第7話

 *



 大勢のざわめきが聞こえる。

 華やかな笑い声。明るい午後の日差し。

 大通りを行く馬車のガラス窓から、扇で顔を隠した貴婦人の目元がのぞいていた。


「ようやく、おでましらしいな。女王さまは」


 ワレスは舌打ちして、待ちあぐねたカフェの席を立つ。

 音楽ホールの開演時間が迫る夕刻のあいだだけ、テラスを開放するオープンカフェだ。皇都で——つまり、世界で一番おいしいビターショコラを飲ませてくれる店だが、カップ一杯が金貨一枚もする。まあ、それらも、我らが女王さまが来れば、あっちが持ってくれるのだが。


「ずいぶん遅かったのですね。あなたはその美しさとともに、私の気をもませるのが、あいかわらずお上手だ」


 馬車をおりてカフェに入ってきた貴婦人の手をとり、ワレスは彼女を迎える。あでやかな年上の美女。ワレスの愛人であり、パトロネスであり、ジゴロたちの女王でもある、ラ・ベル侯爵ジョスリーヌ。ジョスとは長いつきあいだ。


「そう? ドレスをえらぶのに手間どっただけよ」


 それは嘘だ。ジョスリーヌは気に入りの男を待たせておくのが趣味なのだ。どれだけ自分が愛されているか測れるから。


(彼女の富を? 権力を? むろん、美貌も魅力のひとつ。でも一番の長所は、たがいの浮気に淡白なところ)


 ワレスがほかの女と商売をしていても、ジョスリーヌは怒らない。もう十年近くジゴロをしているが、けっきょく最後まで残ったのは、彼女一人だった。それはもう数えきれないほどの貴婦人と夜をすごしてきたけれど。


「あなたにえらばれたドレスは幸運だ。誰より近く、あなたのそばにいられる。私より愛されていると思うと、妬けますよ」


 ジョスリーヌの手に接吻すると、彼女は顔をしかめて、ワレスの手をぴしゃりとたたいた。


「なんなの? 気味が悪いわ。その他人行儀なしゃべりかた。いつものように生意気にしてなさい」

「あなたが私とのあいだに時間の距離を置いたので、お返しに言葉の距離をとることにしたのですよ」

「ワレス。いいかげんになさい」

「しょうがないな」


 肩をすくめて、ジョスリーヌの手に指をからめる。

「あなたがおれをすてられたノラ犬みたいな気分にさせるからだよ」

「あなたのために着飾ったのに、それがあなたの言いぶんなの?」

「愛していますよ。侯爵」

「憎らしい人ね」


 カフェテリアじゅうの客が二人のようすをながめている。ジョスリーヌはきわめて著名な家柄の大貴族だし、ワレスは界隈かいわいで顔を知られたジゴロだ。若い愛人が今夜も金で貴婦人に買われていくと、誰が見てもひとめでわかる。


 勝手に軽蔑すればいいさ。せいぜい、おれのこと、女にたかる、うわべだけのウジ虫だと思えばいい。

 おれの胸は痛まない。おれの心は、ここにはもう、ないのだから。


(死んでしまった。おれの心は……)


 愛は枯れはてた。血は凍てつく大地に吸われ、青ざめたむくろが醜悪な姿を露呈ろていする。


「あら、ほんとにそうだったかしら?」


 とつぜん、ジョスリーヌに言われて、ワレスはひるんだ。


「なぜ?」

「あなたはジェイムズをベッドにひきずりこんだじゃない」

「ああ。でも、あれは……」

「ルーシサスの身代わりだったのよね? ジェイムズがルーシサスとの共通の思い出を持つ友人だったから、自分の罪を懺悔ざんげするためにすべてを告白して、その勢いで、人のいいジェイムズに甘えたおしたのよ。ほんとのところ、彼にぶつけた気持ちは、ルーシサスへの気持ちそのものだったのよね?」

「たぶん、そうなんだろう。が、おれはそんなことまで、あんたに話さなかった」

「かわいそうなのは、ジェイムズよ。すっかりおびえて、ブラゴールに逃げてしまったわ」

「責めるなよ。悪かったとは思っているんだから。それに、ジェイムズだって、ちゃんと好きだった。愛というより、友情だったのかもしれないが」


 いつのまにか、そこはラ・ベル侯爵邸だった。豪奢ごうしゃな寝台のなかで、貴婦人があられもない姿をして、ワレスを上からのぞきこんでいる。


「あんたは上になるのが好きな女だったよ」

「なんですって?」

「いや、何も」


 意識が混濁している。


「おれはいつから、あんたとこうしてたんだっけ?」

「それは、あなたがジゴロだからでしょう?」

「そりゃそうだが、たしか、おれはもうジゴロじゃなかったはず」

「そうだったかしら?」

「おかしいな。さっきまで、カフェで……傭兵を」

「カフェで傭兵。それじゃダメだわ」

「エミールみたいな口調だな」

「なぁーんですって?」

「いや、なんでも」


 だんだん、わかってきた。これは夢なのだ。


(変な夢を見てるな)


 カフェで傭兵。そりゃダメだ。

 ワレスが笑っていると、エミールみたいなジョスリーヌが神妙な顔をして言った。


「笑いごとじゃないのよ」

「どうして?」

「さっきから、鍵があわないの」


 ワレスの上で貴婦人は色っぽく腰をくねらせている。どうしても結合がうまくいかない。


「おれは準備万端だが?」

「いいえ。あなたがしっかりしないからよ」

「露骨な夢だな。欲求不満かな?」

「何を言ってるの。もうすぐ鍵があうのよ」

「でも、あいそうで、あわない」

「そうなのよ。もうすぐなのに……」


 ジョスリーヌは悔しそうに顔をしかめる。

「明日が千年めよ」


 なんだって——?


 聞きかえすまもなく、ワレスの夢は薄れていった。

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