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「自然主義者は何の理想も解決も要求せず、在るが儘を在るが儘に見るがゆえに、秋壕も国家の存在と抵触することがないのならば、其所謂旧道徳の虚偽に対して戦つた勇敢な戦も、遂に同じ理由から名の無い戦になりはしないか。

              (石川啄木「きれぎれに心に浮かんだ感じと回想」)


岩手県出身の石川啄木は詩人でありながら大逆事件を契機に社会主義への関心を深めたが、一九一二年、結核で死んだ。二六歳だった。あと三〇年生きながらえたなら、彼はアッツ島について憤怒しかつ嘆いて書いたであろう。


一九四二(昭和一七)年六月八日、陸軍の北海派遣支援隊がアッツ島上陸。ガダルカナルはインパールと並ぶ悲惨な戦場となる。一〇月三一日、トラック島に入港。前日、激しいスコールがあり、「総員スコール浴び方」「洗濯許す」の指示で、将兵は戦塵を洗い流した。


「最初は、漁勞班というのを作って、魚とりをやって糊口をしのいでいたんです。ところがだんだん空襲が烈しくなってきましてね、魚とりにいった者が帰ってこなくなる。これじゃ死にに行くようなもんだ、やめよう、というのでそれからは、あるもので命をつなぐことになって、最後には、大豆をナマで食べるような生活をしました。水でふやかせば、すぐ凍ってしまうし……」

上陸当初は米四合を五人で分け、それからお湯に米粒が浮いた粥を啜った。お菜は蕗の煮付のような食事に変わり、全員が栄養失調の状況だった。

港湾ではすでに竹で編んだ陸揚用荷台置場があり、これから軍用機発着用の飛行場を設営する予定だったが、その前にアメリカ軍の絶えることのない空爆を少しでも防御するため塹壕堀をした。そこいらじゅう岩場だらけだった。

北海で獲れる魚は、鰈、鱈、カジキの三種。どれも全長二メートル以上あって、デカい。こってり脂が乗っており、余分な脂は燃料にもなるのでありがたいが、食べれば脂が消化されず直腸内にある排泄物の滑りをよくしすぎるので、みな尻が汚れていた。

小さな鰈は干物にし、鱈とカジキは冷凍の青菜などで水炊きにするとなかなかいけそうだ。

アッツ島を米軍から占領したはいいが、援助物資がまったくこず、大本営からの電信も応答しない。もはやわれわれは見放されたかと誰もが思った。毎日塹壕掘りで、進捗状況がない。兵士たちは徐々に疲れ、常に空腹で覇気がなくなり、誰も彼も黙って塹壕掘りをしていた。俺たちはいったい何のためにここに連れてこられ、何のためにこんな虚しいことを毎日続けているのか。その疑問は誰にも問えなかった。まるでシジフォスの神話か、アウシュビッツの強制労働のような虚無の作業だった。


「弾丸は一日十発しか持たず、一日一食に耐え、部隊を聞けども転々としてわからず、寒さと飢えに狂い出し弾丸のなかに飛び出す者もあり、崖穴のなかで自刃する者もあった」

上等兵 池田春男『回想手記』


「天候良好ナリ、西浦地区ニ敵進出ス、東浦モ本夕撤退予定ノトコロ取止ム、北海湾ノ敵進出頑強ナリ、一二〇〇ヨリ総員ニテ負傷者ヲ運搬ス、東浦ヨリ熱田湾迄山路雪アリテ大変困難ナリ、負傷兵相当アリ気ノ毒ナリ、早ク応援部隊ノ進出ヲマツ、本日ノ負傷者ハ東浦ヲ砲撃セルニヨリ続出セリト」

海軍技手 西村安治郎『日記』


「下痢続き、腹病甚だし、阿片、モルヒネ手当たり次第に採り、それにて可成り熟睡す。機銃掃射により屋根破壊す。最初の二〇〇〇名以上の人員も今や一〇〇〇名弱に減ぜり。海岸守備隊の負傷者は野戦病院の本部に充満しあり。入院不能の者は第一線にあり」

『辰口日記』


「皇軍の神兵は、従容(しょうよう)として(または莞爾(かんじ)として)“天皇陛下万歳!”を叫んで死んだ」といった調子であったが、これは完全な嘘である。

一銭五厘で“醜(しこ)の御盾(みたて)”(天皇の盾となって、生命を投げ出す卑下の表現)として駆り出され、何はともあれ、己の命を絶って死なねばならぬ無念さ、酸鼻さ――。


壕のなかで、いまや生ける屍のようになって横たわっていた日本軍兵士を、照明弾は情け容赦なく真昼のように照らし、いちだんと増した厳しい寒さが、破れた軍服を通して体中に染みわたった。負傷兵の死亡も目に見えて増えた。生きる気力がなくなったのである。最大の喜びが絶望に変わったとき、夜が白々と明けた。

二五日以来の陸海空の休むことのない立体攻撃で、島の日本軍守備隊はほとんど壊滅。二九日午後二時三五分発信の「海軍五一通信」は、「全線ヲ通シ残存兵力約一五〇名」と打電している。


「弾が尽きたら銃剣を持って突撃せよ。重剣が折れたら鉄拳を以て殴りかかれ。鉄拳が砕けたら歯を以て敵兵を嚙み殺せ。一人でも多くの敵兵を倒すのだ。一兵でも多く殺してアメリカを撃砕せよ。身体が砕け、心臓が止まったら、魂魄を以て敵中に突撃せよ、全身全霊をあげて栄誉ある皇軍の神髄を顕現せよ」Y大佐がそう命令したが、生きて帰ってきた兵士のなかには、大佐の命令はなかったという。


ボロボロになった軍服、ひん曲がった銃剣、あるいは折れ曲がった日本刀を杖にして、五月二九日の夕刻までに、まさに幽鬼そのもののようにして、三々五々集合した将兵たち。乳色の濃霧のなかの手探り突撃のため、将兵たちは、巻脚絆や繃帯などを、数珠つなぎのように長くつなぎ、ただ闇雲に前進した。


五月二八日(水)霧

昨日までの快晴、朝方より霧となる。またまた二九日に延期となる。陣中なすすべもなく、柄になく詩作する。

敵艦頻我艦不来 幻屠敵域夢人食

空晴我艦還不来 将兵幾千将頻餓

表笑苦哀誰一人知 月仰長恨得不眠

将兵幾千死来欲 勿恨勿遺是天命

人生長生百歳不 宜使史家泣清忠

(木下末一少尉の日記)


……彼らは夜明けの簿明のなかを狂人の群れのようになだれ出し、歩兵隊員を薙ぎ倒し、泥の個人掩体内に寝ていたアメリカ兵を撃ち殺した。突撃は、マサクル湾に通じる通路に向かって、谷を越え一直線に行われた。一群は宿営地になだれ込み、生物はもちろん無生物までも破壊し、テントを引き裂き、箱を壊し、弾薬をめちゃくちゃにし、彼らの先頭を進んだ狂人のような戦友に殺された死体を突き刺した。食糧集積所で日本軍は停止して缶詰食糧の口を開け、口の中に食物をねじ込んだ……

(アメリカ軍人たちの証言をまとめたもの)


投降勧告を頑として応じず、ただ死ぬことが目的のような日本軍へ向けて、ついにアメリカ軍の砲列が一斉に火を噴いた。絶好の標的になった先頭のY部隊長は全身を蜂の巣にようにされ、「天皇陛下万歳!」を叫ぶ間もあらばこそ、絶命した。


(中略)狭いところに閉じ込められ、孤立無縁状態に置かれ、一瞬にして生命が吹き飛ぶ脅えに絶え間なく晒され、戦友たちの手足を飛ばされる生命を失うのを片時もゆるめなくただ眺めている他はなくなった兵士たちの多くがヒステリー女性そっくりの行為をしはじめた。兵士たちは金切り声を挙げ、すすり泣いた。抑えることはできなかった。金縛りとなり身動きひとつできなくなった。無言、無反応となった。記憶を失い、感じる力を失った。精神科傷病兵はどんどん増えて、大急ぎで病院を徴発して収容しなければならなかった。

(中略)

「シェルショック(砲弾ショック)」の心理学的外傷によるものであることを認めないわけにいかなくなった。残酷な死(の恐怖)に長時間晒される感情的ストレスの強さは、男性がヒステリーに酷似した神経症状を生み出すのに充分であった。

(中略)

 戦闘神経症の存在を否定することが不可能になった時、医学界の論争は、ヒステリー初期のように、患者のモラルのあり方に集中した。伝統的な見方では、正常な兵士は戦争において栄光を追求し、感情の片鱗をも漏らすこともないはずだった。恐怖に屈服することになるなど当然あるはずがない。外傷神経症を発症する兵士は(たかだか)軍人としての資質の劣った人間、最低の場合には詐病者、臆病者である。当時の医学文献を見ると、患者たちのことを「道徳的廃人兵」と呼んでいる。軍上層部の一部は、これらの連中は患者扱いをする価値は全然なく、医療などとんでもないことで、軍法会議にかけるか不名誉除隊にするべきであるという主張を引っ込めなかった。

 伝統主義者たちの側に立ったもっとも著名な人は英国の精神科医ルイス・イェランドである。彼の一九一八年の著作『戦争のヒステリー障害Hysterical Disorders of Warfare』は、恥ずかしめと脅かしと処罰とをベースとする治療戦略を推奨している。緘黙症、感覚消失、運動麻痺のようなヒステリー症状は電気ショックで治療されるべきである。患者は怠惰と臆病について徹底的に叱責されるべきである。「ネガティヴィズム(拒絶症)という醜悪な敵」を露わす兵士は軍法会議で強迫すべきである。一例報告としてイェランドは緘黙患者を椅子に縛りつけ、喉に電気ショックを与え続けた。処置は数時間休みなく続き、患者はついに話したというのである。ショックを与えながらイェランドは患者に「いいか、貴様は勇士としてふるまうのだぞ、俺が貴様に期待しているようにな。多くの戦いをくぐりぬけてきた男は自分をもっとコントロールできるようになるものじゃ」と言い続けた。

(J・L・ハーマン『心的外傷と回復』)


 私はこの言明を軍当局を故意に否定する行為として行うものである。なぜならば、この戦争は終結させる権力を所有している者によって故意に延長されているからである。

 私は兵士である。私は兵士のために行動していると確信している。私は信じる、この戦争は、解放の戦争として私も参戦したのであるが、今や侵略と征服の戦争になり果てた。(中略)私はさまざまな苦しみを目撃し、それに耐えてきたが、私が不正であり悪であると信じる目的のためのような苦しみを長びかせている側に属していることは私にはもうできない。

(ジークフリード・サッスーン『兵士の宣言Soldier’s Declaration』)


家族も友人もわれわれがこんなに憤慨しているのをおかしいと思っている。きみは何のことを喚き散らしているのだいと彼らはよくたずねる。どうして、そんなに不機嫌なのだとか。われわれの父も祖父も戦争に行って、義務を果たし、家庭に帰って何とかやっていた。どうしてわれわれの世代だけがこうも違うのか? いや、全然、全然違いなどない。「良い」戦争から帰還した兵士たちを伝説と感傷のカーテンの後ろから引っ張り出して光を当てるならば、連中にも怒りと疎外感とが鬱憤していると思う。(中略)だからわれわれは怒っているのだ。われわれの怒りは古いものだ。先祖返りだ。道徳の名のもとに人を殺すために送られた文明人が皆腹を立てているのと同じようにわれわれも腹を立てているだけだ。

(マイケル・ノーマン)


エーイチは つねに飢えていたのだろうか 寒くて凍えていたのではないだろうか

エーイチは 毎晩眠れていたのだろうか 栄養失調にならなかったのだろうか

エーイチは 絶望していなかったのだろうか

エーイチは 上官に殴られていなかったのだろうか

エーイチは 謎の病に冒されていなかったのだろうか

エーイチは 気ちがいになっていなかったのだろうか

エーイチは 凍傷にならなかったのだろうか

エーイチは 爆撃で手足をなくしていなかったのだろうか

エーイチは 最後まで生きていたのだろうか

エーイチは 誰かを一人でも殺さなかったのだろうか

自決したとき手榴弾を目前にしていたのだろうか

それとも爆発が怖くて顔を覆っていたのだろうか

ものすごく勇敢でものすごく弱虫なエーイチ

ものすごく賢くてものすごく愚かなエーイチ

いつも涙と鼻水を垂らし咽ていたエーイチ

下痢をして横になりながら漏らしていた糞尿臭いエーイチ

もし生き残って帰ってきても戦争神経症で長く患っていただろうエーイチ

それでもエーイチをこよなく尊敬している

中卒で貧農で女満別出身であるエーイチの 遺書の達筆さ その見事さ

和紙全部に 満遍なく均等に すらすらと毛筆で書いている

迷いが一切ないことに わたしは瞬時に気づく


オトウサンオカアサン コノタビワタシハシユツペイイタシマス

ヒトリムスコヲダイジニソダテテクダサリホンタウニアリガタウゴザイマス

コノオカネハカゾクノタメニツカツテクダサイ

ツマ ハヤノコトクレグレモダイジニシテクダサイ

ハヤ アトノコトハゼンブマカセタ

イキテカエツテクルトハオモツテクレルナ

ウマレテクルコドモガブジリツパニセイチヤウスルヤウニネガヒマス


一九四三年六月にアッツ島の<玉砕>があり、日本兵二三七一名が戦死した。第二次大戦の初めての<玉砕>だったので、その詳細は広く知られている。

戦死者のうち、八六四名が北海道出身者であった。

一九五三年七月、遺骨収集のため関係者数名がアッツ島に派遣された。予定された軍用機発着専用飛行場は、兵隊の足で丁寧に踏み固められていた。


繚乱と咲き競う虎山山麓に、遺体は丁寧に埋められ、十字架の墓標が立っていた。虎山南西二五〇メートルの臥牛山に、コンクリートの表示があり、その上に銅版がはめこまれていた。


アッツ島

第二次大戦 一九四三年

日本の山崎陸軍大佐は この地の近くの戦闘によって戦死せられたり

山崎大佐はアッツ島における日本軍隊を指揮した

場所 エンジニアヒル クレザシー峠

第一七海軍方面隊指揮官の命により建立した

一九五〇年八月   

   

最後の突撃後、手榴弾自決した山崎部隊の兵士たち。五月二九日深夜から行われた部隊長先頭による攻撃で、アッツ島の戦闘は終焉を迎えた(モノクロ写真)。


藤田嗣治の戦争画『アッツ島玉砕』(一九四三)を、ドキュメンタリー映画で観た。ナレーションでは「近代以降、西洋からの借り物でない、真にリアリティを持った民衆という表現の主題を見出し得たという逆説。それは皮肉にも、日本近代絵画のひとつの到達点ではなかったか」「そこに日本近代の自画像がひそかに浮かび上がっていたとは言えないだろうか」「藤田の戦争画は人間を肉体として捉え、その肉体の蠢くさまの『器官なき身体』という極限状況をしっかりと見据え、描き切っていたのだと思う。だから藤田は戦後絵という自己分裂を起こし、分断・分節されていく自己と肉体化する世界とを戦争記録画によって、いちはやく予兆していたのではなかったか」と問いかける。「それが天皇制に支えられた帝国日本の侵略戦争という名のもとに描き出されてきたことの、不幸な事実ではあるけれど、そこに集約された近代の問題は、何ひとつ解決されることなく、脈々と現代へ、地下水脈のようにして分かちがたく、今日まで受け継がれてきたのであると思う」。

わたしはこの絵を見たことがない。この絵は戦後接収され、無期限貸与という形で日本に戻っているが、複写はおろか実物を見たことがない。それが複写であれ実物であれ、画家のイマジネーションと画力によって描かれたそれは、見たいと同時に見てもどうしようもないという諦念がしてくるのだ。


アッツ島玉砕の放送があったときわたしは、高崎市の郊外の田舎におりましたが、ほんとうに妙な体験をしたんですよ。放送のある三日前の夜中に、こつこつと戸をたたく音がして、目を醒ましたんです。ガラス越しに、音のした裏木戸のほうを見ますと、家の人が蒼白い顔をして、軍服を着て、いつものように、しゃんと背筋を伸ばして立っているじゃありませんか……わたしは思わず、“ご苦労さま……いまどこにいるの?”と聞いて、“北だ……北だよ……”といって、ぱっと姿を消したんですよ。


真面目で優しい彼は人を殴ったことも殴されたことも一度もなかった。その彼が軍隊に入り、徹底的に殴られる教育を受けた。日記に「軍隊トイフ処ハ人ヲ殴ルトコロカ…」と書きつけたのを上司に発見され、「非国民!」の罵倒とののしりとともに、完膚なきまでにたたきのめされた。


「生きて虜囚の辱めを受けず」――「帝国陸軍の金科玉条」


その後、「アッツ遺族の会」「キスカの会」が作られ、アッツ島で戦死した遺族たちが哀しみを共有するために同じ立場の人たちから集めた短歌や俳句の会があったが、アメリカ軍の捕虜として生き残った兵士たちは、その苦しさ、辛さ、生き恥を黙って耐えていたのか、会には決して顔を出さなかった。これもまた一層の哀しみである。

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