アルカナ・使命・梟の目
アルカナ・使命・梟の目 1
瑠香は喫茶店『蒼幻』のカウンター席にいた。
春先の柔らかな日差しが木のカウンターを照らす。
そのカウンターの入り口側の片隅に、ガラス製の小さなフクロウの置物があった。
薄茶色に透きとおったそれは、丸いつぶらな瞳を店内に向けている。
初老のマスターの宗田は言った。
「いいでしょ、それ」
瑠香はうなずいて、
「ええ。かわいいですね」
「こないだ、店の小物を見ようと思って雑貨屋に行ったんだけどね。そこで見つけて」
「フクロウって、縁起ものだし、いいですよね。苦労しない、不苦労、って語呂合わせもあるんですよね」
「よく知ってるね」
「ありがとうございます。フクロウは夜の賢者とも言われ、暗闇を見通す知恵と洞察力や予知を象徴します。世界の様々な神話に登場しますし、日本でも神鳥とされることがあります」
「へえー。なんだか、凛都くんみたいなコト言うね」
「そ、そうですか……」
「え? 微妙だったかな」
「いえ。凛都さんなら、知らないなら知らないで、勉強が足りないって言うし。知っていると、理屈じゃない、みたいに言うし。ホント、厄介な上司って感じで」
すると宗田は肩をゆすって笑った。
「ふふッ。まあ、それが凛都くんの、役目ってもんじゃないのかな。瑠香ちゃんに育ってほしいから、こそ」
* *
中学2年生になる河本優真は、眠い目をこすりながら2階から階段を降りていった。
明け方に気になる夢を見て、それからなかなか寝付けなかった。
食卓に行くと、父親の修司は白いシャツとスラックス姿で食パンをかじっており、母親の聡美はキッチンで弁当の用意をしていた。
優真は朝のあいさつの代わりに、
「ねえ、お母さん、自転車で事故にあって、死ぬかも知れない」
聡美が菜箸を持ったまま、固まってしまった。
修司が口の中の食パンを飲み込むと、
「おい。縁起でもないこと、言うんじゃないよ」
すると聡美は、
「え? またなにか、怖い夢でも見たの?」
そこで修司はテーブルを拳で叩いた。
食塩の小ビンが倒れ、コップが跳ねた。
「くだらんことはいいから、さっさと着替えて学校に行く準備でもしろよ! ッたく、朝から気分が悪い」
優真は中学校に向かって足早に歩いていた。
幼いころから月に一度、あるいはそれよりも多く、不思議な夢を見ることがあった。
明け方に、鮮烈な印象を持って記憶に残る夢。
それにはなんとも言えない『リアリティ』があった。
普段は取るに足りない正夢が多いのだが、年に数回、今朝のように本当に恐ろしい夢をみることがある。
母親の聡美が自転車に乗って買い物に向かっている。
角を曲がったときに、トラックとぶつかって、世界がすべて赤くなる。
潰されて飛び散った血。ひたすらのおびただしい血。
――そんな夢だった。
しかし、聡美も修司も迷信めいたものを毛嫌いしているし、口にすれば、縁起でもないと怒られることになる。
口にしない方がよいのだろう。
それはわかっている。
精度だって高いとは言えない。
言わなかったからと言って、だれにも怒られるわけじゃない。
言わない方がいいのだろうか。
――でも、母親が心配だった。
そんな思いを抱えながら、優真はずっと落ち着かない気持ちですごした。
家に帰ると、聡美が膝と肘に絆創膏を貼っていた。
「きょうね、お買い物のとき、車とすれ違って転んじゃったの。自転車のかごから買い物袋が飛んでいっちゃってさ。袋が後輪の下敷き! トマトが4つともぐっちゃぐちゃでさあ。血の海よ! もう、まいっちゃう。ほんと……」
なぜか上機嫌な聡美に対して、優真はうんざりした気持ちになった。
その日の夜、珍しいお客がきた。
河本克也。
優真たちは克也を囲んで食卓にいた。
克也は優真にとっては伯父で、父の兄にあたる。
筋肉の樽みたいな体は柔道をずっとやっているせいだ。見た目も性格も修司とはだいぶ違っていた。
出張があり、ちょうど都内のホテルにきていた。
克也は缶ビールを右手に、
「よッ。ユウ! 大きくなったな。毛は生えたか? ッてな。ハハ。元気そうでよかったな。部活はあれか……」
優真は気圧されそうになりながら、
「うん。パソコン部だよ」
「お、そうか。インテリだな。いいよいいよ」
そう言って、缶ビールを空けて、枝豆をまとめて掴む。
修司も聡美も、控えめに缶ビールを呑んでいる。
克也はまた話しはじめた。
「そういや、修司……お父さんの子供のころに似てるかもなァ。お父さんはなァ、頭がよかったぞ。たまによくわからん騒動も起こしたけどな。まあ、修司の息子なら、大丈夫! ウハハハ」
夜の9時になり、克也はタクシーを呼んでホテルに帰っていった。
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