第二章  第18話 #8-4 下琉洲奈監視所 吉村パメラ

「九十見さん、ここはかゆいのか?痛い?」

 

 「少し前からかゆくて、かきむしっていたらこんな大きなカサブタができて」

 「大きなカサブタだな。化膿したのか?」

 

 ゴム手袋をはめた手でそのカサブタに触れてみた。

 痛みを感じたのか九十見がギャと小さく叫んだ。

 

 もう一度触れてみた。カサブタではなかった。この黒いカサブタに見える皮膚の組織の変容は全く別のものだった。

 

 「九十見さん、この傷は最初からこの大きさだったか?」

 「いえ、なんだかどんどん大きくなってきました。最初は痒かったんだが、水ぶくれができてきてきました。そのあと、水ぶくれがつぶれて黒く硬くなってきたようです。」

 

 ある可能性が隆一郎の頭をよぎった。

 「最近、動物や家畜に触ることはあった?」

 

 「いえ、新型コロナの外出禁止令がありましたから、ヒト以外の動物にあってません」

 

 ペンギンカートの中から、隆一郎は分厚い「ハリソン内科学」という本を取り出した。念のためだ。


 パラパラとページをめくり、「B」で始まる病気に手がとまった。バチラス・アンスラックス(anthrax bacillus)家畜に多い病気で人畜共通感染症だが、近年の国内感染例は報告されていない。全世界で年間発症件数はヒトで2万人、家畜で100万頭だ。


 日本名は炭疽菌。


 炭疽菌が発生する毒素により、皮膚表面の細胞が懐死し黒く変色する。その黒い皮膚の病変が炭化したように見えることから日本では炭疽菌という呼び名がついている。


 ハリソン内科学は病態生理を細かくしっかりと記載している本で、臨床経験の乏しい感染症で役立つ。


 外来で診る病気の種類は限られている。経験したことのない病変を見たときにいつでも確認できるように病院にも応急診療カバンのマゼンダ診療カートにも常備していた。


 天寺からの呼び出しと琉洲奈島で起きている事象を聞いたときからいやな予感がしていた。

 

 隆一郎はペンギンカートの中から経口抗菌剤を何種類か取り出した。


 小さなクリアファイルに種類ごとのジッパーにいれて薬が並んでいた。


 クラビット、オーグメンチン、ケフレックス、ミノマイシン……。それらの中から、普段は使わないシプロキサンを選び、九十見に渡した。

 

 「断定はできないが、皮膚炭疽という病気だ。まだ大丈夫だ。特効薬で治療してやるから安心していい」

 

 ペットボトルの水で服用させ、基地内に入らず車内で安静にしているように告げた。

 

 「才谷先生、自分は病気なんですか? その変な病気って死んだりしませんよね?」

 九十見は運転してきた公用車に戻りつつ、つぶやいた。

 

 隆一郎は答えにつまった。


 皮膚炭疽は感染動物の血液や毛などに直接ふれることで、皮膚にある傷口などから経皮感染する。


 早期に抗生物質を投与しないと厄介なことになる。先ほど適切な抗菌剤を服用したのでこのまま治療を続ければ救えると思うが、楽観はできない。

 「大丈夫だよ。」

 安心させるためにそう答えておいた。大丈夫であってほしい。

 

 マゼンダペンギンカートを片付け、今使っていた手袋の外側が一度も自らの皮膚に触れないように内側をひっくり返すように脱いで密閉袋に入れてファスナーを閉めた。

 

 もう一人患者が隔離されている。防護服を取り出して手順通りにつけ、新しい手袋とヘアキャップをかぶりゴーグルを装着した上にN-95マスクをつけた。

 

 こうなると完全防護体制だ。

 

 防護具を準備している隆一郎を海上自衛隊員は呆然と眺めていた。


 防護具をつけ終わると基地内に入った。


 天寺は隆一郎が陸自の九十見を屋外で診察している間に、海自の佐武司令に状況説明を済ませていた。


 隆一郎はコロナワクチン職域接種の時に佐武とあっているが、前回の和やかな空気は完全に消えていた。日本国内で近年発生したことがない病原菌に海自の中田と陸自の九十見が感染したと説明を聞いたところだった。


 「天寺さん、終わりました。」

 隆一郎は報告した。

 

 「ごくろう。結果は?」

 「クロでした。十中八九 皮膚炭疽です。至急入院させたいので、才谷病院までヘリで搬送してください。あとは引き受けます」

 

 天寺と佐武は目を見合わせた。


 2月18日に九十見と中田は深夜に今郷町の金田城跡水路入り口付近で小型ドラム缶入りの不審な粉末に触れていた。中田はその袋をあけてニオイをかいだという。しかも、そのドラム缶は海上自衛隊の中田の居室内に今もあるはずだ。

 

 天寺の突然の訪問に基地司令とその周りの数人だけが出迎えた。


 儀礼的な接客は一切不要だと連絡があった。


 陸自と海自でこの感染症への迅速な対処が必要だった。


 炭疽菌が騒ぎになるのを抑えるため、情報の範囲を必要最小限にとどめたかった。

 

 天寺の指示で、佐武は隊員達に部屋から一歩も出ないように命令していた。


 隊舎内は病気療養中の中田を残して全員退出していた。ドア越しに中田と話したパメラが佐武の隣にいる。

 

 「中田さんは、昨日から微熱があって、今日の昼過ぎには38度を超えていました。先ほど声をかけたときに、少し息苦しいからコロナかもしれないと言っていました。」

 全身フル防護の隆一郎を見て、天寺は空気感染するのか聞いた。

 

 「通常の炭疽菌であれば、人から人へは感染しない」

 隆一郎はこの仰々しい姿は、念のためだと説明した。


 ただ、あくまでも炭疽菌が通常のものであれば人から人への感染はしないという前提だ。


 中田達は家畜や動物に触れていない。それは、自然に存在した炭疽菌ではないということだ。


 だから、念には念をいれて対処する必要があった。それが福岡からゴロゴロとバカでかいマゼンダペンギンカートを引っ張ってきた理由だった。

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