第40話 嵐の中の海

 緋奈の鱗に最初に触れた時を、思い出していた。


 目を閉じて触れたその場所は、波立たない湖面を思わせたものだ。穏やかで、それでいて深く、いつの間にか深く深く沈んでいく――――そんな性質の水場だった。

 

――龍は、海だ


 しかも荒海だ。一歩近づいただけであっという間に飲み込まれ、さらわれ、波間に入ったが最後、陸地に引き返すことはかなわない。


 納屋の中は万華鏡の世界だった。いくつもの色で溢れ、壁も天井も、二人が折り重なる床にも、万彩の光の欠片が飛び散っている。

 夢の世界か極楽にでも迷い込んだのではないかと錯覚する。龍の肩越しに見る、常軌を逸したその美しい光景を、いつまでも眺めていたかった。


 けれど月子は、いつの間にか目を瞑って龍にしがみついていた。強く抱きしめられていることは分かるのに、自力で身体を動かす感覚は鈍くなっている。


――沈んでいく……


 どんなに激しく海面が時化しけていても、海中は穏やかなままである。深ければ深いほど、嵐の影響など受けない。大気をかき混ぜる轟音も、風が風を切り裂く響鳴も――――何も聞こえなくなるのだ。



***



「月ちゃん」


 雷槌を伴う嵐が、身体の中を駆け抜けて行った。

 月子を抱き起こした龍は、そのままゆっくりと立ち上がった。


「浜に行こう」

「ああ、そっか」


 既に海にいるような気がしていた月子は、ぼんやりと靄のかかった思考を整理した。ここはまだ、陸地なのだ。田圃の真ん中の、納屋の中だ。


「一緒に行こう」

「うん」


 曖昧な手付きで服を身に着け、外に出た。

歩き始めてしばらくしてから、月子は裸足であることに気づいたが、戻ろうとはしなかった。気にならない。見れば龍も裸足である。

 彼の身体は、月明かりを受けて輝きつつ、自ら光を放っているようだった。




***




 その晩、夜半に起きた子供が一人、厠の窓から奇妙な光を見た。

 金色のその光は、空に輝く星ではなかった。提灯ちょうちんの明かりとも違う。いくつもの小さな光が揺れているようにも、一つの強い光が分散しているようにも見えた。

 それは田圃の間をゆっくりと進み、やがて浜の方角へと消えていったそうだ。

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