第26話 真名

「月子」


 龍の指が、冷え切った月子の頬を一撫でした。温かかった。


「真名って、知ってる?」

「まな?」

「真実の名、本当の名。伴侶となる者と名付け親しか知ることのない、大切な名前のことだよ」

「本当の名?」

「嫁入りする時、緋奈が自分の真名を教えてくれた。緋奈の真名は、カランって言うんだよ。僕達の父親の故郷の言葉で、珊瑚という意味なんだって」

「珊瑚……緋奈ちゃんの名前、緋色の緋だったね」


 緋奈の明るい笑顔を思い浮かべながら、月子はうなずいていた。


「緋奈は夫となるあの男には、真名は教えなかった。真名を教えないということは、伴侶として認めていなかったってことだ……やっぱりもっと強く、止めるべきだった」


 雲が月を隠したので、月子はこの時の龍がどんな顔をしているのか、確かめることはできなかった。ただ彼の声は揺れていて、そこから深い悲しみだけを感じ取ることができる。


「緋奈は……カランはもしかしたら、分かっていたのかな。海から離れて、死ぬことを」

「龍」

「緋奈は死にたかったのか?」


 龍の手は熱を持ったままだったが、震えていた。寒さのせいではないのだろう。


「どうして僕のことを、置いていったんだろう」


 月子は咄嗟に、両手で龍の頬を包み込んでいた。自分の手が冷え切っていることを実感する。龍の頬は熱を持っていて、濡れていた。彼の涙は湯のようだった。


「そんなにこの世が嫌なら、海の底まで行こうって、言ってくれたら良かったのに。半端者の僕たちは、きっと父の故郷にはたどり着けないだろう。それでも良かった。辿り着く前に息絶えても、干からびて一人で逝くより、ずっと良かったはずなのに」


 途中で途絶えることなく滑らかに繋いだ言葉の合間に、月子は龍の涙が流れ落ちていくのを感じていた。彼の頬を包み込んだ月子の指の間に、小さな水たまりができている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る