第一章 第6話 #4 逃げる寿満子
琉洲奈島に向かうジェットフォイルが博多港を出航して初めて、寿満子は全身の血の気が引いていくのを感じた。この3日間何か邪悪なものに追われる恐怖で息もつけなかった。あの日から、寿満子には休息はなかった。彼女にはすべてが追跡者に見えた。ホテルに宿泊するような金もなく、夜間に無人の町工場に忍び込んで眠った。
隠れて生きのびる場所はひとつだけ思い浮かんだ。年に一度、掃除と点検に行った琉洲奈島の祖母の家だ。そこでは誰も寿満子を知らない。学と私を結ぶ線は完全に切れる。そう考えて必死に逃げてきた。祖母の家には温かい布団がある。一息つけるはずだ。
座席に座ってはじめて、緊張と恐怖で麻痺していた感覚が息を吹き返した。左足にひどい擦り傷があることも初めて気づいた。コートの中に素足を包み込むため、シート上で膝を抱えた。彼女はひどく疲れていた。とても眠い。
「お客様、寒くありませんか?」
出航後、船内を巡回していた船員がと寿満子に声をかけた。彼女は驚いて小さく悲鳴を上げて立ち上がった。船員はその反応に驚き後ずさりしたが、彼女に船会社の紙袋を差し出した。中に毛布がはいっていた。
「これはこの船の非常用毛布ですが、お使いください。それからお怪我の治療にこれもどうぞ」
彼は薬箱も彼女に差し出した。
「え?」
寿満子は呆けたように声をあげた。
「薬箱と毛布は下船時にお返しください」
「……ありがとう」
消え入るような声で寿満子は立ち去る船員の後ろ姿に言った。
毛布を広げ背中からかぶった。温かい。思いがけない船員のやさしさに彼女は泣いた。
その一部始終を隆一郎は静かに眺めていた。
「どんな事情があるかは知らないが、優しい船員がいてよかっただろう? こういうのがシーマンシップってやつだ」口角だけでニヤリと笑った。
船員が帰り際に人差し指をたてて隆一郎に小さく頷いた。ちゃんとミッションを果たしましたの合図らしい。白髪がかなり混じった船員の制服と制帽の姿が品よく見えた。
「これで彼女の船乗りの評価は爆上がりだ。俺たちシーマンのカッコよさはもっと認められていいはずだ。君もそう思うだろ?」
独り言をつぶやき、隆一郎も小さく答礼した。
フェリーは甲板から海を眺めることができるが、このジェットフォイルは甲板には出られない。ジェット機のように着席時にはシートベルトが必要だ。船員から毛布をうけとった寿満子は足を下ろし、シートベルトを着けた上で毛布にくるまった。
うとうとと微睡み始めると、ただ恐ろしくて逃げ回った数日の出来事がよみがえってきた。
先週の月曜日に髪を赤く染めた。
学の勧める事業メンバー登録用紙に記入し、貯金から70万円引き出した。寿満子にはもう失業手当しか収入のアテがない。
学は入金してくるといって登録用紙とお金を持って出て行った。健康と開運に効果がある食品とアクセサリー販売だそうだ。有名デザイナーやタレントなどの会員も多く、固定の購入客が増えつつある成長産業だという。
学に70万円を手渡した時、領収書をもらわなかった事を悔やんだが、彼はもう婚約者なのだからと思い直した。
学の住むマンションはオートロック付きの大阪市内のマンションだが、寿満子は二階建ての築二十年の京阪沿線のアパート住まいだ。駅から近くて家賃が安いが電車の音が夜遅くまで聞こえてくる場所だった。結婚したら学のマンションに移り住むはずだから、早くこのアパートを引き払いたかった。
寿満子の安アパートの自転車置き場には大きな柿の木があった。
秋にはたくさんの実をつけるが渋くて食べられたもんじゃなかった。他に一切樹木がないのに、その柿の木だけはすくすくと伸びていた。大きく枝をのばし、アパートの敷地外の電線に触れたらしく外の枝だけすっぱり刈り込まれていた。
それでも樹勢は衰えず、彼女の部屋のベランダに向けて枝を大きく広げていた。邪魔で仕方なかった。枝をつたって鳩がやってくるため、干した洗濯物や布団に糞をされた。
結婚の挨拶と結婚式は新型コロナ感染症予防の移動制限で行わないと寿満子の両親に説明した。彼女の両親はともかく結婚が決まったことでホッとしていた。寿満子は学の両親にも早く会わせてほしいと頼んだが、生返事ばかりだった。学が言うには両親とは不仲で結婚の報告も不要だという。
それでも学は役所から結婚届を取ってきた。結婚届はすぐにだそう、君が書いたら俺も書き込んですぐ出してくると彼は約束した。大喜びで寿満子はその場で書類を書いた。提出するのは大安の日がいいだろうと学は言った。
彼の両親へ先に挨拶をしたかったが、寿満子はこの流れを止めたくなかった。手早く進めて、学のマンションに引っ越してアパートの家賃だけでも節約したかった。食費も限界まで節約している有様だった。
婚姻届けを出す日になって学が突然、寿満子に髪をそめないかと提案した。
「寿満子ちゃん、髪の毛先に赤色をいれると運気があがるよ。俺の嫁さんになるんだからやってほしいな。」
言われるままに髪を染めた。学に逆らうのも怖かった。髪色を明るめな栗色に変えて毛先に赤いメッシュをいれた。髪の色が明るくなった寿満子はこれまでとは別人に見えた。本当に運が変わるかもしれないと期待した。
婚姻届けを提出した日に学は新事業資金を振り込んだと寿満子に報告した。その事業は「カタカムナ」資金というのだそうだ。
メンバー連絡用の赤いスマートウォッチを寿満子に渡した。画面の中で小さなカメレオンがペロッと舌をだしてウィンクし、ハローとあいさつした。このカメレオンはドクターレオン、カメレオンのレオン。わかりやすい単純なネーミングだった。
ドクターレオンは心拍数や歩数、血圧まで記録し、健康管理から資金管理、メンバー業務連絡や利益の受け取り連絡もWi-Fiを通じて全国で見ることができる。充電式ではなく電池式で一年に1回の電池交換が必要だそうだ。寿満子は電池をいれ基本設定を済ませて腕にまいた。
「外でもフリーWi-Fiの場所ならつながるよ」と学は言った。これで二人とも超リッチな夫婦になる、俺たちは先行きバラ色だと学は無邪気に大喜びした。
「マイハニー、素敵な赤い髪だ」
学は寿満子の髪の色も褒めて抱きしめた。
確かにこの赤い髪は結婚の幸せから劇的に運勢を変えた。最悪の運勢に垂直落下。フリーフォールだった。
学という邪悪な使徒は災厄の標的へ赤い印を残すのではないかと妄想した。赤い髪は悪鬼を呼んだ。「赤に染めるんじゃなかった。ちっとも私に似合ってないじゃない。こんな色なんて大嫌い!」と今さら後悔しても時間は戻らない。
髪を染めた後の数日だけは、寿満子は幸せな新妻気分に満たされていた。
結婚と学の誕生日のお祝いをどうするかを考えつつ、学の住むオートロック付きのマンションへの引っ越しの準備を始めた。しかし、彼女が引っ越しする日は訪れなかった。
彼の誕生日のお祝いをする日の早朝に突然、学が寿満子の安アパートに転がり込んできたのだ。
タブレットとノートパソコンと電源ケーブル類が乱雑にはいったバックパックを持って、まだ夜があけていない四時半に彼はドアを叩いた。そんなことは初めてだった。
「今日は一日、ここにいる。いいよな」
彼はそう宣言した。
「会社は? 休んでいいの?」
学に聞いたが返事はない。
布団を頭からかぶりスマホを弄っているようだ。相場なのか、商品取引状況なのか、何かのデータを睨みつけている。学に渡した70万円の行方も心配になってきたが、癇癪を起されるのが怖かった。おずおずと寿満子は学に聞いた。
「学の誕生日のお祝いにイタリアンレストラン予約したのだけど、今日がお休みならランチに変えた方がいいかな」
「今日は外には出ない。全部予定はキャンセルだ。お前も外にでるな」
鋭い口調で学が怒鳴りつけた。
早朝にたたき起こされたのだ。寿満子だって機嫌は悪かった。イラッとして学のバックパックを蹴飛ばした。そのバックパックの中から風船のようなものがこぼれ出た。白いビニール袋だ。
学は寿満子を睨みつけ、散らばったビニール袋をあつめ、バックパックの中に放り込んだ。
「触るな。お前は寝てろ」
「わかったわよ。急に来て偉そうに。もう触りませんよ。知らない」
寿満子はパジャマ代わりにしているジョギング用のハーフパンツと半袖のTシャツだった。少し肌寒い気がしたので靴下を履いてそばにあった厚手のカーディガンを羽織った。
結婚祝いもかねてと考え、学への誕生日プレゼントも用意していた。二人の門出を二人だけでお祝いする記念日だと楽しみにしていたのだ。なんでレストランをキャンセルするのかと聞いたが、うるさいと突っぱねられた。
その時、学のスマホに着信音があった。
学が布団から飛び出して寿満子の顔をまじまじとみて、不安げに聞いた。
「寿満子は俺のこと他人に話したか?」
「何を言っているの? 両親や同僚、親しい人達に学さんと結婚するって知らせたよ」
寿満子は答えた。当たり前のことだった。
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