途方もないナイフの光

カナンモフ

第1話

厄介で、眼を廃屋に生えた苔のように蝕んでいくブルーライトを渋々受け入れ、ワン、ツー、ワン、のリズムを刻んで侵された眼を優しく瞼の裏で撫で回し、田中はスマートフォンの画面をスライドさせる。痛む眼と、その代わりに得られる綺麗に整えられたフォントを使って刻まれた文字は、どう考えても釣り合っていない。


 鎌倉時代の人間がこんなに滑稽な現代人の姿を見たとしたら、すぐさまに腰から野暮ったいが綺麗に流線を描いた日本刀を取り出し、顔色一つ変えずに首を切り落としてしまうんだろう、と田中は継続的に瞼をパチパチとさせながら思った。


 休日の日、土曜に、田中はもう日も昇って雲が鼻血の染みたティッシュのように染まっていってしまっているというのに、まだベッドの中でその身体をくねらせていた。タイマーアプリを取り出しては適当な強さで数字を回し、その分数だけ眼を瞑る、なんて無駄な行為を繰り返していた結果だ。


 梅雨の疲労感は皮膚を滑らかにする脂と同じようなもので、まったりと、じんわりと蓄積していく。田中は高校で演劇部に入っていて、その時に初めて梅雨の嫌らしさを知ることになった。


 その時は部活でも無ければ外に出ないほどの怠け者だったからだ。ベッドから出るほどの用事は特になかったが、このまま貴重な休日を無駄にするのもなんだ、といったことを考えながら、一二分かけて田中はベッドの膨らみを引き剥がし、立ち上がった。


 有り合わせの惣菜パンと冷凍食品を白く光沢がささやかにある大皿に乗せ、適度に食べ散らかす。床下に畳まれたまま放置していた半袖の柄付きTシャツ、よく分からないバンドのロゴが中央に貼り付けられているもの、を空中で何度か振り、埃を落としてベッドの上に投げ、短パンも同じような手順でベッドに投げ置いた。


 歯磨きと食事の順番にはいつも気を遣っている田中だが、今日はそこまで考える脳みそが補充されていなかった。せっかく口の中を豪快な味で満たしたというのに、キシリトールガム風味の歯磨き粉で全てを台無しにしてしまった。口の中を錆びついたコップに入った水で濯ぎ、スマートフォンを充電器から外してそのまま椅子に座り込む。snsを開き、トレンドの欄をパラパラとめくるが、大体が政治かサブカルチャーのことだった。


 ベッドに投げ出された衣服を着て、玄関先に置いてある財布をポケットに入れる。ドアの鍵を開け、外に脚を踏み出した。降っているのか降っていないのか分からないぐらいにあやふやな雨を傘で吹き飛ばして進む。小降りの雨を傘で防いでしまうと、跳ね返った水滴が大降りの時よりも上手く身体に当たって来る、そんなジンクスを田中は持っていたので、直ぐに傘を閉じ、手で雨粒を避けることにした。


 一軒家が道沿いに立ち並ぶ、申し訳程度の自然が窮屈そうにしている。今度また新しい一軒家が建てられるそうで、空き地に無人のショベルカーが三つ置かれていた。余り都会ではないようなこの街でこんなに家が乱立しているんだから、都心はそれはもう大変なことになっているんだろう、と田中は思いながら歩いた。


 前から人が二人が歩いてきた。田中は眼を上に勢いよく動かしてその男の顔を見ようとしたが、ベージュ色のソフトハットを被っていて、見えなかった。


 二人組はゆっくりと田中を通り抜け、直ぐに息遣いも聞こえなくなった。二人とも黒白のストライプの入ったスポーツウェアを着ているのが、一瞬横並びになった時に分かった。田中は公園に取り敢えず向かうことにした、誰かしら友達がいるだろうと思ったからだ。公園まではこれから道を真っ直ぐ二キロメートル、曲がり角で追加の一キロメートル歩かなければならないので、田中は少し学校のことを考えることにした。


 田中の通う学校は家から十分ほどの距離にあり、広い校庭のみが特徴のありふれた私立高校だった。いや、校庭の広さは本当に途方もなく、田舎のだだっ広い畑四つ分くらいあるのだが、それ以外は本当に何もない学校だった。


 今年の春にはその広さを生かしたランニング大会を開いたのだが、参加者は三人のみのもので、田中は三位として表彰台に登ることになった。その時に出会った一位と二位、釜井と佐間こそが、田中の数少ない友達だ。二人とも女子高校生だが、彼女たちは双子のように瓜二つの顔をしていて、年齢に釣り合わない妙に子供っぽい顔立ちをしており、田中はたまにだが気味悪く感じることがあった。彼女たちは基本二人組で行動するので、阻害感を感じることも少しあった。だが、話していると心地よく、悩み事を毎回相談するほどの仲なので、田中にとって彼女たちが大切な存在なのは変わりようがないものだった。


 そうこう田中が思いを巡らせているうちに雨は上がり、公園の入り口が見えてきた。銅色の『榊町遊園ランド』と彫られた看板が湿って、虹色を灯している。中にあるのは砂場とベンチ二つ、支えのみになったブランコで、子供が満足に遊べるような遊具は何一つなかった。ベンチには釜井と佐間が二人で座っていて何か話をしているようだった。というか、していた。


 「「よお、奇遇じゃんか。田中、お前って家から外に出られたんだな」」

 「今日は特別に身体が動いたんだよ、お前らこそ、なんで雨の中公園にいたんだ?」

 「ミュージックビデオの真似してたんだよ「雨に濡れながらブランコに寄りかかって歌うやつ」

 「へぇ」


 釜井がベンチの真ん中を少し開けてくれたので、田中はその間に腰を下ろした。二人は雨用のポンチョコートを着用していて、女児のような小さな体型がより強調されていた。あまりに何もかもが似ていて、本当は双子なのではないかとも疑うほどだった。


 「「冗談はさて置き」」「俺たちはこれから「学校へ忘れ物を取りに行くんだが」


 「「一緒に着いてこないか?」」


 二人は交互、同時、二つのリズムでテンポ良く話をした。一音一音がはっきりと耳に入ってくるものだった。


 「ちょうど暇してたんだ。着いてくよ」


 三人はベンチから立ち上がる。古びた木で出来たベンチは大きく軋み、揺れ、元の位置に戻った。公園を出ると、少し霧がかった虹が眼の中に写った。

 

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