ユウジさんが同居するようになってしばらくは平穏な日々が続いた。

 母は夜の仕事を減らしたのか週のうち何日かは夜になっても家にいて、土木関連の仕事をしているらしいユウジさんの帰りを簡単な夕飯を作って待っていたりした。それに機嫌も良く、以前のように理不尽な理由で暴力を振るわれることもほとんど無くなっていた。

 母のいない日はユウジさんと一緒に外食に出かけた。

 たいていそれは近所のラーメン屋か寂れた定食屋で注文は僕の分まですべてユウジさんが決めた。

 ただ、二人きりの僕たちの間に会話は皆無だった。

 当初こそ気まぐれに話しかけてきた彼だったが、無口で無愛想な僕にさっさと愛想を尽かしたようで家の中でも目を合わそうともしなくなっていた。

 僕と向かい合って座るのが嫌なのか、あるいはいつもそうしているからなのか、ユウジさんは決まってカウンター席に陣取り、そして料理を待つ間も食べている時も漫画雑誌をめくりながら時折凄むようなちょっと気味の悪い笑みを浮かべた。

 僕は厨房の人の姿を目で追ったり、写真付きの料理メニューを眺めたりして料理が出てくるのを待った。本当はユウジさんのように棚から漫画を取ってきて読みたかったけれど、そんな奔放なことをすればたちまちこの危うい綱渡りのような均衡が崩れ落ちてしまうような気がして僕は身を縮めるように席でじっとしていた。そして料理が出てくると(ユウジさんの注文するメニューは味の濃い脂ぎったものばかりだった)僕は機械的に箸を動かしてそれを口に運んだ。

 食べ終わると僕は外に出てユウジさんが店から出てくるのを待った。

 連れ立って外食をした初日にそう言われたのだ。

 箸を置き、言葉もなく肩を窄めていた僕がよほど鬱陶しかったのだろうか。

「食い終わったら外で待っとけ」

 その吐き捨てるような命令に逆らう権利など僕にはなかった。

 凍るような夜風が吹きすさぶ冬空の下、あるいは空がみぞれまじりの雨が落としてくる夜でも僕は食べ終わるとすぐに店を出て、ほころんだジャンパーのポケットに両手を突っ込み、冷えて感覚がなくなる爪先に辟易しながら店先の狭い屋根の下で足踏みを繰り返した。

 待ち時間はその時々で、わりとすぐの事もあれば、優に三十分を超える事もあったけれど、勘定を済ませて出てきたユウジさんはいつも僕などまるで始めから存在していないかのように一瞥もくれずにアパートに向けて歩き始めた。

 そして少し距離を取って歩き着いていく僕はすれ違う人の目にまるでやや不憫に見えたかもしれない。

 けれどそんなことは全て僕にとって取るに足りない些細なことであった。

 飢えることも虐げられる事もない。

 我慢といえば夜な夜な寝室から聞こえてくる母とユウジさんのおかしな声だけ。

 炬燵に潜り込んで眠る僕はそんな願ってもない境遇が永遠に続くことを祈りながら、けれどその居心地の悪い、言うなればはりぼての至福がそう長く続くものでもないと本能的に分かっていたと思う。


 そして案の定、安寧の日々は徐々に崩壊を始めた。


 二月が終わり、ようやく風に毛糸のほころびのような弛緩が見受けられるようになったある日曜日の夕暮れ。

 小学校の近くにある小さな図書館からアパートに戻ると玄関ドアの向こうから喚く母の声が飛び出してきた。


「約束が違うやん。生活費は折半や言うたやろ」

「うるさいわ、ボケぇ。陰気なクソガキの分まで払うとは言うてへんぞ」


 ドスの効いたユウジさんの声が続き、次いで何かが壊れるような音が響いた。

そしてドアが乱暴に開き、そこから現れたユウジさんは立ち尽くす僕に彼は鼻息荒く獰悪どうあくな視線をよこし、それから唾を吐き捨てるように「クソガキ」と呟いてから姿を消した。

 恐るおそる中に入るとひしゃげた襖戸のそばに腹を押さえてしゃがみ込む母の姿があった。

 それが観測された崩落の第一段階だった。


 ユウジさんはその日、アパートに戻ってこなかった。

 母はさも当然のように僕に当たり散らした。

 洗濯物が取り込まれていない。

 洗い物がシンクに残っている。

 炬燵布団にシミが着いている。

 反論する隙も与えられずに何度も頬を張られたけれど、どうしようもなかった。

 ただ嵐が過ぎ去るのをじっと耐えて待つしかなかった。


 夜になると激しい雨が降り始めた。

 僕は炬燵の隅に体を横たえて目を閉じていた。

 母は僕に買って来させたコンビニの焼き鳥をつまみにテレビを見ながら缶ビールを何本も開けていた。

 そして夜も更けた頃、酔いの回った口調で唐突に奇妙なことを口走った。


「あのなあ亜月、あんたには弟がおったんやで。ま、死んでしもうたけどなあ」


 母は僕が眠っていると思っていたのだろう。

 あるいは僕が寝ていようが起きていようがそんなことはどうでも良いことだったのかもしれない。

 画面の狭いテレビの中で芸人たちがバカバカしく騒ぎ立てていた。

 雨音が紡ぎ出す不穏なノイズが皮膚から沁みてくるように響いていた。

 その独白に続けて母が引き攣ったひとり嗤いを放った。

 それがテレビの音声と雨音と混ざり合い、その瞬間、自分がどこにいるのか見失ってしまったような心細さに僕は苛まれた。


 弟……。

 死んだ……。

 不意にあの日の情景が目蓋の裏で鮮明に甦った。


 寝室から聞こえていた母の呻き声。

 チルド室に押し込まれた白いレジ袋。

 その中に透けた赤い色の何か。

 ぬるりと滑らかで柔らかな質感とわずかな蠢き。

 そして冷蔵庫のアラーム音と母の手から差し出された四つ折りの千円札。


 そういえば母親の膨れた下腹はあのときを境に平らになったのではなかったか。


 今更ながらそんな記憶まで立ち返り、僕はやがて限りなく確信に近い推論にたどり着いた。

 

 肉……。

 たぶん、あれが僕の弟……。


 そのときの自分の感情がどういうものだったのかは憶えていない。

 けれどそれは怖れでも怒りでも、ましてや哀しみでもなく、ただそこはかとない落胆のようなものだったように思う。

 

「あのなあ、お墓もあるんやで。大きな樹の下に埋めたったんや」


 しばらくして呂律の怪しい母の声が再び鼓膜に潜り込んだ。

 僕は眠ったままのふりをしていた。


 テレビCMと雨の音が静かに僕を蝕んでいた。




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