第27話 海底人の国

「緋奈に会いたい。緋奈のところへ行きたい」


 その言葉を聞いた直後、月子は龍を強く抱きしめていた。背中の鱗を手のひらに感じながら、龍の首筋に頬を押し付けた。


「そんなこと言わないで」


 何枚も着込んだ服の上から、抱き返してくる龍の腕を感じた。少しだけ安堵を感じながら、月子は鼻をすすった。声が震えたのは寒さのせいか、自分の心情がそうさせたのかは曖昧だった。


「死にたいなんて言わないでよ。龍は私の心棒なの。龍に会えなくなったら、私はどうすればいいの」


 思えばあの日。龍のことを一目見た瞬間に、月子の心は美しい色彩の中にすっかり捕らわれていたのだ。自分の居場所であるW村に感じていた違和感を、すっかり拭い去って月子ごと包み込んだのは、灰青の瞳と万彩の鱗の持ち主だ。


 唇があたたかくなった。猛烈な熱を感じてから、月子は龍と口づけをしているのだと気づいた。息遣いは静かで、荒々しい動きではないのに、貪られているようだと思ったのは、与えられる熱のせいだろう。


「まだ寒い?」


 僅かにできた唇の隙間から、龍が問いかけた。

 月子は首を横に振る。嘘ではなかった。外気を感じているはずなのに、冷気から遮断されたように、月子の全身はぽかぽかと温まっていた。


「服を脱いで」


 耳元で囁きながら、龍の歯が耳朶を軽く噛んだ。月子は身じろぎもしていないのに、晴子のお下がりの外套が雪の上に落ちていた。


「一緒に行こう、月ちゃん」

「どこに行くの? 潜るの?」

「君が好きだよ」


 先程よりも龍の体温を強く感じるのは、月子も薄着になっていたからだった。抱きしめながらどうやって着衣を脱がせているのだろうと、月子はぼんやりと訝しんでいた。けれどそんな疑問など、どうでもいいことに感じた。


「死にたくない」


 重要なことはこれだ。

月子は断言した。


「私は生きていたい。龍と一緒に」


 首筋の龍の鱗を逆撫でするように手をずらしながら、月子は再び彼の頬に両手を添えていた。そこにも鱗の感触を確かに感じて、いつの間に顔にまで鱗が生えていただろうかと、記憶を遡る。ついさっき家を出たときには、なかったはずだ。

 

 そのことに気づいた瞬間、月子は把握したばかりの自分の気持ちを、強く確信していくのだった。


「一緒に生きてよ。私は龍と一緒に生きて、この鱗を綺麗だって感じていたいの」


 月は相変わらず雲に隠れている。

見えないはずだが、龍が笑ったのが分かった。


「月ちゃんは強いな……不安にさせてごめん」

「もう死ぬなんて言わない?」

「約束する」


 再び唇同士が繋がり、その場所から月子の身体へ温かな熱が注ぎ込まれていく。もう寒さなんて全く感じなくなっていて、月子はむしろ暑い程だった。


「死なないから。だから一緒に行かないか? 月子」


 欄干に積もった雪を川に落として、龍は月子をそこへ座らせた。閉じ込めるように彼女の身体の両隣に手を置いて、龍は囁いた。


「僕の真名を教えてあげる」

「龍の本当の名前?」

「そう。そうしたら僕はすっかり、君のものだよ」


 真名とは、伴侶になる者と名付け親にしか知られてはいけない真実の名前――――先程聞いた説明を思い出し、月子は胸が喜びに打ち震えるのを感じた。


「ここから海はすぐそこだ。一緒に探しに行こう。海底人の国を」


 漆黒の長い髪は、濡れたように艷やかだった。その間から見えた二つの赤い光が、真っ直ぐに月子へと伸びている。


――眩しい


 光源は月しかないはずなのに、月子は目を細めた。まるで真昼の太陽を仰ぎ見た時のように。


 龍の素肌が見えなかった。皮膚の全てが美しい万彩に覆い尽くされて、その一枚一枚の鱗の表面には、まるで小さな鏡の如く月子の姿が映しだされていた。


「龍みたいに、長く潜っていられるかな」


 欲求に素直になるのは、いつ以来だろうか。『欲しがりません』という言葉は、もはや標語でも刷り込みでもなく、実情と溶け込みすぎていたように思う。


「僕の血肉を少しだけ分けてあげる。それで君は、僕と同じになれるんだ」

「龍と同じ?」

「そうだよ。一緒に生きてくれるんでしょう?」


 頷く自分の顔が、目の前の鱗と瞳に映っていた。どことなく目が虚ろだ。月子は自分の顔がこんなだっただろうかと、自信がなくなっていった。


「月子。僕の真名は――――」


 耳の奥に龍の声が聞こえる。








「化け物ッ‼」


 突如大きな怒号が響いて、月子の目の前は眩しさで白くなった。提灯からの灯りだと認識すると同時に、何かを強打する鈍い音を耳がとらえる。

 龍が雪の上に倒れた。強く殴られたのだろう。顔に生えていた鱗が剥がれて、彼の側に落ちている。灯りによって照らし出されていたのは、雪の上に点々と落ちる赤い血の色と、剥がれた黄金色の鱗だった。


「お前ら何をしていた? 健三のとこの、末娘だろう」


 夢の世界からうつつへ引き戻された感覚と同じだった。全身に寒さが刺してくる。落ちていた外套は雪を含んでおり、すっかり冷たくなっていたが、それで身体を覆われたのが分かった。容赦ない痛いほどの冷たさに、月子は状況を把握した。


 村の者に見つかったのだ。

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