ユウジさんがいなくなって数日後。

 その日、学校から戻るとアパートの部屋には鍵が掛かっていた。

 どうやら母親はどこかに出かけてしまったようだった。

 パチンコだろうか。

 それとも別の用事だろうか。

 僕は合鍵を持たされておらず、こういう場合はいつもの墓地の東屋で過ごすか、少し離れたところを流れる大きな河の土手に座り、鉄橋を渡る電車を眺めて夕暮れを待つのが常だった。

 けれどそのときの僕は少し逡巡した後、アパートの裏手にある居住者用の駐車場に足を向けた。その駐車場の途中、隣家との境界であるコンクリートブロックには体を横向きにすれば大人でもなんとかすり抜けられるほどの隙間があった。

 僕はそこで立ち止まり、ひとまず辺りの様子を窺った。

 隣家は色褪せた日本瓦を載せた古めかしい平屋造りでいつ覗いても人の気配はなく、おそらくはずいぶん前から空き家になっているように見受けられた。 


 大きな樹の下。


 母の独白に出てきたそれは隣家の庭の春楡ハルニレに違いなかった。


 傾きかけた太陽が射してくる西陽がアスファルトに細長く自分の影を引く十七時過ぎ。

 辺りに人の目がないことを確かめた僕はまず背負っていたランドセルをその隙間に差し入れて地面に置いた。そして次いで自分も素早くすり抜けるとそこは家屋と塀に挟まれた人ひとりやっと通れるほどの細い通路だった。

 足下には前夜の雨のせいでぬかるんだ地面があり、靴裏が少し滑った。

 また咽せるほど濃密な黴の匂いが立ち込めていて、僕は思わず息を浅くした。

 一瞬、やはり引き返そうかと考えた。

 僕は迷っていた。

 というよりもこれから自分がなにをしようしているのかよく分からなかった。


 あの日、冷蔵庫の中にあった赤黒い物体。


 あれが本当に生まれ落とされたばかりの弟だったとして、そして母の言葉通りその遺体が春楡の根元に埋まっているとして、自分はいったいなぜそれを掘り起こそうとしているのか。


 当たり前だけれど、そんなことをしても弟が生き返ったりはしない。

 通報すればどうなるのだろうと少しだけ想像したけれど、さらさらそんな真似をするつもりもなかった。


 僕はただ気になっていたのだ。


 弟の遺骸を掘り起こした自分がそのときいったいなにを感じるのか。

 僕のなかに感情といえるようなものがどれくらい存在しているのか。

 どうやら僕はそれが知りたかったのだ。

 理不尽に母に暴力を振るわれても、ユウジさんに邪険に扱われても、学校でクラスメイト全員に無視されても僕はほとんど何も感じない。

 ただ、ああそうかと思うだけだ。

 そういうものなのだと諦めるだけだ。

 けれどそんな風に感情が欠如した虫螻むしけらのような僕でも腐り果てた弟を見ればやはり何かを感じるのではないか。


 哀しみ。

 怒り。

 同情。

 あるいは愛情……?


 いずれにせよ、僕はきっとそれらのひとつか、あるいはそのすべてが自分の内部に湧き起こることを期待していたのだと思う。


 しばし立ち尽くし、黴の臭いに息を詰めていた僕はひとつ小さなため息を吐き落とし、それからランドセルを持ち上げてからぎこちなく足を踏み出した。


 蜘蛛の巣を払い除けながら通路を抜けると荒れ果てた庭が現れた。

 傾いた夕陽に黄色く染まったたいして広くもないその場所は、あらかた腰高の雑草に覆われ、その中に名前も分からない常緑の灌木が青カビのようにポツポツと顔を出し、そして所々、虫喰い状に地面が曝け出されていた。


 僕は想像した。

 たしかあの日も夕暮れが近づいていた。

 五月だった。

 草いきれが立ち込めていたであろうこの庭で、弟を入れたレジ袋を片手に雑草をかき分ける母の姿が目に浮かんだ。


 春楡の樹は庭のやや右手、アパートとの境界ブロックから少し離れた場所に植っていた。

 図書館の植物図鑑で調べてみると春楡は暖かい地方ではあまり大きく育たないと記されていた。図鑑に掲載されていたそれは北海道の原野で羽ばたくように樹葉を広げてそびえる巨木であり、真下に立つ者の目線をそのまま空に移してしまうほどの屹然を備えていた。けれど、それに比べて目の前にある春楡はせいぜい僕たちの住む二階建てアパートと丈比べをするかどうかと云う矮小さで、その姿がどこか世を嫉む小男のように映り、僕は一度だけ白々しく鼻を啜った。

 

 雑草に隠された置き石を慎重に踏みながら近づくとその焦茶色の幹に蛇行するいくつもの細かい縦筋が夕陽を受けて、それが浮き上がる血管のように鈍く輝いて見えた。さらに見上げると春楡は健気に広げたその枝のいたる所に乾いた血液のような燕脂色の小さな花の塊を実らせていた。

 僕は拳で右目を軽く擦った。

 そして落とした目線をやはり雑草の蔓延はびこった地面に漂わせる。

 すると瞬間、抱えていた懸念がいとも容易く払拭されてしまった。


 母が弟をどこに埋めたのか。


 樹の根元周囲を当てどもなく掘り起こすのはかなり骨が折れる作業であり、ましてや適当な道具を持たない僕に地面の下に隠された遺体をその日のうちに見つけ出すなどとうてい無理な相談に思えた。

 だから下見のつもりだった。

 必要なものを準備して後日、また忍び込むつもりだった。


 それなのに……見ると左足の靴のすぐ近くの地面に小ぶりなスコップが突き刺さっていた。そしてさらにその真横、泥に塗れ、ボロボロに破けたレジ袋の残骸が草むらの奥に姿を覗かせていたのだった。


 網膜にその場所をスコップで掘る母の姿がありありと浮かび上がった。それは今まさに繰り広げられている情景の如く、膝もとにしゃがみ込んだ母の背中だった。

 僕はその惨めな後ろ姿を透かし、せめて母の必死の形相を思い浮かべようとした。けれどそれは能わず、代わりに酒に酔ったせせら笑いの横顔が想像されて僕は昏い悔恨に苛まれた。

 ゆるゆると頭を振り、その幻覚を消し去った僕はゆっくりと膝を折りスコップの柄を握った。そして深く息を吸い、次いでそれをため息のように細く漏らしながら僕はやがて地面を掘り始めた。


 鳥の声が聞こえた。

 ヒーッ、ヒーッと空気を裂くようなその鳴き声に思わず手を止めて見上げると、暗い青灰色をした大きめの鳥が枝に止まり、僕を見下ろしていた。

 頭の羽毛を小さく逆立てたその鳥は憐れむような視線でしばし地面にうずくまる僕を睥睨した後、また鋭い悲鳴のような声を発して飛び立っていった。

 頭上には次第に濃さを増していく群青の空に春楡の枝が複雑なモザイク画のような陰影を描いていた。

 僕は視線を戻し、ふたたび土を掘り始める。

 遠くに子供のはしゃぐ声が妙に鮮明に響いた。

 それなのに止めどなく地面に突き立てるスコップの音をなぜか鼓膜は捉えようとしなかった。風はなく、代わりに冬の末期の声のような底冷えのする空気が夕暮れに添って立ち込め始めていた。

 掘り進めていくほどに荒くなる自分の息遣いに焦りを感じた。

 すぐにでもこのバカバカしい掘削を取り止めにして、疾くと逃げ出してしまいたい露骨な衝動にも駆られた。

 けれどそれでも僕は足下の濡れた土を掘り返し続けた。

 ただひたすらに僕は足もとに埋まっているはずの弟を求めていた。

 そのどこからともなく湧き上がる正体不明の意思は、それ自体が失われてしまった感情そのものであるような気がして、僕は貪るようにスコップを土に突き立て続けた。


 やがて中華鍋ほどの穴が出来上がり、掘り起こした土が雑草のふた株ほどを隠してしまった頃、僕はスコップの先端に小さくて硬い響きを感じ取った。

 スコップを傍に置き、その近くの土を素手で掻き取るとそこに泥に塗れた乳白色の細い塊が露わになった。

 僕はさらに指先で周囲の土を除け、慎重に指で摘み上げた。

 するとそれは紛れもなく骨の形をしていた。

 時々母親が買ってくるフライドチキンの骨によく似ていた。

 たおやかな曲線。

 丸みを帯びた両端の骨頭。

 おそらくは脚の骨だろうと予想がついた。

 僕は骨をランドセルの革蓋に載せ、しとどに溢れてくる興奮を抑え込んで、さらに土を掻き分けた。

 すぐに頭蓋骨が現れた。

 けれどそれはあまりにも小さくて脆く、持ち上げようとするとバラバラに砕けてしまった。

 蝶のような形をした骨盤の一部とかぼそい腕の骨はなんとか摘み上げられた。

 他の小さな骨はいつのまにか掘り起こした土に混ざって小石と見分けがつかなくなった。

 作業を終えた僕はやがて立ち上がり、ランドセルの上の泥土に塗れた骨片を見下ろした。

 あたりはすでに深い闇に包まれていた。

 どこかから焼き魚の匂いが漂ってきて僕の鼻腔に潜り込んだ。

 微かな風が春楡の枝葉を揺らし、耳にさざめきを忍ばせた。


 黒革に並べた弟の欠片たち。

 僕にはそれがまるで地上に堕ちた星のように思えて胸が熱くなった。

 


 その後のことはあまり憶えてはいない。


 気がつくと僕はアパートの階段に腰を下ろしていた。

 母親はまだ帰ってきていなかった。

 どこかから帰ってきた住人がひとりふたり、怪訝な顔で僕を避けて階段を登っていった。


 寒くて体が小刻みに震えていた。

 空腹で胃の辺りがシクシクと痛んだ。


 僕は弟のひとつを握りしめた右手に唇を当て、そして語りかけた。


「ねえ、キミの名前、なんにしようか」


 いつのまにか僕は笑っていた。

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猫骨 A 那智 風太郎 @edage1999

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