忘却の原点

新島廉

第一話 残酷な現実

立ち込める黒雲が常に空を覆い閉ざす、常闇の世界。


この世界の空に地上を照らす陽はなく、闇が立ち込めるばかりの暗黒の地上は、吸血鬼という種族が支配していた。


                   ◇


立ち込める厚い黒雲。


無気味な暗い雲が一面を閉ざす空の下では、墨絵のような風景の街並みがひらけている。


冷やかな闇が広がる城下町には、黄色い小さな灯がどこまでも連なっている。


そんな暗黒の地に建てられた王城の一室に、二体の幼い兄妹がいた。


二体の子供が身に着けている服はどれも上質なもので、清潔で手入れが行き届いた風貌は、幼いながらも既に貴族然とした優雅さが窺える。


「レイラ、務めを終えた後はいつも疲れた顔をしているが、そこまで大変か?」


サラサラと油気のない、輝くような金髪の少年が口を開く。


兄の言葉を聞いて、干された雑巾のようにくたびれた様子で、ぐったりと壁に寄りかかっていた妹が、パチリと目を開ける。


涼しくて刺すような美しい顔立ち。


肩口で切り揃えている絹糸のように艶のある青髪は、窓から踊り込む風にさやさやと揺れている。


目の奥では、鮮血のように真っ赤な紅の瞳を覗かせている。


「大変に決まっています。臣下たちからの、王族なら出来て当然っていう期待の重圧。口を開く度に始まる互いの腹を探り合う会話。そして何より嫌なのが、翼の手入れを自分でさせてくれないこと。いくら私たちが世界を支配する吸血鬼の王族で、強靭な肉体を持ってても、精神は疲れますよ、ルーカス兄さん」


笛のように綺麗に澄んだ声で、レイラは愚痴を呟く。


二体の幼い吸血鬼は、癖なのか、意味もなく背中の翼をパタパタとはためかせながら、他愛もない会話に興じていた。


「それは僕も感じていたことだが、これも王族に生まれた宿命だ、一緒に耐えよう。だけど、この境遇を受け入れるわけじゃない。だって、僕たちには夢が――」


続けようとした言葉は、部屋の扉をこつこつ叩く、ノックの音に断ち切られた。


レイラとルーカスは目を合わせると、すぐさま近くに用意していた椅子に座り、テーブルを挟んで向き合う。


事前にコップに注いでおいた冷めている紅茶を片手に持ちながら、ルーカスは気を引き締める。


「入れ」


凛とした声で、ドアの外の者に許可を出す。


「失礼いたします」


がちゃりと音がしてゆっくりと扉が開き、一体の女が室内に入り、後ろ手でドアを閉める。


目鼻立ちのきりっとした美しい顔。


背中一杯に溢れるほど広がる、闇よりも純度の高い艶やかな黒髪。


全体が黒のワンピースに、フリルの付いた白いエプロンを組み合わせたメイド服。


普段は凛々しく背後に広がっている翼は、今は恭しく畳まれている。


「エミリー、用件は何かしら?」


レイラが、気品のある佇まいで疑問を問い掛ける。


「王子殿下。王女殿下。見学の時間でございます。ご案内いたしますので、ご準備を」


ルーカスはその言葉を聞くと、コップをテーブルの上に置き、鉄のような無表情になって、一度頷く。


「そういえば、レイラはまだ牧場を実際に見たことはなかったな」


「確かに見たことはないですが、知識くらいありますよ。私たちが普段口にしているお肉や血液は全て地下区画の牧場から採れているもので、数百年前の戦争で負けた人間という種族を飼育しているんですよね?」


得意げな表情で、今朝学んだ知識をそのまま口に出す。


「......」


だが、ルーカスは答えず、固い表情で黙ったままだった。


その反応に、レイラは僅かに首を傾げる。


知識の上でしか牧場のことを知らないその時のレイラに、ルーカスの表情が変化した理由を、理解することは出来なかった。


                   ◇


一直線に奥までにぶく光っている廊下に硬い靴音を響かせ、牧場の支配人の案内を受けながら、地下の入り組んだ道を進む。


レイラの周囲には、ルーカスとエミリー、そして牧場の支配人が同伴している。


薄暗い洞窟のような廊下をしばらく歩き、目的の場所まで付くと、そこには目新しい光景が広がっていた。


正方形の分厚いガラス張りの壁に囲まれた、余計なものが何もない殺風景な部屋に、数人の男女が収容されている。


部屋の中にいる人間たちは皆生気の感じられない様子で、何をするでもなく、ただぐったりと横たわっている。


ガラスの外では、白で統一された施設内に合う、白衣を着た学者然とした吸血鬼たちが、興味深げに人間たちを観察している。


牧場として案内された空間は、いっそ壮観なほど、一面にそのガラス張りの部屋が連なっていた。


その光景に、レイラは眉を顰める。


本能的な不快感を味わい、鳥肌を掻くかのような仕草をする。


知識でしか知らなかった事柄の、その現実を目の前にして、良心と恐怖心とが頭の中で交錯していた。


それを見た支配人が、ぎこちなく笑いながら、牧場内の説明を始める。


「こちらが一般区画の牧場でございます。主に一般の吸血鬼の食用として――」


普段通り立っているはずが、今はまるで海の底にいるかのような奇妙な感覚で、支配人が何か話しているのは分かるが、レイラには上手く聞こえなかった。


そんな中、機嫌を損ねたと思ったのか、冷や汗を流している支配人の背後にある部屋の中で、ある変化が起きる。


飼育員らしき吸血鬼が、ガラス張りの部屋の扉を開けると、瞬間、死んだ魚のように倒れていた男女たちが、急にバネにはねられたように勢いよく起き上がり、飼育員の吸血鬼に襲い掛かった。


「偉そうな身なりのあのガキ共を人質にすれば、俺たちにもまだ可能性がある!」


「どうして私たちの体を拘束していないのかは知らないけど、舐めるな!私たちは家畜じゃない、意志を持った人間だ!」


若い男女が、憤激の雄たけびを上げる。


激しく、鋭い叫び声が、レイラの鼓膜を震わせる 。


拳が顔に迫り、今にも打ち付けられそうになっている飼育員はしかし、なんの表情も表れない、犬か猫でも見るような眼つきで、人間の男女たちに指を指すと、くい、とその指を上に曲げた。


すると、男女の体から血が溢れ、水面に毛糸を浮かべたように線になって空中に走り、集まった血液が拘束具の形を象って、男女を縛る。


鼓膜を襲う金属的な音と、血の拘束具に縛られてもがく男女の姿は、先程までは液体だったはずの血液が、今は確かな硬度を持っていることを、判然と示していた。


飼育員は、忌々しそうに溜め息を吐く。


「俺一体にすら勝てないのに、まだ子供とはいえ、王族の御方をお前たち程度が人質にできるわけがないだろう。それに、ここから出れても、待っているのは碌な食料もない、常に黒雲が空を覆っている暗黒と極寒の世界だ。人間が生き延びられるわけがない。だから、お前達はここで吸血鬼おれたちの食料として生かされている。この世界にお前達の自由なんてものは最初から存在しない。人間は家畜。それがこの世界に定められたことわりだ」


扉の近くに置いてある台車を部屋の中に入れると、手足を縛られ、芋虫のような恰好 になっている男女を台車に乗せる。


「あと、最初から拘束していないのは、お前達みたいなのが出てくるのを期待しているからだ。意志の強い人間の肉は、何故だか知らないが美味いからな。お前達は早速行きだ」


男女の顔から希望の色が蒸発していき、蒼ざめた顔の目の中に、絶望の色がうつろう。


本能的な恐怖を呼び覚ます、耳を裂くような男女の絶叫と悲鳴が、牧場内に響き渡る。


遠ざかっていく叫び声は、かすかにしか聞こえなくなり、やがて姿が見えなくなると、風の途切れるように声は切れ、完全に聞こえなくなった。


レイラはちらりと兄の表情を窺うと、ルーカスは感情を殺した能面のような表情を保っていた。


『そういえば、レイラはまだ牧場を実際に見たことはなかったな』


兄の言っていた言葉が、脳裏に浮かび上がる。


恐らくルーカスは前回牧場に来た時も、同じような光景を見たのだろう。


心の用意が出来ていたから、この状況でも、落ち着いた顔を保っていられている。


だが、レイラはそうではない。


今にも胃から何かが込み上げてきそうな感覚と、心がちくちく刺されるような痛みに、レイラの心が苛まれる。


それを見て、ルーカスは微かに震えているレイラの手を取った。


レイラの心の内側に、小さな波が立つ。


安堵感が身内に広がり、レイラは強くルーカスの手を握り返す。


そこから後は、更に様々なものを見たが、その間、ルーカスとレイラは一度も手を放すことは無かった。


一般の牧場区画で見たものよりも、残酷で残忍な光景だったが、ルーカスと一緒にいる間は、不思議とどんな自体に直面しても落ち着いていられた。


                   ◇

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