第4話 「じゃあ、なんで泣いてるの」

「一下さんはまだ若いから、今死ぬのはもったいないよ」


目の前の男はそう言いながら、縄を解いていく。


「嘘…なんで、」


私は酷く狼狽えた。なぜなら、目の前の男は営業部の部長。私上だったからだ。そんな私を見兼ねたか。私の首吊り縄を自分の鞄にしまってから、何かを取り出した。それは缶コーヒーだった。私上は微笑みながらそれを差し出してきた。


私は恐る恐るそれを受け取る。缶コーヒーから、温かさが伝わってくる。


「とりあえず、座りなさい」


「はい」


私は私上の放つ未曾有の重圧に抗えるはずもなく、崩れ落ちるように座る。


「なぜ僕が一下さんの家を知ってるか、知りたい?」


知りたくない。それを知ったら、戻れなくなりそうだから。

しかし、私上はなりふり構わずに話す。私の家の隅々に、何かを置きながら。


「まず、今日の復習だよ。一下さん。問一、僕のやりたいことはなにか、答えなさい」


「えっと、しゃ、社長を、」


「正解、問二、社長を殺すために必要なものは?」


「…わ、わかりません」


そんなの、わかるわけない。恐怖でいっぱいいっぱいな私の脳みそは、答えを導くことのは不可能だ。


「そっか、残念」


―――その瞬間、何かが割れた音がこの部屋に響き渡る。


そして私上はそれをグリグリと踏みつけた。私上が足をどけた時。


私は割れた何かを、飛びかかるように拾い集めた。


「悪い子にはおしおきだよ、一下さん」


これは、葵との大事な写真だ。


私が大学生を卒業した時に一緒に撮った。世界に二つしかない写真だ。いつも家から帰ってきて、それを見ると楽しかった大学生活が溢れ出してきて、溢れ出してきて…私の、大事なものだったのに


なんで、私がこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだ。喉から、色んな感情が込み上げてきそうだった。それをアイツに悟られないように、静かに、喉を締める。


「こんな茶番は置いといて、僕は昔心理学の本を読んだんだよ。その本の内容はマインドコントロールでね。恐怖心で人を支配するって書いてあったんだ。今の僕に必要なのは人手。人手を効率的に獲得するには恐怖を与えればいい。その恐怖をどうやって与えるのか。僕は考えたんだ。支配対象の人に関わる全てを掌握すればいい。君の家のことも、その一環だよ。僕は黒田総合商社の社内政治における最重要人物だった。だから色々と融通が効くんだ。君の全ての情報を私の手に収めるのは二日で十分だったね。」


「ぁ…っぐ」


「そういえば今朝、非通知電話がかからなかったかい?」


「…はいかかりました」


「じゃあ、それが一下さんの携帯ってことだ。ちょっと貸して貰うよ。…パスワード教えてくれるかい?」


教えるのを拒否しても、私の大切なものが壊されてしまう。教えても私のスマホの何らかが犠牲になる。どっちを選んでも地獄だ。わたしに選択肢はなかった。


「○六○七…です」


「あー、確か葵?さんの誕生日だよね」


「ぇ…」


「一下さんが私の手先から逃れるようなことをしでかした時、何をするか。言わなくてもわかるよね?」


葵を、人質にしやがった。


最悪だ。


「あとね、勝手に死ぬこともダメだよ一下さん。君は定年を迎えるまでずっと僕の部下だ」


死ぬことさえも許されない。選択肢がない。


「よし、これで綺麗さっぱりだ」


私の前に投げ出されたスマホ。そのホーム画面を開くと、私がスマホを買ったばかりの時と一緒だった。


「その携帯でできるのは、会社と僕への連絡と、会社のスケジュールの確認だけだよ。あ、調べ物もできるけど色々制限されているから」


私はアルバムアプリを開いた。真っ白だった。


「それじゃあ、おやすみ。明日から案件があるんだ。ゆっくり休んでね。警察に通報してもいいけど、通報したら何が起きるか、一下さんならわかるよね。今後の活躍を期待してる」


私上はそう言い残して私の部屋から出ていった。


缶コーヒーはいまだ温かい。


私はその缶コーヒーを、ドアに投げる。


ドアにぶつかって、床に落ちると、中身が漏れ出してきた。


「あぁ…ああ…、ぁあああ…、うわぁ…ああああ!!!!!」


☆☆☆


私が次に目を開ける時には、部屋は荒れていた。


いっそ、大切なものを自分で壊せば傷つかなくても済む。葵に明日言っておこう。


「嫌い」って。


そうすれば私とは二度と関わらなくなるんだろうな。


どうやって連絡しようか。わざわざ葵の家に言ってそれを言うのもいいか。


―――部屋はただ、私のすすり泣く音だけが響いていた。それをかき消すようにドアのチャイムが鳴る。


『のんちゃん、いる?』


その声は私が聞き慣れた声だった。ちょうどよかった。嫌いって、伝えよう。


私はドアの前へと足を運ぶ。


そして、ドアを開けた。


「のんちゃん、お話が―――「葵ちゃん、もう来ないで」


「なんで?」


「ずっと前から嫌いだった」


「嘘つか―――「嘘じゃない」


葵は私を抱きしめて、私の頭を宥めるように撫でた。葵の手は、冷たかったのに、心地よかった。


「…じゃあ、なんで泣いてるの」


これは嘘じゃない優しさだ。見た目だけの優しさじゃない。ずっとこうしていたい。でも、ダメなんだ。葵の優しさに漬け込んだようで、最低なんだ。


「…のんちゃんがこんなになるなんて。都合がいいけど。でもやっちゃいけないことはあるよね」


「葵ちゃん…?」


「ううん、なんでもない」


葵はそういって、遠くを見つける。


―――彼女の瞳は、いつかみた憎悪を孕んだ瞳と酷く似ていた。

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