10.王子の予想を裏切って

 いくら何でもこれは言葉が足りていない。

 アレッシアとて馬鹿ではない。この場においてはニキフォロスがもっとも偉い人物だとわかっているので、顔が青ざめて行くのを禁じ得ない。この場にいる人々にとって、五年も仕えた主とぽっと出の少女と、どちらに価値があるかなど火を見るよりも明らかだ。

 幸いニキフォロスは聡明な少年だったようで怒り狂うような真似も、怒鳴りつけもせずにルドの言葉を吟味している。

 むしろルドの言葉に困惑と怒りを露わにしたのは、王子の傍らに立つ男だった。陽に焼けた浅黒い肌に青筋を浮かせながらルドに怒鳴る。


「何を言うかと思えば、千人隊長を辞したいだと。素性もわからぬお前を保護し、登用したのは他ならぬニキフォロス王子。その大恩を仇で返すつもりか!」

「忘れるものか、ザカリア。ゆえに俺は剣を取り、兵を率いて戦へ赴いた。受けた恩の分だけの働きはしたつもりだ」

「その程度で……」


 怒りで腸が煮えくり返っている様子の配下を止めたのはニキフォロスだ。少年が手を掲げると、男性はぴたりと口を閉ざして一歩下がる。失礼なのはわかっているが、まるで良く調教された犬のようだとアレッシアは感想を抱いた。


「アレッシア殿にも疲れが見えるし、ひとまず座りながら話をさせてくれないだろうか。ちょうど食事の用意も整うし、食べながらでもどうだろう」


 ルドにしてみれば千人隊長を辞するのは決定事項であり、急を要する案件だったに違いない。ニキフォロスの提案を断ろうとしたものの、ここで食事と聞いたアレッシアの腹が鳴った。

 まともな食事ができなかった最中で、やっと安心できる状況が作られたから気でも緩んだのだろうか。アレッシアの内心はひどく恥ずかしかったものの、顔だけは真面目になって従者へ訴えた。

  

「ご馳走になろう。あと五年もお世話になったのなら、やっぱりルドは思い切りが良すぎるし、言葉が色々足りてないって私は思う」

「しかし、だな」

「どうせ私はこちらに来たばっかりで、状勢なんか全然わかんないもん。どこに行くにしたっていったん落ち着いて考えなきゃいけないし、すぐにここを離れたりしないから」


 実を言えば、やっとまともな場所で寝られそうなのだから、要塞を出て行くなんてとんでもなかった。アレッシアがこうと決めたためか、やがてルドも一旦訴えを取り下げた。人々が奇妙な二人のやりとりに驚く中で、ニキフォロスが胸をなで下ろす。


「……話はまとまったね。ありがとう、アレッシア殿」


 ニキフォロスは人払いを行うと、彼女に身支度の猶予を与えてくれた。

 要塞には水場があるためか、水が潤沢にあるらしい。顔や手足の汚れも落ち、これだけでも爽快な気分だ。テミスに借りた外套の代わりに渡されたのは刺繍の入った羽織りで、これが薄いのに暖かい。ひとつ困ったとしたら彼女の纏う白い衣が上等すぎるせいか、まるで場違いなことか。着替えを借りようとしたらルドに止められた。


「それは神々の世界で織られた衣だ。他とは違う性質を持つ上に、それ単体で価値がある。間違って無くさないためにも常に身に纏っていろ」

「流石に汚れたら洗う必要とか出てくると思うんだけど」

「こちらで着ている分には汚れはしないはずだ」

「そういえばそうだった……だったらこっちにいる間は洗濯いらずってこと?」


 たしかにアレッシアはあちこち傷を作ったはずだが、衣には汚れ一つ付いていない。

 周りには聞こえぬようやりとりを交わし、連れて行ってもらったのは床に絨毯を敷いた部屋だ。テミスの姿もあり挨拶しようとしたが、場は少年に話しかけられる雰囲気ではない。

 食事の作法だが、ミノアニアの人は床にお盆を置いて客人を歓迎するらしい。

 すでに料理が並べられており、アレッシアはルドに倣って案内された場所に座る。ニキフォロスの斜め向かいに座る形で対面すると、少年はくしゃりと笑いをこぼした。


「ここは非公式の場だから礼節など気にせず食べてほしい。私もそうさせてもらうから」


 ミノアニアの食は、想像の二倍ほどスパイスが効いている。

 スープひとつにしても舌がピリピリするような味付けが多いからアレッシアは苦労するものの、他の人達は平然としていることから、これが彼らにとっては普通なのだろう。それでも気に入った料理はいくつかあって、薄く平べったいパンに自分で肉や野菜を挟んだものが味の調整をしやすい。

 自分で量を調節しながら嬉しそうに食べるアレッシアを、ニキフォロスは不思議な様子で見つめる。


「アレッシア殿はどこかの姫君かと思っていたのだが、違うのだろうか」

「姫? そういうのじゃないけど、あ、ないです」

「ああ、言葉遣いは気にしなくていい。貴女がルドの主だというのなら、私としては対等のようなものだから」


 王子と対等に話して良いという。先ほどルドと言い争いをしかけた、ザカリアという男が額に青筋を浮かべるも、アレッシアはニキフォロスの要望に応えることにした。


「聞き間違いでないなら、アレッシア殿はこちらの状勢を知らないと言っていた。すると貴女は一体どこから来られたのだろう」


 アレッシアは隣の人狼を見上げたが、彼は彼女の判断にすべてを委ねるらしい。

 好きにしろ、と物語る態度に、アレッシアは行方不明となっているカリトンの言葉を思い出した。

 彼曰く、相談すべき相手はルドだけ。しかしそのルドはアレッシアに判断を委ねると言う。これが自分に課せられた試練であるのならば、決めるのもアレッシアなのだろう。

 迷いに迷い、無難な返答に留めることにした。


「……とても遠い場所かなぁ」

「それはミノアニアからどのくらい離れているのだろうか」

「船に乗っても簡単には帰れないくらいの距離……かな。だから私一人じゃ危ないってことで、ルドが守ってくれてるんだけど」

「船……となれば、違う大陸から?」

「……そんな感じ」


 要領を得ない返事をするので相手を怒らせかねなかったけれど、ニキフォロスは問い詰めるような真似はせず、アレッシアの顔色を読んで引き下がる。かといって気を悪くした様子はなく笑顔で話しかけるから、この王子はあたたかみのある人柄を有しているのだと伝わる。つい気を許してしまいがちになる心を引き締めるのは、唐辛子の効いた揚げ物だ。

 

「帰るあては?」

「いまはない、かな。だから、もしよかったらしばらくここでお世話になりたいのだけど……」

「だけど?」

「泊まらせてもらうには私は無一文だから、どうしようかなって」


 問題としては、アレッシアには支払える対価がないことだ。

 おかしなことをいったつもりはなかったが、これに少年はたいそう笑った。


「アレッシア殿はおかしな方だ。テミスが保護し、ルドの主というのであれば私にとって貴女は客人。そんな方に対価など求めるはずがない」

「……流石に、それは図々しい気がする」

「本当に気にされる必要はない。それに見てくれ、ルドが珍しく渋面を作っている」

「えぁ?」


 困らせるようなことを言ったつもりはなかったが、人狼はなんとも言い難いうめき声を漏らしている。


「……金なら俺が持っている。そういうことは気にしなくていい」

「あ、いいの?」

「よく考えろ。俺がお前に稼ぐ能力を期待したことなどあったか」

「それもそっかぁ」


 そもそも幸か不幸か、いまのアレッシアは働く環境に身を置いたことがない上に、異国で何ができるかもわかっていない。

 アレッシアは改めてニキフォロスのもとに身を寄せされてもらいたい旨を申し出ると快諾を得られたが、彼からも頼みごとをされた。


「ルドは千人隊長を辞めたいと私に言ったが、それはとても困ってしまう。なぜならこの五年の間で彼は私達にとって重要な存在になってしまった」

「彼、強いものね」

「その通りだ。私は生まれて初めて人狼族を見たが、その強さたるや伝承通りの頼もしさだ。こうして我が方に加わって以来、彼に憧れている兵も多い」

「……遠回しに言わなくてもいいよ?」


 婉曲的な物言いを好まないアレッシアに、ニキフォロスは苦笑を漏らす。

 

「……彼を知るものとして、ルドがああまで言ったとなれば、引き留められるとは思っていない。けれど正直、いますぐは困る」


 アレッシアも前の自身は現代日本人だ。軍人も一種の会社員、それも重役が突然引き継ぎもなしに即日辞めると退職届を出されても簡単に受理できない。

 

「ルドをしばらく貸せば良い?」

「ご明察の通りだ。彼の望みとは相反するが、ルドが主と仰ぐ貴女にお願いしたい。せめて兵達が納得するしばしの間だけルドをお貸し願えないだろうか」

「うん、じゃあそれで」

「代わりになるかはわからないが、貴女の警護は私が責任を持っ……」


 説得に時間を要するとでも思っていたのだろうか。申し訳なさそうに頭を下げようとしたニキフォロスだったが、迷いの欠片すらない返答に、拍子抜けしたように顔を上げる。

 この調子では、もしやアレッシアが何かふっかけるとでも思っていたのかもしれない。


「……本当に良いのだろうか」

「だって断る理由がないし」

 

 彼女としては不利益を被るものなどなにひとつない。隣の従者も彼女の決定に異論はないようだし、これで話が纏まったと喜び頭を下げた。


「そういうことで、しばらくよろしくお願いします」

「あ、ああ……よ、よろしく頼む……?」


 当初はどうなるかと思ったが、衣食住が保証されるとは素晴らしいことだ。

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