番外編 アルカナ・水玉・声

アルカナ・水玉・声 1

 冴木くんは、はじめて私の店にやってきたときから、その物体を持っていた。


 それは一メートル四方くらいの平板状で、巨大な茶色い綿の袋に入っていた。私に見せたいのか隠しておきたいのか、どっちつかずの様子で冴木くんは抱えていたのだ。


 やや童顔でやせ形の冴木くんは、深くえぐれたボートネックの白いTシャツに鎖骨を浮かびあがらせていた。斜めに分けた前髪の奥に両目は鋭く、ずいと私を捉えていた。やがて冴木くんは唇をめくりあげ、なにかを言いたそうな素振りを見せたが、結局なにも喋りはしなかった。


 紅潮した顔で唇をふるわせ、窮屈そうにその物体を両手で抱えていたのだ。


 刺激を与えないように注意しつつ、とりあえず立場をはっきりさせる必要があった。だから私はゆっくりと明確に言った。


「いらっしゃいませ」


 声がふるえていたかも知れない。


 昼間とはいえ、女ひとりで構えている店に男のひとがやってくれば、私でなくても身構えてしまうだろう。——はじめてのお客ならなおさら、しかも奇妙な物体を持参してきたのだから、ただごとではない。


 商店街に面した店で人通りは多少なりともあったが、やっぱり怖かった。思わず私は椅子から立ちあがり、中腰になって南側の壁を横目でちらり、理由はもちろん、すぐに壁を殴れるように心の準備をするためだ。とりあえず困ったときは壁を殴れば、万事解決というわけだ。——私が壁を強く二度叩いたときは、隣接するラーメン屋『ケンちゃん』の店主が包丁を振りかざして助けにきてくれる、という取り決めになっていた。


 それにしても、占い師などというものは因果な仕事だと思う。つまるところ、精神的売春行為だとも言っていいだろう。


 占い師と風俗嬢はほとんど同じ精神性を共有している、というのは私だけの思い込みだろうか? ——私たちはすくなくとも羨望されることはないし、仕事の実績を積み上げる、というよりもひたすら摩耗する、と表現した方が妥当だし、癒やす、というよりも我慢する、というニュアンスが強いし、要は忍耐と喪失をお金に換えるような生業なのだ。彼女たちは肉体を捧げ、私は精神を捧げる。


 だから私は壁を叩く権利を持つ。いざというときに王子様、というか筋肉店主に助けてもらうことができるし、それくらいの救済はあってしかるべきだ。



 ところが私は壁を叩かず、冴木くんと話をした。彼の持ってきた物体の正体を確認してからでも、遅くはないと思ったからだ。いや、実際は遅かった。手遅れの状態になってしまったが、仕方がない。占い師は予言者ではないということだ。あの日、たしかに冴木くんは単なるお客のひとりでしかなかった。


「いらっしゃいませ」


 すると冴木くんは胸の前で抱えた物体を右手に持ち替え、腰に立てかけて言った。


「あの、こんにちは」


 冴木くんは店内をせわしなく見まわしているだけで、なかなか話が進まなかった。私はいらいらした気持ちをおさえて、


「鑑定でしたら、ちょうど空いているから、すぐにできますが」

「ありがとうございます」


 冴木くんは意味もなく左手で顔を覆って、恥ずかしそうにしていた。私はそのときなんとなく、『親しくなればいろいろ話せそうかもな』などと思った。眼差しが不器用でまっすぐな感じで、心根が純粋なように見えたのだが、それでもそのときは警戒を緩める気にはなれなかった。


 そんな冴木くんを白いカーテンの中に招いて、占い用のテーブルの向かいに座らせた。


 ——店内はほとんど白色に覆われていたが、テーブルクロスだけは黒い生地を使っていた。


 白い色は清浄な気持ちをひとに喚起させるけれど、一方でそれに見合う心の潔白さを強要する部分もあって、場合によっては落ち着かないという欠点もある。


 そこにきてテーブルの黒いマットは、ひとの本性を載せる着地点としては妥当なものだった。ゴキブリが冷蔵庫の裏に逃げ込むように、人間の邪悪な本性が黒いマットを好むのだ。——すくなくとも私の中ではそういう理屈になっていた。だからお客はみんな、そのテーブルの前では素直になった。非日常としての遊戯を共有するためには来訪者を、私のすみかである冷蔵庫の影に招き入れる必要があった。


 冴木くんは椅子に座ってから、椅子の側面にその物体を立てかけて、黒いマットに視線を落とした。マットの中央には銀色の糸で縫い込まれた百合の刺繍があった。そして、冴木くんが私に少しだけ欲情している感じが漂ってきた。エンパスというか、共感能力のせいだ。


 その感情を注がれるとき、私は一種のあきらめを感じた。——もちろん男性の生理みたいなものは分かっているつもりだったし、その手の劣情のまとになりかねない、魅力のかけらくらいは帯びているはずだったから、仕方がない、とあきらめることもできた。ひとの心を感じることが、あまり普通の感覚ではないということは知っていた。この面倒な才能のおかげで、薄暗い稼業の道に自ら飛び込むことになってしまったのだが。


 私は再び南側の壁を意識しながら、タロットカードの束を右手につかんで、とりあえず目の前の動物がまともな相手かを見極めようとした。


「あったかくなってきたね、ほんと」


 すると冴木くんは意外なほど落ち着いた声をだした。


「ええ、そうですね。すっかり」


 けれど相変わらず黒い海に浮かんだ、百合の刺繍をみつめたままだった。


「私はね、占い師なんですけどね。というか、ここがなんのお店か知っているんでしょうね?」


 冴木くんは顔を上げて、子供っぽい笑顔を見せた。


「はい。看板に書いてありましたからね。——ルカのタロットカード占い——って」

「だとしたら、なにを占ったらいいのかな?」

「うーん。そうですね」と悩みながら、冴木くんは椅子に立てかけてあるその物体を見つめた。


 私は思わず声をひそめて、「あのさ」


「はい?」

「きみは一体、なにを持ってきたの、それ」


 すると冴木くんは一瞬、鋭い目をした。

「これは、必要があれば、そのときに出しますから。だから気にしないでください。いいですよね? それで」

「ま、まあいいんだけどね」

「ところで占ってほしいことですが」


 と言って冴木くんは身を乗り出してきた。私は「どうぞ」とうながした。そして、いざ喋りはじめようとする口に向かって、私は手を突きだした。


「ちょっと待った。その前に名前を教えてもらっていい? ああ、西洋数秘術で、簡単な姓名判断なんかもできるから」

「は、はい。僕の名前は、冴木と申します」

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