第一章 第5話 #3-2 赤い髪の佐々木寿満子
寿満子は短大を卒業した後、大阪市内の派遣会社でテレフォンオペレーターとなった。大阪の証券会社社員となった学は彼女の生活費を支援した。寿満子は夜に居酒屋でバイトもして結婚資金をためた。
二十才から続く交際は十年を突破し、寿満子は三十二才になった。三十五才までには結婚したいと貯金していたが、寿満子から学に結婚を迫ることには抵抗があった。交際も順調に十年を超える。学も他の相手を選ぶことはないはずだ。しかし、学からのプロポーズも結婚の話題もないまま時は過ぎた。
しかし、新型コロナ感染症の蔓延で彼女の生活は一変した。まず、バイト先の居酒屋が時短営業を機に店を閉めた。寿満子の収入は大きく減った。さらに、テレフォンオペレーターの派遣切りが言い渡された。
「業績悪化でリストラしなきゃ会社もやっていけないのだ。でもこれは派遣切りじゃない。ただの契約終了だからね」
人事担当者はそういった。
寿満子は悔しかった。長年勤めた会社がこんなに簡単に人を切るなんて想像もしていなかった。
「人でなし。あんたらには血も涙もないのか」
契約満了の日に人事担当者を罵倒してから派遣先の会社を去った。
「派遣だって生活があるんだ。明日からどうやって暮らしてけってんだ。鬼!」
もう上司じゃないのだから言いたいことを全部言ってやろうと考えた。悔しさと怒りを大声でぶちまけた。仲良かった同僚もみんな遠巻きに恐る恐る寿満子を見ていた。
最後に返却しろといわれた制服を大嫌いだった上司に投げつけた。
どう思われてももう関係ない。すっきりしたわとその場では気分よかったが、これからどうやって食べていこうかと考えるとゾッとした。
その後、派遣会社から電話があった。このような非礼な態度は困ると注意を受けた。仕事斡旋の電話もその派遣会社からはパッタリと止まった。慌てて別の派遣会社に次々と登録してみたが、どこもいい仕事はない。買い置きしていた米はあったが、野菜や卵、肉を買うことも躊躇してしまう毎日が続いた。
もともと収入は多くない。このまま無収入が続けば預貯金はすぐに底をつく。資格や正社員経験のない寿満子にいい仕事は回ってこない。失業保険切れが恐ろしく、切羽詰まって今も交際がつづいていた学に結婚を催促することにした。
大事な話があると言って、大阪、西梅田の名の通ったホテルのティールームに学を呼び出した。意を決して派遣切りと寿満子の生活の状況を伝え、結婚してくれないなら実家に帰るしかないと伝えた。彼は意外な反応をした。
「派遣切りか、ちょうどよかったじゃないか」
その日の学はずっとニコニコしていた。ただ、彼の笑顔は薄っぺらで目が笑っていない気がする。
昔のハサミを振り回した学の様子を思い出すと、にこやかな表面の裏に、別の表情が潜んでいるのではと不安がよぎる。佐々木寿満子はできる限りあの時のことは考えないようにしていた。その後は身の危険を感じるような喧嘩は一度もなかった。平穏な毎日がずっと続くのだと信じたかった。
「え? それじゃ……私と結婚してくれるの?」と言いかけて、言葉にするのをやめた。
プロポーズは彼から聞きたかった。
「失業はチャンスだよ。いい仕事がある。社員ってわけじゃない。雇われる側ではなく実業家になればいいよ。寿満子、チャレンジの時がきたんだよ!」
嬉しそうに寿満子の手をとって学は彼の勧める新しいビジネスの話を語りだした。
「寿満子にも運がまわってきたぞ!喜べ!」学は嬉しそうだった。
私が待っていたのはそんな言葉じゃないと寿満子は唇をかみしめた。
「登録料をはらって自分の事業を起こす。自宅でほんの少しブログ書いたり、SNSでつぶやいたりするだけで難しい仕事じゃない。商品はみんなが欲しがるものだからバカ売れする。俺も大儲けした。お前に時々生活費を渡せるのもそれで儲けているからだ」
学の話には全く関心が持てず、彼女は適当に返事をしていた。彼はバックの中からタブレットを取り出した。パンフレットや小冊子を次々に差し出す。学の説明は次第に熱を帯び、身振り手振りをまじえて商品の説明を始めた。
説明では新型コロナ感染症にも対抗できる強い免疫力がつく自然食品の定期購入セットで、天然酸素をつかったこれまでにない自信作らしい。天然酸素って空気中にたくさんあるのにおかしな話だと思った。でも、学の逆鱗に触れるのが怖くて口には出さなかった。
「運は自分で切り開くんだ。お前もはじめろよ」
彼は説明用のタブレットに書いた大きな文字。「運命の扉を自分で開け!」という文字を何度も指示した。
コレはナニ? 寿満子は学の話についていけなかった。十年以上交際した地味で風采の上がらない男と目の前にいる男は違う生き物のように思えた。彼の話は全く現実感がなかった。
「仕入れとか、輸送とかは事務局がやるから、在庫を抱える心配は一切ないんだよ。ノープロブレム。商売したことがない寿満子だって気楽にやれるよ。登録料で最低70万は必要だけどさ。在庫抱えて店舗で商売始めるわけじゃないから、初期投資リスクはないんだ」
これまで無口な男だとおもっていた学がこんなに饒舌とは知らなかった。
「70万は大金よ。私は貯金するのに五年以上かかった」
寿満子は呆れてそういった。
「70万程度の金なら二、三カ月で返ってくるよ」
俺が言うから間違いない。俺の通帳残高みせてやると学はタブレットを操作した。
どこの通帳かよくわからないが、学名義の口座は残高三千万円を超えていた。彼のこれまで見せたことのない一面をまざまざと見せられて寿満子は混乱した。
「この通帳は学の? そんなに金持ちだったの? 」
「もちろんさ」
親指を上にたてて、グッドサインを学は出した。彼女は心の中で真逆の親指を下向きに示して、ブーイングしたかった。そんなにお金持ちだったのなら、もう少し買い物代金を援助してくれればいいのにと恨めしく感じた。
「俺は神社巡りで正しいパワーをゲットした。だから、金をガツンと稼ぐメソッドが手に入った!」
あの真夜中に参拝する彼の提唱するメソッドなのだろう。あのハサミを振り下ろされた事件後の学はもう彼女をその神社めぐりに誘わなくなった。お互いにその話題には触れないようにすることが暗黙の了解に落ち着いたのだ。
「ずっとそんなことをしていたの? 証券会社は?」
「副業さ。会社にばれないようやっている」
学は人差し指で自分のこめかみを指さし、頭を上手に使っているのだと笑った。
「もし、儲からなかったら、寿満子の出費は俺が立て替えるよ。安心しろ。」
学は太鼓判を押した。余裕のある笑みをうかべ、両腕を広げてこぉーんなに稼げると自信満々に言葉をつないだ。何を言っても学は寿満子にこの事業を始めさせるつもりだとわかった。寿満子は意を結して、ここで勝負をかけることにした。
「じゃ、登録料の70万が戻ってこなかったら、怖いから先に責任とって学は私と結婚してくれる? それならいいよ」 学の儲け話を信じたわけではないが、あの銀行残高があれば元金はかえってくるだろう。それよりも結婚だった。
「わかった。結婚しよう!」学は即答した。
「俺たちは結婚するんだから、安心しろよ」
「うれしい」
寿満子は学に抱き着いた。
なけなしの70万円だが、婚約という幸せを買えるならいいやと思った。学も寿満子を抱きしめた。
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