第26話 もうひとりの理解者

 予鈴の音で、現実に引き戻された。濡れた身体に秋風が急にしみたからか、くしゃみが出てしまった。


「ごめんね」


 翠川くんは首を横に振って、私の右手をぎゅっと握った。湿った手袋越しに伝わる体温は、焦げてしまいそうに高かった。


「僕も一緒に行くから」


「ありがとう」


「それに、もし離れることになっても、戻ってくるまで待ってるから」


「……うん」


 私を見つめる翡翠色の目には、曇りや影はひとつもない。


 どうしてこんなにも、私のことを信じてくれるのだろう。


 彼の目には、私はいったい何色に見えるのだろう。


「お? 草壁。それに翠川……か?」


 意を決して一歩を踏み出そうとしたその時、市田先生が建物の影から顔を出した。


 いつものように濃紺のスーツをきっちり着ているけれど、表情は心なしか眠たげで、髪にもどことなく寝起きの気配が残っているように見える。


「お前ら、何やってるんだ」


 私を見ても反応が薄いのはどうしてなのかよく分からないけれど、こんな敷地の外れを先生が偶然通りがかるわけがない。もちろん私を捕まえるために来たはずだ。


 覚悟を決め、大きく息を吸った。


「あの、私が……カーテンに、その」


「ん? カーテンって、教室のか?」


 市田先生の、四角い眼鏡の奥の目がすこし丸くなる。


「ひ、火をつけたのは私なんです!! 謝って済むことではないんですけど、申し訳ありません!!」


 一息で言い切って、目を閉じた。叱責されるに違いないはずなのに、時計が突然壊れたかのような奇妙な静けさに包まれた。


 あれ?


 沈黙に耐えかねてそっと頭を上げると、市田先生は的外れな回答を聞いた時のような、なんとも変な顔をしていた。


「……は、何言ってるんだ?」


「えっ? でも、その、本当に私は」


 あれ?


 肩透かしを食らうかたちになった私に、先生は頭をかきながら困惑したような眼差しを向けてくる。


「あのな、とっくに予鈴鳴ってるんだぞ。訳のわからないことを言ってないで、早く教室に行け」


 市田先生は普段の授業の時と変わらないそっけない様子で言うと、くるりと背を向けて急ぎ足で去ってしまった。


 先生に引きずって行かれるものとばかり思っていたのに、意図せず取り残される形になってしまった私と翠川くんは、顔を見合わせた。


「私を探しにきたわけじゃない?」


「たまたま通りがかっただけみたいだね。何も知らされてない……のかな」


「かも。とにかく、行かなきゃ」


 すでに一限目の授業が始まっているからか、生徒はもちろん先生とも出会わなかった。それなら職員室に直接出頭することに決めて、教室棟が見えるところまで戻ってきた。


 職員室のある棟の入り口を目指しながら、二年生の教室のある二階を見上げる。


「え」


 我ながら、間の抜けた声を出したと思う。


 ありえないことに気がついて、糸が絡んだように足が止まってしまった。少し先を歩いていた翠川くんも、足を止めてこちらを振り返っている。


「草壁さん?」


 落ち着け。もう一度、二階の窓を一番端から数えて二十四枚目。二年C組……つまり私たちのクラスの窓には、私が焼いてしまったはずの生成色のカーテンが、何食わぬ様子で下がっていたのだ。


「……どうして? さっきから今の間に、新しいのに取り替えたってこと?」


 そうでないと、目の前の光景に説明がつかない。翠川くんも私の目線を追いかけるように上を見た。


 まるで何かを探すように目をすがめる。綺麗に整った横顔がわずかに歪んだ。


「……帰ろうか」


 彼はなぜかそう言うと、痛いほどの力で私の腕を引いた。


「えっ!?」


「僕んち行こう。その格好どうにかしないと。だから」


「だ、大丈夫、体育あるからジャージ持ってきてるし。私は平気。それよりも、ちゃんと」


 私がその先を言うより、翠川くんの言葉の方が早かった。


「たぶん草壁さんのことは誰も追ってこない。だから、早く行こう」


「えっ、どうして?」


「後で話す。誰かに見つかる前に、早く」


 どういうことかわからないけれど、有無は言わせない、と翡翠の目が言っている。いつもはふわふわ柔らかい物腰の彼だけど、時々こういう力強い眼差しになって、私の心をぐっと引っ張ってしまうのだ。


 私は手を引かれるまま、裏門からこっそり学校を出た。どうやら、本当に翠川くんの家に連れて行かれてしまうらしい。


 前を歩く彼は何も言わないから、私も黙ってついて行くしかない。


 右手でスマホを操作して、左手では私の手をしっかりと握っている。手が大きいのをじっくりと感じて、鼓動がどんどん早まっていく。


 昨日とは違う道で住宅街に入り、緩やかな坂を下るとあの生成色の外壁が見えてきた。正門からだと歩いて十分弱の距離だった彼の家は、裏門からだとさらに近かった。


「うわあ、大変だったね。入って、入って」


 翠川くんが連絡していたのだろう。彼のお母さんが玄関先ですでに待ち構えていて、ドロドロの私を快く迎え入れてくれた。


 真っ先にシャワーを貸してもらって、そのあとに頬を手当してくれた。傷は浅く、紙で切ったように裂けているだけだったようだ。消毒液がちょっとしみたけれど、大した怪我ではなさそうだ。


「はい、できたよ」


「ありがとうございます」


「ほんと、顔に傷つけるのはダメだわ。このくらいなら大丈夫だとは思うけど」


 翠川くんのお母さん――失礼ながら、少しややこしいのでおばさんと呼ぶけれど、は、慣れた手つきで私の頬にガーゼを当ててテープを貼り、救急箱を閉じた。翠川くんは、私と交代でバスルームにいる。


「そ、その。着替えまで貸していただいてすみません」


「どういたしまして。ほんと可愛いねえ、すごく似合ってる」


 そわそわするのは、着慣れない服のせいだけではない。おばさんは、


「そ、そんなことは」


「やだ。お世辞なんかじゃないよ」


 可愛いなんて、家族と、葉月以外に言われたのは初めてだった。面映くなってうつむくと、夜明けの空を思わせる、柔らかな藤色が視界いっぱいに飛び込んでくる。


 ふんわりとしたデザインのワンピースは、おばさんが若い頃に着ていたものだそうだ。今日も白シャツと細身のジーンズを履きこなすさっぱりとした雰囲気の方なのに、可愛らしい服を着ていたこともあるのをちょっと意外に思った。


 まあ、若い時とは服の好みが変わることもあるのだろう。以前、うちの母もそんなことを言っていた気もする。


「ねえ。制服、洗濯機で回しちゃっていいかな?」


 うんうんと考えていると、おばさんが頬杖をついて微笑んでいた。そういえば、この笑顔もだけど、話し方も翠川くんにそっくりだ。不覚にも、胸が高鳴ってしまう。


「あっ、はい……母もそうしてます。ああいや、そんな、申し訳ないです。そのまま適当に持って帰りますから」


 必死にかぶりを振る。昨日会ったばかりの人にそこまでしてもらうのはさすがに気が引けてしまった。


「いいよ。史穏の分も洗わなきゃいけないから。一着も二着もそんな変わらないじゃない。うちは男の子ばっかりで、汚れ物は慣れっこだよ。まかせあれ」


 おばさんは得意げに笑うとグッと胸を張る。


「ありがとうございます……すみません」


「洗濯回してる間に荷物取りに行ってくるから。史穏とおんなじクラスよね?」


「ああっ!!」


――そうだ、荷物!


 教室から衝動的に飛び出してしまったから、通学カバンも、なんならスマホも財布もまだ教室に置いたままだ。盗られていなければいいけれど。


 そもそも、私は火をつけながらも逃げてきてしまっているわけで、そんな人間を匿ったとわかれば、翠川くんやおばさんは――


「ほんと、むりやり連れて帰ってくるなら、荷物くらい持ってきてあげろって感じよね。気が利かなくてごめんね。愛想尽きてない? 大丈夫?」


 色々と悪いことを想像して頭を真っ白にした私とは対照的に、おばさんは申し訳なさそうな様子で笑っている。


「大丈夫ですっ!! じ、自分で取りに行きますからっ」


 これ以上迷惑をかけられないと立ち上がったけれど、


「色々あったみたいだし、あんまり学校に顔出したくないでしょ。大丈夫。おばちゃんがうまいこと言っといてあげるからサボっちゃえ。制服乾くまでウチでゆっくりしていってよ」


 ダイニングチェアに力強く押しつけられて、にっこりと微笑まれてしまった。


「あ、ありがとうございます」


 翠川くんの優しくてちょっと強引なところも、きっとこのお母さん譲りなのだろう。それに私は、何度救われたことか。


 けれど、私は俯いた。優しくしてもらえて嬉しいはずなのに、心の中はざらりとした砂色をしていた。理由もわかっている。騙しているようで後ろめたいのだ。


「あの、私、【不詳】なんです。だから、その、ごめんなさい」


 これを言えば、ほとんどの超能力者はあからさまに態度を変える。役立たずの落ちこぼれと認識されているので、下に見られることも多いからだ。


 お母さんもおそらくは能力者。翠川くんはどうしてかあんな感じだけれど、【不詳】なんかが自分の子供と仲良くしていると知ったら、きっと気分を悪くされるはず。


 案の定、お母さんはぴくりと眉を動かし、それから私をじいっと見つめた。


「それが? 困ってる子を助けるのは大人として当たり前よ。息子と仲良くしてくれるなら、私としてはどんな子でも……まあ、いい子の方が嬉しいけど……えっと、私は今、嬉しいと思ってるよ」


 視線を返すと、色は違えど、翠川くんと同じまっすぐで曇りない目がそこにある。


 今度こそ、本当に安心した。


 ◆


 手早く洗濯機をセットしてから、身支度を済ませ廊下に出たお母さんのあとを、黄色いひよこのようについていく。せめてちゃんと見送るのが礼儀だ思ったからだ。


「……母さん」


 すっかり綺麗になった翠川くんが玄関に立ち塞がるように立っていた。いつか見た、黒のパーカー姿だ。


「そんな怖い顔してどうしたの、史穏」


 俯いた彼の前髪の隙間から覗く翡翠色の瞳が、まるでカミソリの刃のように鋭く光っているのが見える。


「……僕も行く。確かめたいことがあるんだ」


 見慣れた温厚な表情は、拭き取られたかのように消え去っていた。いつも私に優しい言葉をかけてくれるのと同じ口から、聞いたことがない低い声が響いて、雷が鳴る前の鈍色の空を彷彿とさせる。


 思わず身がすくんでしまった私。けれど、お母さんは全く動じない。


「あんたは留守番。連れてったらたぶん騒ぎになるだけだから。このあいだ倒れた原因もまだ分かってないんだから、大人しくしてなさい」


 お母さんは眉をひそめて腕を組む。私と接していた時とは違うひんやりとした口調は、どうしようもないわがままを言う子供をあしらう時と同じだ。


「でも!」


 それでも食い下がろうとする翠川くんの横を、お母さんは涼しい顔ですり抜けて靴を履く。それから、下駄箱の上に置いてあった黒手袋をはめた。


「……はあ、読んだならわかったね。どうするかは自分でちゃんと考えて」


「はい……」


 お母さんに睨まれると翠川くんはなぜか急に勢いを失って、空気が漏れた風船みたいにしわしわと小さくなっていた。誰しもが振り向くほどかっこいいのにどこか自信なさげな、いつもの彼に戻っている。


 どうやら、気付かぬ間にテレパシスト同士でなんらかのやりとりがあったらしい。その手の能力がない私には、何がどうなっているのかさっぱりわからないけれど、親子の間で見えない火花が散っていたようだ。


「とにかく、あとはおばちゃんに任せといて」


 笑顔でそれだけ言い残すと、お母さんは颯爽と家から出て行ってしまった。

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