第二話 傀儡

牧場見学以降、レイラの頭の中では一つの光景が、なんの脈絡もなく浮かんでは消えていき、その度に憂鬱な気分の中に心が閉ざされていた。


絶望に陥った人間の、蒼ざめた顔。


救いを求める、悲痛な叫び声。


吸血鬼は人間の血が無ければ生きられない為、相容れない人間と吸血鬼がぶつかり合い、結果戦争で吸血鬼が勝った。


これは自然の摂理であり、残酷でも受け入れるべき現実なのだと頭では分かっていても、体は思い通りにはならなかった。


食事で人間の肉や血が運ばれてきた時は、記憶を普段より鮮明に思い出してしまい、波が寄せるような吐き気に襲われ、嘔吐してしまったこともある。


だが、そのレイラの心を苛む憂鬱を、唯一忘れられる時間があった。


ルーカスと同じ空間で、一緒に御伽噺おとぎばなしを読んでいる時。


それまでは黒雲に覆われていた心に、不思議と光が差し込んでくるのだ。


だから、王族の務めをこなしている時や、勉強で忙しい時は、いつもルーカスと二人になれる時間が待ち遠しかった。


一緒の空間で話しをする度に、これからもずっと同じようにルーカスと会えるのだと、無意識にそう思っていた。


だが現実は、幼い子供が夢想するほど優しくはない。


本人たちが望んでいないにもかかわらず、ルーカスとレイラ、どちらが王位継承に相応しいかで臣下たちが揉め、王室内に派閥ができた。


対立する二つの派閥は当然、派閥のトップ同士が接触することを禁止にし、それからレイラとルーカスは話しをするどころか、碌に顔を合わせることすらままならなくなってしまった。


脳内にこびりつく牧場の光景と、黒い風のように心身を吹き抜ける孤独に耐えきれず、レイラは何度か、ルーカスに合わせて欲しいと臣下に頼んだことがあった。


だが、


、そのような感情は抑えて然るべきです」


「よろしいですか、王女殿下。に相応しい振る舞いとしてこの前お教えした在り方を、殿下はそのまま再現して頂ければ――」


結果は、同じような返答が帰ってくるだけで、真面目に取り合ってくれる者はいなかった。


そして、そんな日々を過ごしていく内に、レイラは気付いてしまった。


(嗚呼、そうか。この吸血鬼たちは、を見ていない)


体の内を風が吹き抜けるように、空虚さが通った。


誰も、レイラの意志を考慮しようとしていない。


周囲はレイラのことを、王族の地位に座しているだけの、ただの傀儡くぐつとしてしか見ていなかった。


傀儡に頼み事をされても、頼まれる側にメリットがなければ、利用するだけの人形の意志など、尊重しようとしてくれないのは当然のことだった。


その後、ルーカスとは一度も会えておらず、牧場の光景を忘れられた唯一の時間は、成長していくに連れ、遠い日の夢のように、淡い記憶になっていった。


ルーカスと会えなくなってしまったその日からレイラは、心に住みついた鬱屈の霧が晴れることはなくなり、心の底から笑うことが出来なくなってしまった。


                 ◇


年月が経ち、十六歳になった現在はもう、御伽噺の内容や、ルーカスと何を話していたのかは、朧気にしか思い出せない。


だが、ルーカスとその御伽噺を読んでいる時は、成長した現在もレイラの心を苛み続けている憂鬱を、不思議と忘れられたことは覚えていた。


「――そして、吸血鬼固有の能力である操血は、相手の体内の血液を直接操れますが、これは使用者よりも血の支配力が弱い者に限った――」


側近のメイドのエミリーが、弁舌を振るっている。


今はエミリーが教師役として、私室でレイラが吸血鬼の体について学んでいる。


レイラの身に着けている純白のドレスは、白すぎる肌に寂しげに映えている。


背中から伸びている漆黒の翼は、水を湛えているように艶めいて、美しい。


机の上に乱雑に積まれたずっしりと重たい本が、紙に染みたインクの香りを匂い立たせ、鼻先に漂ってくる。


「――なので、王女殿下の過去から現在まで類を見ないほどの強靭な翼は、王族固有の特殊なものである可能性が高く、これは、王族の吸血鬼は必ず、一般の吸血鬼よりも高い感性を持って生まれるという謎と関係して――」


エミリーの授業を、異国の言葉でも耳にするような気持ちで、ぼんやりと聞き流す。


窓枠に四角く切り取られた外の景色は、相も変わらず、墨を流したような暗闇だけが立ち込めていた。


                 ◇


授業を終えた後、レイラはエミリーを伴って、城内の回廊を歩いていた。


白骨のように清らかな白色のアーチ型の柱が、果てしない長さで奥まで連なっていている。


回廊に面した中庭に設置されている、点々として赤くきらめくガス灯が、澱んだ水のように重い闇の中で、インクでもこぼしたように、滲んで見える。


景色を眺めていると、ルーカスとの記憶が、今さっきそこにあったかのように、瞼に鮮やかに蘇る。


中庭のベンチに座る幼い二体の吸血鬼は、城の上に重苦しく 被いかぶさっている、墨のような黒雲を指差して、何かを話している。


顔の部分には陽炎のようなもやが浮かび、表情は分からない。


それはレイラにとってとても大切な記憶の一部だったように感じるのだが、錆び付いて開かない記憶の引き出しは、胸の中にぽかんと穴が開いているような喪失感だけを残していた。


王宮の敷地内では、第一王子ルーカス第一王女レイラが生活する建物は、対立している派閥の吸血鬼たちのせいで、意図的に離れた場所になっている。


なので、ルーカスに聞こうにも、そんな気軽な理由で会いに行くわけにもいかないし、会おうにも派閥の者に阻まれて、顔を見る事すら出来ないだろう。


今はもう、その中庭で二人が何をしていたのか、確かめる方法はない。


(兄さんは、覚えてるのかな......)


そんな疑問が一つ、気泡みたいに、ぽっかりと浮き上がってくる。


だが、考えても無意味なことだと頭を振り、点った疑問を振り払う。


目先のことを考えようとするが、今日行わなければならない一連のことを想像して、心が冷たい陰鬱に襲われる。


その横顔にはやつれが見えて、濃い暗澹あんたんの色が浮かんでいた。


                 ◇


白と金のデザインが美しい個室に、クリスタルミラー、巨大なシャンデリア、天井のフレスコ画など、麗しい装飾が施されている。


そんな王城の一室で、色彩の強い服装を着ている初老の男とレイラが対談している姿を、側近のメイドのエミリーは見守っていた。


「――王女殿下の手腕ならば、この程度の量の公務など造作もないとは存じていましたが、私奴の予想など遥かに上回る秀逸さです。これならば、王位継承も存外――」


朗々とした口調で話す男の言葉を、レイラはただ黙念と聴きいっている。


顔には張り付いたような微笑を保っているが、一切の異議を唱えず、命じられるままに動くその姿は、まるで意志のない人形のようにも見える。


「――して、第一王子殿下は王女殿下の実の兄君。幼少期は親しい間柄であったことは存じておりますが、王位を目指すということは、兄君と争うことをご承知頂けたということで――」


初老の男が真意を計るように、レイラの顔色を窺う。


探りを入れてきた。


エミリーはその無礼な態度を咎めようとするが、口を挟む前にレイラが答える。


「ええ、心配せずとも承知の上、覚悟は出来ています。兄君とはいえ、情を加えるようなことはしないわ」


そのレイラの言葉で、エミリーは話しの間に入る機会を失う。


レイラは絶えず張りつけたような弱々しい微笑を浮かべているが、その瞳に輝きは感じられず、屍のような濁った瞳だけがそこにあった。


胸の奥に小さな痛みを覚えながらも、エミリーはレイラのその姿を、ただ側で傍観しているだけだった。


                 ◇


対談を終えた後、レイラとエミリーは、レイラの私室へと戻っていた。


今は翼の手入れの為、レイラは椅子に座り、エミリーがブラシを持ってレイラの背後に立っている。


エミリーはその石炭のようにつやつやと真っ黒な翼の手入れを始めようとして、ふと動きを止める。


エミリーの記憶のページが、無意識に捲られる。


『大変に決まっています。臣下たちからの、王族なら出来て当然っていう期待の重圧。口を開く度に始まる相手の腹を探り合う会話。そして何より嫌なのが、翼の手入れを自分でさせてくれないこと。いくら私たちが世界を支配する吸血鬼の王族で、強靭な肉体を持ってても、精神は疲れますよ、ルーカス兄さん』


まだレイラが幼き頃のあの日、エミリーは二体の兄妹の会話をドアの外で聞いていた。


偶然聞いてしまったわけではない。


ルーカスとエミリーの私生活が王族として相応しいものか確認する為、国王に調査するよう命令され、エミリーは二体の監視を任されていた。


現在もその命令は続いており、国王に定期的に報告をしている。


「エミリー、どうしたの?貴女の翼の手入れ、気に入っているの。早くして頂戴」


レイラがこちらを向き、目の全く笑っていない笑顔を浮かべる。


そのレイラの表情が、エミリーの頭の中で、過去の自分の面影と重なる。


世界の流れに呑まれ、その流れに身を任せ、抗うことも出来ず命じられるがままに、ただ目的もなく生きている。


まるで、自分の意志も望みも持っていない傀儡のように、心の底からの笑い方すら忘れて、何も必要がないと、自分に嘘を吐きながら。


『こんな機会滅多にないはず。エミリーも王宮で生活できればなはずでしょ?お願い、にも、あの人の誘いを受けて!』


『エミリー、貴様に意志など必要ない。貴様はただの人形だ。全ては我の為に尽くし、我の利になるよう動け。くれぐれも、情などという下らない衝動で、厄介を起こしてくれるなよ?』


幼い頃の両親との会話と、先日聞いた国王からの言葉が頭を駆け巡る。


そして、眠りから覚めるように、頭の中で何かが弾けたような感覚が起こる。


――今のレイラ様は、幼かった頃の私と同じだ。


それに気付くと、網膜に薄くかかった靄が晴れるような感覚になる。


不安定で置き場がなかった心の重心が、寸分の揺るぎもなくしっかりと定まる。


眉の辺りに、決意の色を浮かべる。


レイラは、エミリーのその様子を、首を傾げながら不思議そうに見つめている。


そのレイラの瞳に、視線を合わせる。


様。これから語るのは私の過去の話ですが、どうか最後までお聞きください」


レイラが、驚いた表情で目を見開く。


恐らくレイラは、幼少期のルーカスを除いて、エミリー以外の者にも名前で呼ばれたことはなかったのだろう。


エミリーはこれまで、レイラのことを王女殿下としか呼んだことはなく、実際に名前を呼んで本人に向き合おうとしたことは一度もなかった。


それを確認すると、エミリーは、大切にしている胸の内をそっと打ち明けるように、己の過去を語り始めた。


                 ◇


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