前と学年と元バスケ部だったということしか知らない他校の生徒と外出する、という非日常感を手放せなかった。だから九壇の勘違いを正す気もない。

 階段を登り切ったから心臓が痛いほど動悸しているのか、それとも精神的な理由で痛いのか。

 胸の内で、九壇へのなんだか申し訳ない気持ちと、見知らぬ地の見知らぬ温泉に行くという高揚感が、天秤に乗って揺れている。


(いつか言わなきゃいけないだろうけど、今じゃなくても、いい……って思いたい)


 後ろめたさを無視して、七里はブラウンカラーのレンズ越しに九壇を見た。適当な乗車口を目指して歩く九壇は、心の底から嬉しそうにため息を吐いて遠くの方を見つめている。


「うん、好き。めっちゃ好き。あー、その前にさ七里。俺らタメなんだし、敬語やめない? それが七里の普通なら、別にそのままで構わないけど」

「……わかった。でも呼び捨ては、まだちょっと、無理」

「いいよいいよ、問題ない。……はー、これで楽になった」

「もしかして、九壇くんが敬語で話されるの苦手なだけ?」

「あ、バレた。俺さー、友達っていうか仲間とはタメで話したいんだよね。コーチとか監督とかマネージャーには敬語で話すけど」


 九壇はそう言うと立ち止まり、「あ、話してた、だ」とわざわざ過去形に直して言い直す。


「そう言えば、元バスケ部なんだっけ」

「そー! 高等部に上がってからは帰宅部だけど。そういう七里は部活、なにやってんの?」


 聞かれた七里の身体が強張った。

 稜泉高校に帰宅部はない。掛け持ちは自由だけれど、必ず一つはなにかしらの部活か同好会に所属しなければならない。

 だから当然、七里も部活に入ってはいたけれど、堂々と披露できるほど馴染んでいないせいで、どうしても言いづらい。


「部活、教えてよ。ね?」


 言い淀む七里に、九壇が眩しい笑顔を向ける。

 九壇に他意はない、ないんだ。と自分に言い聞かせてようやく七里は部活名を恐る恐る言い明かした。


「俺は……処理部、情報処理部。……一応」

「うわ、かっけー! 処理部って略すんだ?」

「ウチの学校だけかもだけど」

「それ、大会とかあんの? なんか頭よさそー!」

「……まあ、情報処理系の競技大会があって……あとは資格取得に向けた勉強とか……やる、感じ」


 なんとも歯切れの悪い言い方になってしまうのは、七里が部活への参加に消極的だからだ。

 七里がやりたいのは情報処理系の大会参加や資格取得ではない。アプリを作ったりサーバを立てたり、プログラミングや実践的な情報技術の向上がしたかった。

 趣味の延長を部活でも。そんな夢と希望を抱いて体験入部もなしに入部したのが運の尽き。思い描いていた部活内容と全然違う。理想と現実のギャップに耐えられず、幽霊部員になりつつあった。

 そんな隠された事情など知らない九壇は、無邪気に目を細めて暗く沈む七里の顔を覗き込んだ。


「へー! ああ、だから眼鏡してんの? ……あれ、今日は前の眼鏡と違うんだ」


 てっきり部活の話に飛ぶかと思っていたのに。

 九壇の予想外の言葉と、ブラウンカラーのレンズ越しでも七色にキラキラ輝いているように見える九壇の黒眼に、七里は面食らった。


「え、あ……眼鏡?」

「うん、そう、その眼鏡。七里って、眼が悪かったりすんの?」


 頬杖をつきながら下から覗き込むように、九壇が七里をジッと見つめる。

 つい先程まで虹色に光って見えた黒い眼が、細かく揺れている。頬を支える指先だって、よく見れば爪が頬へ食い込んでいた。


(……この人も、部活関係で聞かれたくないことでもあんのか?)


 それはそれで、ありがたい。

 話したくないことを無理に聞いてこないなら、それでいい。

 七里は安堵しながら頬を緩めると、ふるふると首を横へと振った。


「視力は悪くない。けど、プログラム組むときはパソコンの画面見続けるから、目が疲れないようにブルーライトとかをカットする眼鏡をかけてる。コイツは紫外線もカットするレンズを入れてあるから……外でも使ってるんだけど」

「はー……凄え。俺、パソコンは学校の授業でしか使ったことないな。あとは全部、スマホかタブレット」

「そういうもんじゃない? パソコンでしかやれないことを見つけたら、嫌でも使うことになるってだけ」


 七里の場合は、外出先でもプログラムに触れていたくて、パソコン内だけでは飽き足らず、スマホ内にも簡易的な開発環境を構築してしまったほどだけれど。


(ちょっと、投げやりすぎたか……?)


 いくらほぼ初対面の九壇が話しやすくても、冷たく突き放したように受け止められたかもしれない。と思った七里は、眼鏡越しに九壇の様子を伺った。

 すると九壇は、


「ふはは! それはそうだとしても、俺は今、パソコンで困ったときの助っ人を手に入れたのであった!」


 と、七里の心配と不安を豪快に笑って吹き飛ばしてしまった。九壇の揺れる眼もりきんだ指先も、赤羽方面から来た電車が吹き飛ばす。


「お。ちょうど電車、来た! 行こう、七里。温泉だ!」


 九壇は七里に向かって朗らかに言うと、停車した電車に乗り込んで空いている座席に座った。

 そうして九壇が座った隣の空白をぽんぽんと叩いて、七里の着席を促すのであった。





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