第3話「ゴールデンワーク」

「これは昔の話だよ」


部長は何か思い出すように上を向き、優しい声色で昔のことを語り始めました。


ブラインドから漏れ出す光。その光で埃が舞っているのがうすうすと見えてきます。私が感じたのは、ただ、重い。空気が、ただ重い。まるで大気が明確に悪意を私に向けているみたいでした。


「黄金時代―――いわゆるバブル期の頃だね。僕はその頃も黒田総合商社にいたんだよ。こんにちと違うのは序列と情熱だね。青臭かったよ。僕もアイツも」


「アイツ…とは誰のことですか?」


部長は机上のコーヒーを一口、口に含んだあと、目を開けました。

部長の瞳は、冷たかったです。


「黒田常人(くろだ つねひと)、今の社長だね」


―――人は、人を憎しみ恨みそしてその人を社会的に、生命的に殺そうとする。そういう狂気を孕んだ人間をどうやって見分けるか。それは、瞳だ。瞳から放たれようとせん憎悪の念。まさに彼の瞳はそうだった。


狂気は、それを凌ぐ狂気を目の当たりにすると正気になるらしい。


「僕はね、彼が憎いんだ。憎くてとても殺してあげたい。彼さえこの世から消えてなくなれば僕はどんなに幸福なのだろう。四半世紀たった今でも、思うんだ。僕はやっと見つけたんだよ。あの時に。黄金の仕事を、僕の生き甲斐を、天職を。それを彼に奪われた。その終いに僕がありついたのは名ばかりの営業部だ」


「…」


「おっと失礼したね。でも、この秘密を君に伝えた以上は僕の手先となるしかないよ?今の営業部の皆も、そうさ。全ては僕のエンディングに通ずる」


私上は指を唇に当て、軽やかな笑顔を振りまいた。


「みんなには、ヒミツだからね?」


背筋が、凍った。あの笑顔は冗談じゃない。ヤツのしでかすことに少しでも横槍を入れたら、行く先は確実に死だ。今でも恐怖の息を漏れだしてしまいそうだ。早くこんなところを抜け出したい。


「今日はこれで以上だね。もう帰っていいよ」


私下はそういうと、オフィスチェアから腰を上げ、窓のそばに置いてある小さな観葉植物に霧吹きを始めた。


私はそれを邪魔しないように、そっと部長室から出ていく。


社内の打鍵音や電話の音、会話の音、怒声、罵詈雑言、忙しいプリント機の音が一気に耳の中に入り込み、頭の中で反芻をする。


―――うるさい


―――煩い


―――五月蝿い


…私は気づいたら電車の中にいた。


揺れる電車に身を任せていた。


窓外から見える点々とした煌めきと、目を焼き付けようとする琥珀色。琥珀色の内に潜む闇。


夕暮れとビル。ビルの影と影を頼りに放つ電灯の光。


叙情的な言い表しをしようとも、現実は変わらず私を見つめて目を背けることを許さない。


…私がいるのは、ブラック企業だ。うすうすわかってた。


映える景色が滲んできた。景色は輪郭を歪ませ色は自我を捨てやがて、ひとつの煌めきに融けた。


汚い金色だ。


堪え切れず涙が溢れ出てくる。私は、なんのために―――

『つぎはーつぎーはー□□えきー□□えきー』


感傷に浸らせてくれないし、死のうかな。私


☆☆☆


スマホがブブンと揺れた。通知が来たようだ。


『今どこ?』


葵からのメッセージだった。


『家だけど』


私はそう返信を返す。そしてスマホを投げ捨て、首を縄にかけ始める。


思い残すことなんてない。


「じゃあね、葵」


言い残すことならあったけど、


「いいや」


「ダメじゃないか一下さん」


「…?」


「これ以上部下に死なれたら困るんだ」


「は…?え…」


「終身雇用制度って、知ってるかな一下さん?」

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