第9話 お狐さまの引っ越し

 「大根とこんにゃく。あと、がんもどきあるかな」

年配の男性が声をかけてきたと思ったら、脇坂教授だった。

「遅めの昼飯にしようと思ってね。模擬店をまわってるんだ」

教授の腕には、二つ三つ、小さいビニール袋がぶら下がっている。


「うちのおでん、なかなかおいしいですよ」

「そりゃ楽しみだ。ところで森野君、後でちょっと研究室に寄れるかい」とさりげない調子で教授は聞いた。

「もうすぐ店番を交替する時間なんで、2時過ぎなら行けます」

多分、お狐さまがらみの話かなと思いながら、僕は答えた。


 紅林さんと調理班が追加分のおでんが入った大鍋を抱えて持ってきた。

紅林さんが「今の脇坂先生だよね」と脇坂教授の後姿を見送りながら言う。


「脇坂先生、うちの近所の神社の息子なんだよ」

「そうなんだ。だから神職の資格を持っているんだ」

「神社はお兄さんが継いでいるけどね」


紅林さんの家は、下町で食堂をやっている。彼女の家もその神社の氏子で、教授も祭礼の手伝いに来ていたのをよく見たという。

そのうちに店番の交替要員も来たので、僕は脇坂教授の研究室に向かった。


 ノックして研究室のドアを開けると、教授はさっき買っていったおでんを肴に一杯やっていた。


応接スペースで一升瓶を傍らに、テーブルには模擬店で買ったと思われるお好み焼きや焼きそばが置いてある。


教授は紙皿と割り箸を渡して僕にも食べるように勧め、「いつも飲んでいるわけじゃないよ。今日は休講だからね」と断ってから、「君も飲むかい?」と聞いた。

僕は酒は遠慮して、焼きそばを皿に取った。


「実は、君に頼みがあってね」と、少し考えるようにして教授は言った。

「何でしょうか」


「大学裏手のお狐さまのおやしろね、移転させる計画があるんだ」

僕は驚いた。


「移転って、どこにですか」


「本当はこの近くがいいんだろうけど、なかなか適当な場所が見つからなくてね。とりあえずうちの神社にお連れしようということになっている」


教授は、自分の生家は神社なのだと付け足した。


「またどうして移転なんて話が出たんですか」


教授は苦虫を噛み潰したような表情になった。


「今の学長だよ」


確か、今年度から新しい学長が就任したはずだ。


「学長が移転させろと言っているんですか」


そうだ、と教授は頷いた。


「昔、このあたりは田んぼが広がっていたんだ。お狐さまといったら、田んぼの守り神だろう? ここのお狐さまはずっと昔から、このあたりの農家に大事にされてきたんだね。ところが、戦後、宅地造成のために田んぼは埋め立てられ、お狐さまのほこらがあった場所も住宅地になった」


ほら、この裏門を出てすぐのところに祠があったんだよ、と教授は立ち上がって、窓の外を指し示した。僕がいつもバイトに行くときに通る道だ。


「その頃、この大学も都心のキャンパスが手狭になって、ここに移転してくることになった。そのとき、この一帯を開発していた開発業者が当時の学長に、祠をこの大学の敷地内に移転させてくれないかと頼んだんだ。やっぱりお狐さまの祠だからね、壊すことはできなかったんだと思うよ。当時の学長が許可したので、開発業者があそこに新しい社を建て、お狐さまは引っ越したんだ」


そうだったのか。何で大学の敷地内にお狐さまの社があるのか不思議だったが、そういう訳だったのか。


「神職も呼んできちんとした手続きを踏んで移転したから、今まで何の障りもなかった。農家の多かった昔のようにお参りする人はいなくなったけれど、とにもかくにもお狐さまは無事に鎮座していたんだよ」


「学長はどうして移転しろと言っているんですか」


「さあね」と教授は吐き捨てるように言った。


「今度の学長は、究極の唯物論者なんじゃないかね。大学に何の関係もない社があるのは合理的でないそうだ。あと一つは、新しく就任して、自分のカラーを出したいんだろうよ」


僕は軽くショックを受けていた。お狐さまは、僕の部屋に現れたとき、最近誰もお参りにきてくれないと言っていた。昔、田んぼが広がっていた頃は、たくさんの村人がお参りにきていただろうに、今との落差をどう思っていたのか。


「お狐さまはもともとこの土地におまつりされていたんだから、移転は望ましくないと言っても聞きやしない。僕の実家が神社だから、これ幸いと押し付けようとしているんだろう」


教授はぐいとコップの酒を飲んだ。


「お狐さまは納得してくれるでしょうか」


「そこで折り入って、君にお願いなんだ。お狐さまにうちの神社に来るように説得してほしいんだ」


「ぼ、僕ですか」


「きちんと手続を踏んで失礼のないようにするつもりだけれど、何しろお狐さまだからね、慎重にことを運びたい。君はお狐さまとご縁があるようだから、君からも説明してほしいんだ」


教授はひたと僕の目を見て言った。




































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