第41話 帰郷

 龍にもらった鱗に、月を透かしてみる。

油紙とも、硝子とも違う。半透明の薄い鱗は、蝶の鱗粉のように細かな黄金の粒子によって色付けられていた。

 そんな鱗越しに見えた三日月は、金色に輝いている。


「それを飲み込んで」


 打ち寄せる波の音に混ざって、龍の声は優しく響いた。


「この鱗を?」

「この大きさなら、喉に詰まる心配はないよ」


 二人が引き離されたあの冬の晩、龍が月子に与えた小さな一枚。根本の血は、まだ乾いていなかった。


「前に言っただろう。僕の血肉を分けてあげるって。それで月ちゃんは、僕たちと同じになる」

「私も海底人になれるの?」

「海底人にはなれないよ。そもそも僕だって、海底人ではないからね」


 二人の前には、夜の海が広がっていた。波が打ち寄せてきて、少しずつ少しずつ、身体を引き寄せられていく。


「私にも、鱗が生えたらいいのにな」


 一息で飲み込んだ。うっかり梅の種を飲み込んでしまった時と、同じ違和感を喉が通していく。


「これでずっと一緒だ」


 嬉しそうに笑った龍を見た。月子は多幸感の余り、身体が浮上するように思えた。横抱きにされたので、彼の首に腕を回す。頬を擦り寄せると、肩の鱗が月子の頬を引っ掻いた。快楽の痛みだ。切れた皮膚から血が流れ落ち、ブラウスの襟元に点々と赤い花を咲かせていく。


 飛沫が上がって、顔を濡らした。頬の切り傷にもかかってピリリと痛みが走る。それすらもはや、歓びである。血液と潮水が混ざり合う。それは海が月子を受け入れるための儀式なのだろう。龍は何も言わなかったが、月子は何故かそう飲み込んでいた。


「連れて行って。海の底へ。行こう、ナーガ」


 期待と喜びに心が打ち震える一方で、頭は冴えわたっていく。

平常心に戻りながら、月子は安堵を感じていた。


――やっと帰れる


 恐れも、呆れも、退屈も、愛想笑いも沈黙も必要のない世界。


 海面をかき混ぜる水の音が聞こえて、耳がこもった。月子の聴覚が捉えた次の音は、ココココと鳴る滑稽で心地良い海中の調べと、愛を囁く龍の声だった。





────***




 月子と龍の姿は、その夜以来消えた。


 嫁入り直前の娘が忽然と姿を消したこの失踪劇は、当時それなりに付近を騒がせたものだ。

 しかし程なくして、思いを遂げられなかった故の心中事件であろうと、警察は結論づけた。浜で月子の遺留品と見られる、首掛けの御守袋が発見されたためである。そしてその結論に、異議をとなえる者はいなかった。

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