第一章 第4話 #3-1 赤い髪の佐々木寿満子

 佐々木寿満子は逃げていた。

 「こんなはずじゃなかった」

 彼女は強く両手のこぶしを握り締めた。


 今週末には人気のイタリアンレストランで恋人の可機田学の誕生日を一緒に祝う予定だった。その時には学から婚約指輪を貰えるはずだと信じていた。


 証券会社に勤める学は感情を表に出さないタイプで、休日も寿満子の部屋でゴロゴロしながらテレビを見て過ごすだけだった。部屋に来てもお菓子を食べてばかりいて、メタボ気味になっても全く気にしていない。


 出会った頃は切れ長の目がきれいな賢そうな人とおもっていたが、いまは腹がでてクマのぬいぐるみのようだ。イケてない面白みのない彼氏だった。でも、イケてないのはお互い様だ。収入はかなりいいと聞いていたし、寿満子のやることにも口出ししない人だった。


 「寿満子の彼氏っていくらなんでもあんたに無関心過ぎじゃないの? うちの旦那はめっちゃ細かくてうるさいわよ。友達とのカラオケすら自由に行かせてもらえないんから」

 同僚に言われたことがあった。


 「うるさいよりはずっとええよ。お互い自由を尊重するええ~関係なんよ。」

 居酒屋のバイト仲間のしーちゃんだけは味方だった。


 「ウチの彼氏は気楽でいいわ」

 「それええやん。気楽なのが一番やわ」

 しーちゃんにはそう自慢していた。


 学は寿満子の下手な手料理も文句言わず食べてくれたし、忙しくて作れない時はコンビニ弁当を二人分買ってきてくれる優しいところもあった。


 寿満子は自分の名前が嫌いだった。中学校のころに、「おばんくさい名前やなぁ」と同級生に言われた。この名前は琉洲奈島に住んでいたおばあちゃんの名前だ。寿満子が母のおなかにいたころ、おばあちゃんは急性腎盂炎で亡くなった。初孫の誕生を心待ちにしていた。


 そのおばあちゃんの名前を寿満子は受け継いだ。


 寿満子の寿の元となった字は壽だ。上部の「士」の部分は「老」を簡略化したもの。中間部分は「田んぼの畝」。下の「口」は神様への祈りに使う器。この組み合わせで「畝の間に器を置き、長生きをお祈りする場面」を表すのだそうだ。その祈りが満ち溢れている子供というのが名前の由来だ。幸せに生きてほしいという願いでつけられた名前だ。


 読み方は「すみこ」と呼ぶのが一般的だが、彼女の寿満子は「すまこ」と読む。職場の人で正しく名前を呼んでくれない人も多い。


 おばあちゃんは琉洲奈島で面倒見のいいことで知られ、老人会の役員までしていた。かわいらしいおばあちゃんで地元のテレビ放送でも料理の達人として取り上げられていた。地元の人気者だったそうだ。両親もおばあちゃんのように、みんなに好かれる子になってほしいという願いを込めてこの名前に決めた。


 ダサイ、ダサイ、ダサイ。本人の希望も聞かずに命名はあり得ないと寿満子は反発した。物心ついた頃には、家族に連れられて一年に1回だけ琉洲奈島の放置されたおばあちゃんの家の掃除と点検に行っていた。


 「おばあちゃんの名前を引き継いだアタシにいいことなんて何にもないんですけどー。責任とってくださぁーい。」


 その時におばあちゃんの仏壇に手を合わせて文句を言うのが恒例行事となっていた。


 寿満子は自分の名前が大嫌いだったし、読み間違えられることも嫌いだった。それを説明するときに自分のダサイ名前を思い出さないといけない。できることなら、ずっと「佐々木さん」と呼んでほしかった。親しくなっても「すーちゃん」とか「マコちゃん」と呼んでほしいと自分から望んだ。


 学は初めて出会った時から「すまこさん」と正しく名前を呼んだ。なぜか学にそう呼ばれたときは嫌な気持ちにならなかった。寿満子のことを「すまこ」と呼ぶ人は家族以外では学だけだった。


 学と出会ったのは淡路群島の神社を巡る1日バスツアーだった。短大を卒業する記念に申し込んだ。友達は神社まわりする地味な旅行に興味はないといい、日帰りバスツアーに一人で参加することになった。


 小さなボランティア団体が主催するバスツアーの参加者は十五人ほどで、ほとんどが家族連れだ。ツアーの参加者は全員が名札をつける。学はその名札を見たのだろう。


 淡路群島は古事記や日本書記で神様「イザナギノミコトとイザナミノミコト」が天浮橋に立って、最初に滴り落ちた塩からできた島「オノコロ島」だとされている。これが日本の最初の国土という伝説がある。だから、島にはたくさんのパワースポットが点在する。これを巡るツアーだった。学は日本の伝説や歴史に詳しく、そのツアーで率先して寿満子に神話を教えてくれた。


 これをきっかけに二人は交際するようになった。学が好きな古事記や神話の話を聞き、二人で神社や仏閣を旅して回った。


 学は運勢を劇的に変える特別な参拝方法を熱心に語った。この神の力を得るための古代人の特別な儀式の伝承があるのだそうだ。


 「誰も真夜中に山の中の神社には行かないだろう。だから、闇の力を宿す特別な神社で正しい参拝をすれば力を授けてもらえる。人生が変わる。いつかそれを実践して成功するんだ」

 交際を始めたころに、学が熱く語った。


 寿満子には夜中の真神社参拝が薄気味悪い話に思えたが、適当に話を合わせて頷いた。学は時々ひとりで真夜中の神社参拝に行っていたようだが、誘われるたびに明日も仕事だからと断りつづけた。学は真夜中の神社にこそパワーが宿ると考えていたが、寿満子には暗闇の中には魑魅魍魎しかいないと思えた。


 一度だけ学に真夜中の参拝が怖いから行きたくないと本心を伝えてみた。いつもは顔全体に薄ら笑いを浮かべているような学から笑顔が消えた。


 「寿満子は何もわかってない。黙れ!」

 学は鋭い目で睨みつけ、手元にあったランプシェードを床にたたきつけた。ランプの傘がぐしゃっと変形し、電球が割れて飛び散った。


 寿満子は驚いて部屋の隅に後ずさりした。学は彼女を睨みつけた。こみ上げる怒りで彼の目じりがヒクヒクとつりあがっていた。


学はテレビ台に置かれたペン立ての中から、裁ち鋏を握った。

怒髪衝天―怒りで紙が天に衝つくほど逆立つ有様というのはこれなのかと彼女は感じた。


 「ハサミなんてどうするの? やめて。やめて。やめて」

 寿満子が小さな悲鳴をあげて懇願した。学は無表情のまま裁ち鋏を振り上げ、寿満子に向かって振り下ろした。とっさにかわすことができた。ドカッと音がして壁にハサミが突き刺さった。恐ろしい力だ。彼は容赦なしに振り下ろしたのだ。


 「やめて!」

 寿満子は両手を顔の前に振りかざして叫んだ。殺されると思った。


 「うるせぇぞ。夜中に騒ぐな。静かにしろ。警察よぶぞ」

 隣の部屋から怒号が聞こえた。電気工事を生業にしている隣のおじさんは朝が早い。眠っているところを起こされたのだろう。壁をドンドンと叩かれた。アパートの外に人が出てくる音がした。


 「ごめんなさい」

 寿満子は隣の部屋に大きな声で謝罪した。安アパートの壁は薄い。少し大声をあげれば筒抜けだ。学はその声に手にもった裁ち鋏を床に放り投げた。


 「君の言葉でボクは深く傷ついた。反省しろ」

 学は言い捨てて部屋を出て行った。


 彼からの連絡はその後、しばらく途絶えた。


 学の突然の豹変が恐ろしかった。寿満子は友人にこの時のことを相談した。

 「そんな男とは別れたほうがいい」

 同僚や友人も彼女にそう忠告した。


 だが、しばらくして学から再び連絡があった。先のケンカには一切触れず、何事もなかったかのようにデートに誘い、部屋にやってきた。彼はこれまで通りの静かな男にもどっていた。神社巡りの逆鱗に触れなければ大丈夫だろうと考えて交際はつづいた。

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