第8話 忘れ物をした時は

 あー、やばい。ピンチだわ。


 爽やかな朝のはずなのに、私は冷や汗をかいていた。なぜなら、カバンを叩いてもひっくり返しても、一限目で使う現代文の教科書が出てきてくれないからだ。恥ずかしがってないで出ておいで――なんて心の中で唱えたりもしたけど、ないものはない。


 別の学校に通う友達、葉月との長電話が楽しかったおかげで、時間割が変更になってたことが頭から吹っ飛んでしまっていた。


 いやダメだ、人のせいにしてはいけない。悪いのは私だ。空になったカバンを机の横に引っ掛けてから、腕を組んだ。


 そう、たとえ超能力者といえど、ただの人間なのだ。当然たまには忘れ物くらいする。こういうときには別の場所にあるものをこちらに転送する取寄アポートが使えればいいけど、残念ながらそれもテレポートと同じく使い手の少ない希少な能力である。


 自宅までの所要時間は二時間半に対し、始業まではあと五分である。取りに帰るのは不可能で、さらに悪いことに【不詳】の私に教科書を貸してくれそうな友達なんていない。さあ、どうしようか。


 現代文担当の石森先生は厳しい人なので、少々のお説教は覚悟しなければならないだろう。それはもう仕方ないとして、単純に教科書がないのは困る。借りるあてがないんだから、忘れ物には何よりも気をつけないといけなかったのに。


 自分の不甲斐なさにため息と頬杖をついていると、肩をツンツンと突かれる。また消しゴムか何かを飛ばされたかと思ったけれど、振り向いてみると違っていた。


「あ、あの、よければ僕のを一緒に見ない?」


 私のすぐ横に翠川くんが立っていて、少し恥ずかしそうにはにかんでいる。庶民のピンチに現れた白馬の王子様――にも見える彼は、実は凄腕? のテレパシストにして、この学校で唯一の友達である。


 読まないって約束をしたはずなのにどうしてと思ったけれど、教科書だけが足りない机の上を見れば状況は明らかか。助け舟に乗り込むと後々めんどくさいことになりそうだけど、教科書を見せてもらえるのは素直にありがたい。後のことは後で考えることにして、謹んで好意に甘えることにした。


「お、おねがいします」


「やった!」


 翠川くんは男の子らしく、控えめなガッツポーズを見せてから自席に戻った。なんで喜ぶ? それにちょっと待てい。どうして机を動かそうとしている?


「え、なんでこっちに机を寄せるの?」


「え、だって机くっつけなきゃ二人で見られないよね」


「確かにそうだけど」


「だからほら、草壁さんもこっちに来て」


 無邪気な顔で手招きされると、心臓が飛び跳ねる。たとえ見た目がタイプじゃないとしても、中身は白馬の王子様どころか困り顔の子犬だとしても。どうにも調子が狂ってしまう。


「ううっ」


 高校生にもなって机をくっつけるなんて展開は、完全に想定外だった。今さら要らないとも言えず、観念して机を押して寄せると、翠川くんはなぜかとても満足そうに笑う。


 不覚にも、その笑顔に目が眩みそうになった。


 翠川くんは、男性ながら柔らかな物腰と涼やかな美貌を持ち、優秀な超能力者を多数輩出している一族の生まれなことから、『学園の王子様』と呼ばれている。


 しかし、どんな美人に言い寄られても一切なびくことなく、なぜかクラスの鼻つまみ者の私にだけ懐いているというちょっと変わった人。懐くって言葉を使うのもまるで動物みたいで変だけど、私には彼が雨に濡れて震える子犬みたいにしか見えなかったりする。


 こうやって彼が私に話しかけるたび、笑いかけるたび、彼を慕う女子からの陰口が鼓膜をカリカリ引っ掻き、さらには王子を籠絡する敵をすり潰さんとする歯軋りの音まで聞こえる。それに加えて男女構わずな好奇の視線がグサグサ刺さって、心が血まみれになりそうだった。


 て言うか。テレパシストでもない私がこんななのに、触らなくても読めるはずの翠川くんが平気そうな顔をしているのが謎すぎる。


 私を見ていれば周りのことは気にならなくなるって言ってたけど、そんなに効果があるものなのか。確認のために手鏡をのぞいてみたけれど、そこには見慣れた顔があるだけだ。


 彼のご尊顔の方がよっぽどその手のご利益がありそうだと思う。だったら私もと、いつもより近い距離にある彼の横顔を観察してみた。


 静かな湖面のように透き通った瞳は、今は私の方ではなく真っ直ぐに前を向いていて、口角は嬉しそうに上向きだ。いつ見ても鼻と唇の形、配置が完璧に整っている。


 頬にはなんの瑕疵も見えず、白くてきめ細かい。これがメイクをしていない素のままだとしたら、なんて羨ましいことだろうか。


 よく『美人は三日で飽きる』なんて言うけど、きっとそんなことはない。お母さんの持ち物である宝石をこっそり見た時にも思ったけど、本当に美しいものには心が吸いつけられて、ずっと見ていられる。彼はまさに、そんな感じだった。


「あの、ぼ、僕の顔、何かついてる?」


「なっ、なんにもありませんっ」


 ええ、ニキビやしみのひとつですらも。反射的に寝不足で荒れた自分の頬を撫でると、ちょっと悔しくなる。


「何で敬語なの? 変なの」


 変だなんて、君にだけは言われたくない。【不詳】の私にこうして優しくしてくれる君だって、かなり変だと思う。


 でもやっぱり私も変だ。調子が変だ。なぜか高鳴った胸をぐっと押さえる。


 そんな私を見て、翠川くんは小さく笑いながら私たちの間に教科書を置く。


 教科書を忘れて恥ずかしいからなのか、高校生にもなって男子と机をくっつけたりしているからか。なぜか翠川くんが私の前ではずっと嬉しそうにするからか。動けば腕が触れてしまいそうだからか。


 意識してしまうと、胸の中にすごい勢いで色が満ち始める。ダメだダメだと念じても、蛇口が壊れたみたいに止まってくれない。こんな事は初めて……いや二度めか。


「草壁さん? どうしたの、顔が赤い気がするけど。熱?」


「気のせいだって」


 顔をそらそうとしたけれど、すぐに翡翠色の瞳に捕まってしまう。逃げられなかった。


「ほんとに……?」


 心配そうな顔をした翠川くんの手が、黒手袋に包まれた手がこちらに向かって伸びてくる。今度はそっちに目が釘付けになる。


 だって、直に触れたわけではないけれど、私は、あの手が細いけれど力強くて、温かいことを知っている。


「ほんとに、なんでもないから」


 と、強がってみたものの。全然なんでもなくなかった。ちょうど意識が向いていた方向めがけて色が飛んでしまう。すると、まるで燃え上がるように、一瞬で漆黒が真紅に染まる。


「わあっ!!」


「ああ……ごめんね」


 紅葉みたいになった手を広げた翠川くんが、小さく歓声を上げた。トレードマークの黒い手袋が、あの日のイチョウと同じ真紅色に染まってしまっている。


「……やっぱり草壁さんは赤が好きなの? いや、これは何色なのかな?」


「もう、赤でいいよ……」


 妙に恥ずかしくて、そう答えるのがやっとだった。


 翠川くんは、真っ赤に染まった自分の手を、興味深そうに何度も握ったり開いたりしている。まんまるに開いた瞳の中に、まるで赤い睡蓮が浮かんでいるみたいに見えた。

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