ターンアラウンドシュート 2
瑠香はエンジニアの仕事もそっちのけで、ひたすらタロットカードの復習をはじめた。
タロットカードに関する書籍はもちろん、神秘学や心理学、象徴学や宗教学の本を読み直し、メモをとった。
タロットカードの個々の絵柄の象徴を整理しなおし、それぞれのカードが出たときの説明をシミュレーションした。
そしてついに鑑定の当日を迎えた。その日は朝から小雨が降っていた。
いつもは凛都が座る椅子に自分が座り、正面には40代の女性――
また、部屋の脇には凛都が座っていた。研修中ということで特別に由里奈に許可を得ていた。
料金は凛都が別で受け取るらしく、瑠香への報酬はゼロだ。それでも授業料を払わなければいけないくらいだと、瑠香は思っていた。
瑠香の眼前の黒いマットの上には3枚のカードが載っていた。
もし間違ったことを言ったらどうしよう。あるいはもう、不審に思われはじめるかもしれない。こんな小娘にまともな占いなどできるわけはない、などと。
だから瑠香はエンパスの自分を殺して、無意識に心を閉じた。
凛都からいつも言われている『心をコントロールしろ』という教えを、ここにきて顕著に実践することになった。
凛都だったらどうするだろう。どのように話すだろう。
そんなことばかりを考えた。
また、占いというものによってお金を得るということが、エンジニアでもある瑠香にとって恐ろしいことでもあった。
プログラミングの仕事なら、仕様書とテスト結果と成果物があり、明白な基準があった。
一方でこの占いというものはまったく勝手が違った。
また、占星術などの生年月日から
冷や汗ばかりが出る中、瑠香はなんとか言葉を紡ぎ出していった。
「あの。外出先でトラブルに巻き込まれる可能性があり、その……」
由里奈の表情は曇っていく。失望の光がただよってきた。
瑠香はその光がこの上なく恐ろしかった。心を閉じていてもその光がわずかに視える。エンパスの能力がこれほど憎いと感じたことはなかった。失望の光は瑠香の体を駆け巡り、全身を鉛のように冷たく、重たくさせた。
なぜこんな思いをしなければならないのだろう。
由里奈は「また相談しますね」と言って席を立った。きっと社交辞令だろう。苦情を言わないだけずいぶんと大人だ。
外では雨が降っていた。店の前で凛都は、由里奈に対して「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
いつも傲慢で、自信にあふれる凛都がそんなふうに謝っているのは、はじめて見た。
だというのに、由里奈は言った。
「それでは、また1週間後に、予約しますね。また、よろしくお願いします」
由里奈を見送ったあと、瑠香は凛都に言った。
「もう、いやです」
「なんだ?」
「ぜんぜん、うまくいきませんでした。あんなに勉強したのに、言葉が出てこなくて」
「そうだろうな」
「そうだろうな、って……。ひどくないですか?」
「閉じていた」
「え?」
「瑠香。おまえはなんで、オレのところにきたんだ? それを、よく考えろ」
「いいです。もう、辞めます」
そう言って瑠香は店をあとにした。
雨は次第に大粒になり、アスファルトや屋根や木々を叩きはじめた。
その雨の中を、傘もささずに瑠香は歩いていた。
雨のプラタナス並木を歩いていると、先日の少女が黄色い傘をさして歩いていた。あいかわらず右脚が痛そうだった。
「え、あのときのお姉さん? 大丈夫?」
瑠香は少女に導かれ、閉店したイタリアンレストランの軒先に移動した。
「お姉さん。なにか、あったんですか?」
「ううん。ごめんね。心配かけて……」
すると、少女は紺色のサブバッグの中に手を入れ、オレンジ味の飴を取り出した。
「こないだの、お返しです」
瑠香はお礼を言って受け取ると、少し考えてから口に放りこんだ。少女からはやわらかい、桃色の光を感じた。
「ごめんね。ありがとう」
「いえ。こないだは、わたしの方こそ」
「ところで、あれから、どう? 脚の具合は」
「そうですね。最近は練習を休んでいるんです。悪化はしてないと思います」
「そんなふうに、休んでしまっていいの?」
「どうですかね」
「せっかく憶えたあの、シュート」
「ターンアラウンドシュート、ですか」
「そう、それそれ」
「ええ」
そこで少女はさみしそうにうつむいた。
「なにかワケアリかもしれないけど、早く脚がよくなるといいね」
「そうですね。でもわたし」
「え?」
「こないだ、ここで、お話を聞いてくれて、よかったです。ずっと、悩んでいたから」
「そう?」
「はい。お姉さんって、なにか、不思議な力があるんでしょう?」
「え? いえ、わたしは。……そうね」
「やっぱり」
「たぶん、エンパスって呼ばれているものらしくて。力だとか、そんなにいいものじゃない。でも、人の心や、痛みが、すうって伝わってくるの。光みたいに」
「すごい!」
「そうかな……」
「それって、お姉さんの、ターンアラウンドシュートだね」
「え? わたしの?」
「そう。たぶん、神様が、その力をくれたのかな」
「そうね。でも、わたしは……」
「微妙なの?」
「うん。とっても怖いの。それは。ネガティブな気持ちも、そのままきちゃうから」
「そう……。そうですよね。世の中、いいことばかりじゃないし。微妙なことの方が多いですよね」
すると、少女は黙り込んでしまった。瑠香は言った。
「ごめん。変なことを言っちゃって。せっかくはげましてくれたのに」
「いえ……」
「どうしたの?」
「わたし、バスケ、辞めようかなって」
「どうして? あんなに練習していたのに。ターンアラウンドシュート」
「もう、いいんです。たぶん、むいていなかったのかなって。脚を痛めたのも、辞めろ、っていう神様のお告げなのかな、みたいな」
「もったいないよ」
「え?」
「せっかくここまでやってきたんだし。脚をなおしてさ、やってみようよ」
「ダメなんです。うちは」
「どういうこと?」
「いえ……」
そこで少女は立ち上がると、少しおかしそうに言った。
「言えるようになりましたね。ターンアラウンドシュート」
少女は傘をさしてゆっくりと歩いていった。
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