2章 神託の巫女
1.なんてことのない日常
娯楽はあっても数が少ないと、自ずと趣味は限られてくる。
陽が昇ってからはや数刻。
薄い毛布にくるまっていたアレッシアは緩慢な動きで身を起こす。普通の人々であれば――たとえ子供であっても――とっくに起きていなければならない時間だが『運命の女神』の後継候補として選ばれたアレッシアは、起きる時間は自由で良いとされている。もっとも、まだ少女の肉体だから、成長に良くないからと規則正しい生活を望まれているけれど、基本的に朝食ぎりぎりの時間まで眠りこけるのは許される。
読みかけだった『ニルンとはじまりの十二の神』という題名の本が落ちた。
幼児向けの基礎的な本だが、内容はタイトルからお察しだ。
アレッシアは落ちた本をつまらなさそうな目で拾い上げ、表向きは綺麗に整え枕元に置き直す。
寝る前に暇だからと手に取って本だったが、役だったのは睡眠導入剤代わりになったことくらいだろう。知的欲求はなにひとつ満たされることなく終わってしまった。
携帯電話やタブレット端末が存在してくれていたら喜んで弄り倒していたろうが、生憎そんなものは存在しない。
本はできるものなら壁に投げつけてやりたい気分だったが、堪えたのは自制心が働いたからだ。もし本が乱雑に扱われたと知れたら、説教とは行かずとも理由くらいは尋ねられるか、心配をされよう。
この信仰心の薄さは問題だが、そもそもアレッシアになる前の自分は、その『運命の女神』によってニルンに呼び出され、後継候補を断ったために殺されてしまった。おまけにどういう仕組みか、アレッシアとなってから前の自分の死に姿を目撃してしまった。前の彼女を刺し殺した戦神は人の命などどうでも良さげであったし、神々への信仰心など芽生えるはずがない。
寝る前の手入れを断ったためか、ややぼさぼさになった青銀の髪がシーツに流れ落ちる。白い寝衣に包まれた、しみひとつない艶やかな足先が大理石の床を踏むと、ひんやりとした冷たさが眠気を奪って行く。
ぐっと背伸びをした視線の先には姿見があり、布を払って鏡の前に立つと、姿を現したのは十代前半の少女だ。
まだ顔立ちは幼くも、整った鼻梁といった均整の取れた目鼻立ちは、将来は美女に化けそうな趣がある。両手の指で唇の端を持ち上げて笑顔を作れば愛らしく、いまはすっかり馴染んだといえど、前の自分を思えば少し不思議な感じもしている。
この部屋には生活を営むための殆どの設備が備わっている。
顔を洗うための洗面台では、すでに顔を洗うために必要である綺麗な水が桶に溜まっている。冷たい水で顔や手足を洗い、用意されたタオルで水気を拭き取る。
次に行ったのは着替えではなく、テラスに出て、地上へ燦々とした光を降り注ぐ太陽へ向かって頭を垂れることだ。膝をつくと両手を組み合わせる形で瞼を下ろす。
朝の祈りだ。
――形だけでもしないのは問題だからね。
ニルンは神々が実在する世界だ。人智を超えた力が存在しており、文字通り人々は神に生かされている状態になる。現代人の感覚で「祈りなんてくだらない」なんて言葉を吐いては異端扱いで、神殿の耳に入れば良くて投獄。最悪神々の耳に入ってしまえば命はない。誇張ではなく、実際己を含め、あっけなく殺されてしまった光景を何度かみてしまった経験から得た教訓だ。そのためアレッシアは形だけでも祈りを捧げるようにしている。
運命の女神の都市、ロイーダラーナは空に浮かぶ都市なれど、人々は実際の気圧や寒さに怯える必要はない。年中気候が保たれており、そのため夏であっても心地よく過ごしていられる。朝もそよぐ風が気持ち良く、うっかりすれば眠りに落ちてしまうくらいだ。
祈りの時間を終えると、今度こそ着替えるべく部屋を横切ろうとする。再び姿見に自身の姿が映ったけれど……腰の下まで延びた青銀の髪だ。否、髪だけではない。数ヶ月前までは手足どころか身長もいまより低かった。
二年分ほど成長してしまったのは、主神たるマグナリスの神殿に赴き、そこで運命の女神になるための必要な力を行使してしまったせいだ。おかげで他の候補者を出し抜いた結果になったが、時を遡った副作用でアレッシアは年を取り、いまは十四歳頃の見た目をしている。
髪の毛を一房握り、持ち上げる。
「邪魔」
色は綺麗で好きだけれど、目立つし、程よい長さに整えたい。しかし長すぎるので髪を切りたいと軽い気持ちで言ったら、彼女の護役である人狼ルドは苦々しい目元を作って牙を晒し、相棒たるリベルトという中年を呼び出してしまった。今度は彼から懇々と説教されてしまったのだ。
なぜ髪を切るだけで叱られねばならないのか。
理不尽な気持ちを味わったアレッシアだが、そこは剣と魔法と理不尽の世界であって現代の常識は通じない。理由は「巫女らしさ」と「女性らしさ」を損なうからと断られてしまった。アレッシアは女神の候補者なだけであって巫女ではないけれど、要は「神秘っぽさ」が薄れるからいけないらしい。
面倒くさい、と匙を投げたい気分を味わいつつ、自分でゆるい三つ編みを作って編んだ。
呼べば召使いが編んでくれるが、そういう気分になれない。
無論、後見たるストラトス家は彼女の世話を焼いてくれる。顔は良いのにぼんくらな当主ヴァンゲリスはともかく、羊角を持ったできる女性執事パパリズは丁寧に世話を焼いてくれる。アレッシアもストラトス家に来たばかりの頃はお姫様みたい、とお任せしていたが、段々と「自分のことは自分でできる」と大体のことは自分で行うようになってしまった。
洋服棚から取り出すのは白を基調とした、くるぶしまで隠れるワンピースのようなスカートだ。腕や背中は晒されるが、それがこの世界の文化であって、さらに付け加えるなら女神の候補者たるアレッシアの装いになる。腰元をリボン結びでまとめ、首も隠すように長いスカーフでまとめ、純金の留め具をつける。そうすると腕に嵌まっていた金の腕輪が映える、とパパリズが言っていた。
我慢できなくなった欠伸を零しながら部屋を出ると、扉の端に立っている人物に顔を向けた。
「おはよ」
「よく寝られたか?」
「まあまあ……と言いたいところだけど、最悪。悪夢で起きちゃった」
待ち構えられていたのに驚きもせず、なんてことない様子で挨拶を取り交わす。家の中なのだから護衛など不要――そう言っても彼女を守ることが役目なのだからと言って譲らないのが、アレッシアの護役であり、狼の頭を持つ人狼族のルドだ。
ただの人からは一見表情がわかりづらい種族で、アレッシアの返事にも「そうか」と短く返事をした。
「あまり魘され続けるなら祝福でも受けに行け」
「やだ」
ルドの言う『祝福』は「神殿で巫女の捧げる祈りを聞いてこい」の意だ。
たしかに連日炎に包まれる夢を見ているが、祈りごときで夢が変わるはずもない。そも夢見が変わったとて、それはそれで頭の中を弄られているようで気持ち悪いではないか。
この返事を予想していたのか、肩をすくめるルドは「しょうもない娘だ」と言わんばかりだった。
朝食会場は一階の広間だ。
自室で食事もできるが、ひとりの空気もつまらないからアレッシアが断った。しかし席に着いてしばらく経っても当主ヴァンゲリスやってこない。もしやまた賭け事でも……と一瞬でも疑われるのは、前例があるため仕方のない話だ。
しかし今朝は違ったらしく、遅れてやってきた執事のパパリスが頭を垂れた。
「今朝は用事があるとのことで、すでに出かけられております。アレッシア様におかれましては、いつも通り過ごして欲しいと仰せでした」
「え、そういうの聞いてない」
「なにぶん急用でございましたので」
「お仕事?」
「違いますが、監督役を付けましたので悪さはできません」
「……そっか、ならいいや」
ヴァンゲリス本人より執事の方が信頼厚いのはいつものことだ。
給仕にパンや果物を選り分けてもらい、豆と卵を炒ったものや、茹で肉を口に運ぶ。味は非常に淡泊すぎたが、これはアレッシアの希望によるものだ。ロイーダラーナで好まれる調味類は癖が強すぎて尖っているので、いっそ塩で簡単に食べた方が良い。それでも孤児院時代の豆のスープに比べたら豪華で、味付けもマシなのだからご馳走だ。この世界で
食卓はひとりだった。
アレッシアたっての希望で、ストラトス家は比較的身分を超えた態度で接しやすくしてくれるも、パパリズは使用人の域を出ないし、護役のルドは同じ卓を囲まない。従って同じように食べられるのは後見人役を仰せつかったストラトス家当主のみだ。
つまらないな、と黙々と食べていると、彼女が起きた報告を聞いてか、二人の人物が姿を現した。
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