第25話 本当の力

――取り巻きたちの笑い声がやんだ。


「草壁さん!!」


 この世で一番大好きで、今一番会いたくない人の声。私は今にも出かかっていた呪いの言葉を押し込んだ。溶けかけていた身体の感覚が戻る。


 まるで夢から覚めたみたいに、心をすっぽりと包んでいた炎が消えていた。胸の奥はまだわずかに疼くけれど、あの昏くて甘い声はもうしない。目に刺さるほどに彩度を上げていた視界も元通りになっている。


――なんだったの? あれは。


 寝不足のせいで見た変な夢だと思いたかった。だって、なんでも思い通りになるなんて、そんなことがわけない。


 だって、私には染めることしかできないんだから。


 とにかく、しっかりしろ。酸素を取り込むために大きく呼吸をすると、微かに焦げたような臭いがすることに気づいた。


 ……え、焦げた?


「火が!!」


 誰かが大声で叫んだ。


 私のすぐ横にあったカーテンから、マッチを擦ったくらいの大きさの朱色の炎が上がっている。


『……何もかも、燃やしてしまえばいい』


 どうしても、あの時のささやきが脳裏をよぎる。


 教室に火の気があるわけがない。PKに属する能力に発火能力パイロキネシスというのもあるにはあるけど、このクラスに使い手はいないと思う。


 だとしたら、私の夢から飛び出してきたとでもいうのだろうか。


 呆然としているうちに生成色のカーテンを食らいながら炎は育ち、天井へと勢いよくよじ上っていく。熱気がゆらりと顔を撫でて、足がすくんで動けない。網膜に濃い朱色が焼き付いて、瞬きをすることもできない。それでも必死で息をするけど、肺が熱くて苦しい。


「草壁さん!! 危ない!!」


 翠川くんが取り巻きを押し除けながら飛び込んでくる。髪が焼ける臭いがしたのと同時に、手を強く引かれた。床が濡れているせいで足がもつれ、翠川くんを巻き込むようにして転倒してしまう。


 直後、大きな悲鳴が上がる。


 強い水圧を浴びて身体が一気に冷やされた。私と翠川くんは寝転がった状態でずぶ濡れになって、おでこが合うくらいの距離で顔を見合わせていた。どうやら、誰かが水を炎に向けて飛ばしたらしい。


 あの変な液体は洗い流されてしまったのか、鼻をつくのは焼けこげた臭いに変わる。カーテンがあったはずのところには、真っ黒に焦げたボロ布がぶら下がっているだけだ。


「ごめんね、ちゃんと庇えなかった……」


「あ、だ、大丈夫!?」


 翠川くんの体内には能力を制御するための精密機械が埋め込まれていると昨日聞いたばかりだ。頭を打ったのではと青ざめたけど、翠川くんは笑顔を崩さない。


「僕は平気だよ。それよりも」


 翠川くんは肩を押さえながらゆっくりと起き上がった。妙に落ち着いた素振りで汚れた私の頭にそっと触れ、そのまま下に手を滑らせる。頬に張り付いた髪を、熟れた果実を扱うように丁寧に剥がしていく。


「やっぱりケガしてるじゃないか。この人たちにやられたの?」


 ズキンと、頬の傷が熱をもつ。


「なんでもない。このくらい平気だから。ほんとに、何にもないから」


 迷惑も、心配もかけたくない。何より、いじめられてるなんて知られたくない。ましてや原因が翠川くんだなんて、絶対に絶対に言えない。彼の手を払い、顔を背ける。


「嘘だ、なんでもなくないだろ!? どうして……」


「コラ!! お前ら一体何やってるんだ!!」


 教室の中に、大きな雷が落ちたようだった。顔を真っ赤にした担任を先頭に、教師が数人教室に飛び込んできたのだ。私を囲っていた取り巻きたちが蜘蛛の子を散らしたようにその場から逃げたせいで、私と翠川くんの眼前に大人たちがブロック塀のように重く立ち塞がった。


「草壁、翠川、なんなんだこれは」


 担任が、こちらをぎろりと睨みつける。


「先生。草壁さんが、カーテンに火をつけたんです!」


 誰かがそう言うと、非難するような眼差しがいくつも刺さる。担任は窓際に目線を投げると、さらに大きな声で叫ぶ。


「草壁!!」


「私は……私は……」


 喉が焼けたみたいにかすれた声しか出ない。


「草壁さん!! 違うだろ!?」


「あ……」


「草壁ッ!! こんなことをしてただで済むと思うなよ!!


 担任が目を剥いてさらに迫ってくる。


 カーテンを焼いただけとはいえ、放火は誰しもが知っている通りの重罪だ。つう、と背中に冷たいものが伝った。


 だって、『違う』とは言い切れないから。


『あなたの本当の力を、お示しになってください』


 ああそうだ。この光が、私が、私の、本当の力とやらで。


「うわあああっ」


 胸の奥底で青白い星がギラギラと輝いている。あまりにもまぶしすぎて、眩暈がするようだった。


 とうとう耐えきれなくなって、私は叫んだ。担任の腕を渾身の力で振り払い、怯んだ先生を突き飛ばして、廊下に飛び出した。


「草壁さん!! 待って!!」


 翠川くんが叫ぶ声が聞こえたけれど、私は振り返らなかった。生徒とすれ違うごとにヒソヒソ声がまとわりついてくる。ずぶ濡れの【不詳】が面白おかしいのか、笑う声まで聞こえてきた。


 校舎の外に出て、手近にあった手洗い場の蛇口を捻った。出てきた水は、シンクに落ちるまでの間にまるで墨汁のように真っ黒になってしまう。設備に異常があるわけではない。


 これが私の能力、『染色』だ。落ち着いている時なら、生物でも無生物でも、何でも思いどおりの色に染められる。


 けれど、心臓がひっくり返りそうになっている今は、心から溢れた色に勝手に染まっている。ひどく動揺しているせいで、力をうまく制御できなくなっていた。水は黒から赤、青、緑と色を変え続ける。


 とにかく喉がカラカラに乾いていたので、手のひらに溜めた水を構わず飲んだ。


 何も知らない人はギョッとするかもしれない。でも、色が変わっているのは見た目だけで、性質や成分が変わっているわけではない。


 その証拠に、ほんの少しの鉄臭さとカルキの匂いが鼻に抜けたけど、それは別に透明な水道水となんら変わりない。


 喉を濡らすと水を止め、乱れた呼吸を整えぬままに再び歩きだした。校舎の裏に回り、いつもの場所を目指す。


 いつものベンチにたどり着いた途端、どっと力が抜けてしまった。私の全体重をいっぺんに受け止めたベンチが痛々しい音を立て、不自然にお尻が沈む。


「ああっ、うそ」


 何かに引っかかったスカートを引っ張りながら立ち上がると、座面に大きなヒビが走っていた。


 色は先日私が染めたから綺麗な翡翠色だけれど、これも見た目だけの話。誰も寄り付かない場所に打ち捨てられたかのように置かれているからか元々は古びて色褪せていて、いつ壊れてもおかしくはない状態ではあったけど。


 ある日から、ひとりぼっちの私を黙って受け止めてくれてくれた。私が学校ここで唯一手足を伸ばせる場所だった。翠川くんと出会ってからは、ふたりきりで過ごす場所になった。


 落ちこぼれの私にとって学校生活なんてものは、青い春とは程遠く色のないものだけど、ここにいるときだけは色がついていた。


 私が、自分の手で壊してしまった。それに何もかもが壊れようとしている。


 じきに先生たちにここにいることを暴かれてしまうだろう。そうしたらきっと、翠川くんとは一緒にはいられない。大好きな両親や、親友とも引き離されてしまう。


 自分の力は人を幸せにするために、楽しいことに使う。意地でも守ろうとしたものを、自分の手であっさり燃やしてしまった。


「ごめんね……」


 割れた座面に触れると心がさざめきたつ。染めようとしている時と全く同じ感覚が走っている。


「私は、なんでも自分の意のままにできる」


 先ほど自分で唱えた言葉が漏れる。試してみたいことがあった。目をそっと閉じ、初めて色以外のものも想像してみた。


 負の感情がぶちまけられて暗い灰色だった心の中に、絵を描くように伸びやかに色と形が満ちていく。


 つやつやで鮮やかな青の座面に、つるりとした白の足。生まれたばかりの時はきっと、陽の光を浴びて、誇らしそうに輝いていたんだろう。


「ああ……」


 目を開いた先にある光景に、もはや言葉が出なかった。


 壊してしまったベンチは、そこだけ時を巻き戻されたかのような姿になっていて、恐る恐る座ってみても、悲鳴を上げることはない。座面の手触りも、疑いようもなく新品そのものだった。


「本当に……」


 まるでまぶたの裏から取り出したような姿は、小さかった頃の私ならきっと両手をあげて喜ぶだろう。


――けれど、今は疑惑を確信に変えただけで。


 そもそも、私の能力が明らかになったきっかけは白かったクレヨンの色を水色に変えてしまったから。それを見た母が喜んでくれたから、色々なものの色を変えていった。それこそ母の鏡台にあった小さな宝石から、住んでいる家の外壁まで。


 だから私は『染色』の能力者とされた。色を変えることができる力、言い換えれば色を変えることしかできない力、そして、そのほかの超能力に一切適性を示さない。


 変わっている、落ちこぼれ、規格外、出来損ない、そんな言葉を浴びてきた。だから訓練をしても意味がない、自分自身もそう思い込んでしまっていたけれど。


 だけど、私の本当の能力は、『願ったことを叶えることができる力』なのかもしれない。


 思い返せば最初の一件も、『色が変わればいいのに』と願ったことから始まっている。


 となると、大きな謎が残る。それはこの力はいったい何なのかということ。


 火を起こすのはともかくとして、物体の色を自由自在に変え、壊れたものを新品の姿に戻せてしまうのは、完全に超能力の枠から外れてしまっている。


 目を閉じると、身体の中で青白い星が強く光り輝いているのを感じる。


 それは私が能力を使う時に色が満ち引きする部分、要するに心があると思っていた場所だ。


『……おわかりになられましたか?』


 またあの声だ。首を振る。わからない。けれど、


 ……なぜか、私の力を知った時に母が言った言葉が頭をよぎった。


 もしかして……


「みつけた」


 思考が途切れる。いつのまにか翠川くんが目の前に立っていた。さっき一緒に水を被ってしまった彼も、私ほどではないとはいえひどい有様だった。制服は着崩れて、いつもはサラサラの黒髪もベッタリと重くなっている。


 走ってきたのか息が荒いのに、宝石みたいに強く輝く翡翠色の瞳に曇りはひとつもない。


「さっきは大声出してごめん」


 翠川くんは少しの距離を空けたまま、極めて柔らかい声色で言った。かえって胸が絞まるような心地だった。


「ごめん、本当に、平気だから」


 やっとのことでそれだけ言って、私は彼から顔を背けた。


 この答えがズレていることは承知しているけど、優しくされてもどうしたらいいのかわからない。


 だって、私は自分の本当の能力に気づいてしまったから。


 あいつらに殺したいほどの憎しみを抱き、それを叶えるために火を出して全て燃やそうとしたのは私。


 幸い未遂に終わったけれど、もしあの時、翠川くんが来なかったら。もし、力を止められなくて彼を巻き込んでいたら。想像しただけで血が凍ってしまいそうになった。


「僕からは逃げないで。友達……なんだから」


 彼はどこまでも澄んでいて優しい。今までは嬉しかったけど、今はただただ痛い。


「言えないなら、言わなくてもいいから。でも、ひとりになろうとしないで。僕をひとりにしないで。お願いだから」


 翠川くんは懇願するように言って、私の隣にゆっくりと腰掛けた。いつもよりもずっと近く、密着してしまっているのに心臓が大きく飛び跳ねた。恥ずかしくて顔を覆ってしまいそうになったけれど、翠川くんはしんと落ち着き払った顔をしている。


「待つって約束したから、今はまだ言わない。でも、何があっても僕の気持ちは変わらないよ」


 伸びてきた両腕に逆らうことができなかった。読まれるのかと思って身を縮めた私を、彼は腕の中に収めてしまう。心臓の音が、掴めてしまいそうなほどに近くて、目が回りそうになってしまう。


「わ、私、その、濡れてるし、その」


「僕だって一緒だよ」


 彼の制服もぐっしょりと濡れている。けれど、それを通り越して温もりが染み込んできた。


 彼は何も言わない。汚れていて臭うはずなのに、そんなことは構わないとばかりに髪を撫で、大切なものを愛でるみたいに頬を寄せてくれる。私も腹を括って、同じように彼の胸に顔を埋めた。ため息が漏れてきて、私を包む力が少しずつ強くなる。


 目を閉じると、燃えるように赤く赤く染まった心が見えてしまった。こんなふうに私のことを想ってくれていたのかと、涙がこぼれた。


 もう少しだけ、先生たちに連れて行かれるまででいい。


 見つかったら何もかもを話して、ちゃんと罪を認めよう。


 結果、捕まるかもしれないし、転校させられるかもしれない。超能力者の枠を外れてしまっている人間に何が待っているかは、想像することもできない。


 でも、彼がいてくれるなら、いや、こうして彼が私のことを信じて一緒にいてくれたという事実があれば、私はきっと大丈夫。


 何があっても、きっと大丈夫。


 冷たい風はいつのまにか止んでいた。


 先生たちが来るどころかあたりは不気味なほど静かで、まるで世界に翠川くんとふたりきりになったみたいだった。

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