アルカナ・水玉・声 4
いわし雲が連なる明るい秋空の下を、西に向かって車を走らせた。私が運転するのは、ポストみたいに赤いミニクーパーだ。丸い両目に、ボンネットには白いラインが縦に二本入っていた。全体的には鯉かなにかの魚みたいにも見える。
小さなワイパーを動かしたときなんかは、シャカシャカとせわしない。そのあわただしさと哀愁が、この車の魅力かもしれない。
となりには冴木くんが乗っていたが、なにも喋らなかった。
そのあたりで私は気づいた。冴木くんから、パンのようなぼやけた甘いにおいがすることに。それだけは、ちょっとだけ私の気分をよくしてくれた。
首都高を降り、やや風景が落ち着いてきてからも、さらに西に進んでゆく。冴木くんは
久魯川には伝説がある。
生活の中で、ふと
そうだ。私は私で、冴木くんの秘密を知る必要があった。冴木くんは街角で、私の師匠の凛都さんと出会っていたのかもしれない。
風景の緑は濃くなってゆく。
高速移動する赤いポストは、森の景観にさぞ映えたことだろう。いや、森を
スマートフォンをハンドルの横に固定して、それをカーナビにしていた。その頼りない地図を見ながらポストは走る。――そういえば以前、私は久魯川市の観光ポータルサイトのシステムを作ったことがある。私はシステムエンジニアだったのだ。
地図は人間にとって必要だし、その点に異論はない。ふとした拍子に、人間はいとも簡単に間違った道をえらぶからだ。
「なんだか、男前ですね。ルカさんって」
と、冴木くんは言った。ポストみたいに黙っていたくせに、よりによって。
「私が? どういう意味で?」
すると、間違った道に迷いこんだことに気づいたのか、冴木くんはしどろもどろになった。
「いや、あの、すみません……」
退屈していたから、もう少し絡むことにした。
「なにが男前なの?」
「あ、その、立ち居ふるまいとか、車を出してくれたりとか」
「そう。私がおっさんだって言いたいわけね」
そんなことを言いながら、自分で腹が立ってきた。肌のはりがなくなってきたのも、疲れが抜けないのも、冴木くんのせいだ。
「い、いえ。おっさんなんて。とんでもない」
「きみ、もうね、許さないから、それは」
「え。呪われたりするんですか?」
「そうね。そうなるかもね」
すると、冴木くんは青ざめた顔で私を見た。多少は愉快な気分になれた。
しばらく進むと、ふと私は気がついた。
「ねえ、あのさ、穴を掘るのよね」
冴木くんはうなずいた。
「はい。そうですね」
「それはいいけど、どうやって? スコップとか、持ってないでしょ?」
そこで冴木くんは、目が覚めたような顔をした。
「たしかに、そうですね」
「あのねえ」
とため息をつきながら、私はカーナビアプリを操作して、ホームセンターを探した。ちょっとした寄り道になったが、ホームセンターに立ち寄り、中くらいの白いスコップを手に入れることができた。
それから、山あいの道へと入っていった。
緑に囲まれた道をしばらくうねうねと走ると、やがて、さびれた登山道の入口が見えた。また、その手前には四台ぶんの小さな駐車場があった。車は停まっていなかった。
その登山道の先に展望台があるようだ。
私はスニーカーを履いていた。冴木くんは紺色のトレッキングブーツを履いていた。私はそれを咎めた。
「ちょっとさ、それ、ずるいよね」
「え、そうですか?」
「そうよ。自分だけ、そんな山仕様のを履いてさ」
「ああ。ですよね。……すみません」
そう言いながら、冴木くんは絵の入った袋を抱えて登山道に向かった。私は右手に白いスコップを持って、その背中を追いかけた。
登山道の入口の脇には小さな祠があった。冴木くんはそこに手を合わせた。私はそうはしなかったが、心の中で山にあいさつはした。
そうして私たちは、緑の天幕の中に入っていった。
ゆるやかな斜面の土に、木漏れ日がちらちらとゆれて、くすぐったい感じがした。蒸すような緑の中を、黙々と歩いてゆく。あれほど深い土のにおいを嗅ぐのは久しぶりだった。
淡々と歩く行為は、瞑想と似ている。いや、禅とも呼べるのだろうか。山道は過去へと続いている。控えめな蝉の声。小鳥のさえずり。風にゆれる葉っぱ。土を踏む足音。
汗が流れ、早くも息が上がる。私は若くはなかった。そう思うと、どういうわけか、ある少女の姿が脳裏に浮かんできた。
* *
私は幼いころから、時間の感覚におびえて生きてきた。そのきっかけは、小学校高学年の頃だったと思う。
ある晩、お風呂から出てパジャマに着替えて、二階の自室に向かっているとき、階段をのぼった先の姿見の鏡が目に入った。
そこに薄暗い照明の下、紅顔の少女が呆然とした表情でたたずんでいるのが、視えた。
それはもちろん私の姿だったのだが、どこか、別のいきものであるようにも思えた。
私は若さについて思った。時間はひとしく流れてゆく。いや、世界には連綿とした巨大なひとつの変化があり、時間すら、そのうねりのひとつにすぎないのだと、直観的に思った。
少女は指先をのばし、パジャマのボタンをはずしていった。淡い緑色のパジャマだった。
そのパジャマに包まれていると、あたたかい気持ちになれるし、ふわりと肌を撫でる感触が、眠るのにちょうどいいと思っていた。
少女はパジャマの上を脱いだ。
——――桃色の肌が露わになると共に、少女の表情が優しい様子になっていくのが分かった。少女は上衣を床に落とす。なめらかな、光立つ肌があった。少女は紅色の、薄いくちびるをひらいた。
『あなたはいつか、そのつややかな肌を失って、かさかさのお婆さんになってしまうでしょう。すると、過去よりも未来が近いことを知るでしょう。体がなくなる過程において、あなたは哀しさを覚えるでしょう。しかし安心しなさい。その感情ですら、雲のように空へ消えてしまうんだから。消えてしまって哀しい、という感覚に、おびえる必要はありません。だから、今の姿を覚えておいてください。あなたはいつか子供だったんです。永遠にその事実は変わりません。あなたは若さを失うでしょうが、今ここに子供のあなたがいたんです。スプレー缶みたいに細くて小さな体の、清純なあなたがいたんです。消えてしまうその瞬間まで、あなたの心の中に少女がいるんです。それどころか、赤ん坊のころから、その体にすべての瞬間を刻みつけてきたんです。あなたは消えてしまいますが、いいですか、その恐怖も一緒に、消えてしまうんですから。そのときまで、この姿を心に焼き付けておいてください』
私は少女の言葉にうなずいた。しかし、すぐに夢から醒めたように頭を振って、パジャマの上衣を身につけた。——あの言葉がどこからやってきたのかは、分からない。それに、少女は私をはげまそうとしていたのか、あきらめさせようとしていたのか、それもわからない。
ただ、時間というものへの恐怖だけが残った。その幼稚な自己中心的な観念を捨てることはできなかった。
「着きました」
と言うのは冴木くんだ。そこにはたしかに展望台があった。
木々の緑が急にひらけた先に、空の情景が目に飛びこんできた。岩棚の上にちょっとした広場があり、そこには、レンガで組まれた円形の休憩所があった。
屋根も丸みをおびたレンガが積まれていた。休憩所は背の低い壁とドーム型の屋根に囲まれていて、風通しはよかった。
休憩所の内側の外縁に沿うように、ベンチが置かれていた。
その先には、張りだした岩棚と、木製の手すりがあった。冴木くんは手すりの方へ、絵の袋を抱えて歩いていった。私もそれに続いた。
そこからの情景よ。
秋晴れの空には雲がたなびき、遠くに飛行機が見えた。太陽が白く輝いていた。急に光を見たせいか、鼻がつんとした。自然に囲まれた町並みがどこまでも続き、それらは森と光の中に溶けこんでいた。
「いい眺めね」
「そうなんですよ」
冴木くんはしばらく眺望に目をうばわれていたが、やがて、後ろを振り向いた。
「さて、はじめますね」
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