第2話

雨上がりの湿ったコンクリートを踏み、道を遡って行く。田中の後ろに釜井が、その後ろに佐間がいて、どうも喋りづらそうな配列だな、と三人はほとんど同時に思っていた。この配列を崩していつもの横並びに戻すためには誰かが切り出さなければいけないのだが、三人はじめりとした空気に押されていたので、誰も口を開くことはなかった。道路には、水滴を被って艶が出ている葉っぱが幾つか落ちている。


 「田中ぁ、お前はじめっとした暑さと砂漠みたいなからっとした暑さを選べるんならどっちにする?」


 釜井は緩慢な動作で服と密着させていた布地を剥がし、片手にそれを被せて言った。


 「暑いのは嫌いだね」

 「まともに答えろよ、ラノベの主人公でもないんだし」

 「「そんなんしてたら碌な大人にならないぜ」」

 「被せるなよ」

 「釜井、別にいいだろ? 兄弟なんだから」

 「細かい嫌がらせばっかしやがって、もう高一なんだぜ兄弟」

 「兄弟じゃないだろ」

 「お前から先に言ったんだろうが」

 

 釜井と佐間は互いを牽制しながら歩く。次第に二人の声は混ざり、区別ができない程になった。罵声とまではいかないが、聞いていて心地よいものではない。夕焼け雲がこの状況にもお構いなくぼんやりと漂っていて、不思議とこの口喧嘩もロマンチックなものだと誤魔化せる気がした。


 田中はスマートフォンの画面を見て、瞬きをするだけ。そんな動作を繰り返し、十分経ち、校門にたどり着いた。釜井はポンチョコートを肩に雑に乗せて校舎を指差し口を開いた。


 「教室に小説を幾つか忘れたんだ。田中、俺たちの口喧嘩に少し疲れただろ? ちょっとここで待っててくれ」

 「「帰りもあんな感じだろうからな」」

 「被せるなって!」

 「いや、被せてないぜ」

 「口ではどうとでも言えるわな。だが、その小さな小さな猿人並の脳みそから出てる意地の悪さは隠せてないぜ?」

 「猿人だって? 何歳児の使う喩えだよ、今時の中学生だってそんなに浅い語彙じゃないぜ」

 「ぜっぜぜっぜうるせぇな! 俺の語尾まで真似る気かよ!」

 「二回しか使ってないだろ。そんなに自分が意識されているとでも?」

 「….まあ、確かにそうだな」

 「少しは落ち着いて話すことだな」


 二人の姿が校舎に隠れるまで、騒々しい声が田中の耳にはっきりと聞こえていた。彼らが喧嘩をするのはいつも通りのことだったので、田中は何も驚かなかった。ああやって争った後は、大体数十分で元通りになる。『喧嘩するほど仲が良い』をここまで体現している人間を田中は見たことがなかった。


 スマートフォンの画面をスワイプしてmusicアプリを開き、適当な音楽をかける。最近はイヤホンを通して音楽を聴いてないな、と田中は思った。彼はテレビのニュースなどでやれなになにが悪い、こーいうのが健康的な生活を乱す、などの意見に流されやすく、不安だと思ったことは取り除かずにはいられない性分だった。


 町中に人があまりいないのは確かめたけれど、大音量で音楽を流すのはやはり気がひけるということで、田中は辛うじて聞こえるほどの音量に調節したものを、耳に近づけて楽しんだ。この行為はBluetoothイヤホンで音楽を聞くのとそう変わりはないのだけれど。


 視覚的にも自分を楽しませようと田中は周りを見渡す。校門沿いの壁にネジで括り付けられているホワイトボードには、幾つかの貼り紙がされていた。何戦争支援の募金、徘徊老人目撃情報、生徒同士の待ち合わせ、目新しいものはあまりなかった。強いて言えば待ち合わせ伝言の中に、妙に焦ったような文体のものがあったことが、目新しいものになる。


 『至急、ヒダリカドの上筋へ』


 歴史の授業で昔の新聞を見ると書いてある、あんな感じの文体だった。文字は黄土色で書かれていて、固体と液体が混じったインクだった。校門の方から足音が聞こえた。シルクハットの男と、工場でたった今生産された、と言われても違和感を感じさせないほど単純な顔の男が歩いてきた。体が重なっても特に会話が起きたわけでもなく、二人は通り過ぎて行った。直ぐに、佐間と釜井が歩いてきた。手には本を持って。


 「ごめんな、けっこう待たせたろ」

 「実はちょっと中身を読んじゃっててね」

 「短編集だから手軽に目を通せるってわけさ」

 「田中、後で貸してやるから感想聞かせてくれよ」

 「おい、話がだいぶ飛んでないか?」

 「そうかな」

 「短編集だから、から直ぐに感想の話になるのはおかしいだろ」


 言い争いは田中が二人を待っていた時間よりも長く続き、田中は痺れを切らして二人を無理矢理歩かせた。


 「田中ぁ、本屋行かない?」

 「いいよ」

 「ふふ、おすすめの本があるんだよ。お前の二次元創作現実逃避アニメで汚れ切ったその目を潤す本がな」

 「随分な言いようだな」

 「お前には現実を見てほしい! こんなにも愛らしい小動物、ラッセルみたいな大親友がここにいるのに、お前はどうやら気づいていないみたいだからな。そのためにも、良い本が必要なのだ」

 「自分自身を高く評価できるのは良いことだ」

 「もっと褒め言葉を」

 「撫でやすい位置に頭があるのも良いことだ」

 「満足だぜ」


 田中はそっと二回釜井の頭を撫でた後、会話を切り上げた。佐間が今にも何か言い出しそうだったからだ。釜井は世間一般の基準に当てはめると、構ってちゃんの部類に入る。自分を可愛いと思っているし、実際可愛い。それでいて悪意はなく、感情の流動が絶え間ない。田中そう思っている、少なくとも今の所は。


 「本屋なんて高校生活最初の夏を埋められるもんじゃないぜ、スーパーはどうだ?」

 「あんまり大差ないだろ」

 「「田中はどっちが良い?」」

 「スーパーの中に本屋もあるだろ」

 「「確かにな!!」」

 「やかましい」


 話しながらも歩みを進め、景色も次第に凹凸のある形状に変わっていった。駅前を見せ掛けでコーティングするために建てられたビル群は、この町にはあまり似合っていない。発展した駅が可哀想に思えるほどに人通りは少なく、ミネラルウォーターを空にした後に出る少しばかりの水滴にも例えられてしまえるほどだ。古い木製の駄菓子屋と、ギラギラとした光を鋼鉄の外骨格に反射させている不動産屋が並んでいる景色は、他ではそう見ることが出来ないだろう。


 「あそこの駄菓子屋のおばあちゃん、自分の店のピンボールマシンで売上全部スったらしいぜ」

 「あきらめない心って時には毒だな」

 「だから急に値上げしたのか」

 

 駄菓子屋の棚にセロハンテープでくっつけられている砂肝ジャーキーが、定価の四倍で売られている。田中たちは通り過ぎ、スーパーへと向かう。

 

 


 

 ….ソフトハットの男は肩にかけた頭巾を一つ取り外し、中年男性の湿った額の上に荒っぽく被せた。頭巾の上からは中年の輪郭が見えないが、男はその上から爪楊枝で眼を的確に抉ったようで、数分後、頭巾が取り外された時には両眼の黒目の部分だけが抉られて白い滑った液体に包まれていた。


 ココナッツがリズム良く、トン、トン、カンカン、と刻まれるような、手慣れた作業だった。中年は思いっきり叫び、男も好きなだけ叫ばせた。アドレナリンが出終わるのを待っていたようで、中年が痛みに悶えるようになってから作業は再開された。


 水晶体が付いた爪楊枝を多機能ジャケットにガムテープで貼り付けられたケースへそっとしまうと、男は次に無数のガラス片を中年の座る椅子の前にばら撒いた。


 中年の縛られた手は男が床に放ったスポーツウェアから取り出したマチェーテで一息に切断され、身体の赴くままに中年は棘だらけの地面に転がった。サラサラとした血と、油っぽいぬるぬるした血、涙が混ざり合い、キャンパスを作り出す。バラクラバの男はスマートフォンをゴム手袋の上から操作し、タイマーを掛けた。


 「Can you speak English?」


 返答がないのを見ると、男は中年の身体のあちこちにできた傷を抉る。六十秒が経過し、タイマーが鳴る。


 「No! No I can’t !」

 「シャベレル?」


 片言の言葉には、含み笑いが混ざっている。シルクハットが光を遮って男の笑みを和らげる。中年の身体は蹴られて曲がり、壁にぶつかって生き絶えた。駐車場の無機質な配色は、今日に限って派手になっている。男は多機能ジャケットを脱ぎ捨て、スポーツウェアと一緒に使い捨てのマッチで燃やして処理をした。車のキーを使いボンネットを開け、中から控えの多機能ジャケットを取り出す。以前着ていたものとは別の、分厚く多重に縫われた肘の部分が目立つ、軍用のものだった。

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