36話戦神との再会
帰り路でアレッシアを呼び止める者がいた。
「おい」
振り返っても誰もいない。しかし地面には影が差しているので顔を持ち上げれば、巨大な犬……否、白い生き物の顎が目に飛び込み、大きく除けぞった。バランスを崩してしまったのだが、帰り路は坂だ。そのまま落ちれば後頭部を打ち付けるのは間違いなく、最悪大きな事故に繋がりかねない。一瞬でそう判断したものの、すでに体勢は崩れ、本人すらどうしようもなかったとき、彼女の身体を支える者がいた。
「あ……ぶないな、おい。とろいにも程がある」
彼女を支えたのは、ちょっと前に見た顔の青年だ。燃えるような赤毛で、十代後半ほどと若々しい姿。まごうことなき戦神ロアがアレッシアの背中に手を回し、不快そうにアレッシアの顔をのぞき込む。
「また礼もないのか。運命の後継者じゃなかったら助けなかったぞ」
次の瞬間、アレッシアは叫んだ。
ヒキガエルを潰したかのような叫びが木霊するも、あたりに人はいない。ロアを拒絶というよりは、驚きではね除けたところで、もう一度足を滑らせた。今度は地面へ尻をしたたかに打ちつけ痛みに悶絶していると、青年は呆れながら彼女を横抱きに持ち上げる。
「いった……やだー! 何しに来たぁ!」
「本当に、とことん失礼な小娘だよな。見た目はちょっと良くなったのに、中身がガキのままだ」
「ぎゃあ!」
「くわえて淑やかさも足りない。ああ、様子見なんかに来るんじゃなかった」
投げられた先は白い生き物……もとい、白狼の背の上だった。高さはアレッシアの倍以上もあり、降りるだけでも一苦労だが、彼女は逃げようとした。しかしロアに首のリボンを掴まれると「ぐえ」と声を上げるだけで逃れられない。手を動かしても指先は宙を掻くだけで、ロアはそんなアレッシアを気味の悪い幼虫でも見るかの如き眼差しで捕らえつつ、白狼の首を叩く。すると狼は飛び上がり、せっかくアレッシアが辿った道を逆走する。
「あー! 帰ろうと思ってたのに!」
「帰るって、まさかと思っていたが本気か」
「なにが!」
「普通に考えて、お前の足で神殿から街に降りるなんて死にに行くようなものだろうが」
「はー!? 人のこと馬鹿にしすぎでは?」
「…………馬鹿はお前だ。無知な小娘め」
呆れかえったロアは呟くものの、そのまま彼女を神殿へ連れて行く。そこは神官などが行き交う、比較的多くの人が通行する場所だったのだが、白狼とロアの姿を見た瞬間に頭を垂れながら姿を隠した。
「腐っても神様ね」
「神が腐るものか、馬鹿者め」
憎まれ口を叩き合うも、彼女の目は地上に向かっている。この戦神がなにをしたいのか掴めずにいると、目に飛び込んだのはある人物だ。
ロアの目的の人物もその人だったらしい。あっ、と呟く間に白狼は着地し、背中を押されたアレッシアもずり降りる形で着地する。彼女の手を取ったのは褐色の肌をした、十代半ばの少年だった。
「大丈夫か」
「カリトン様だ!」
運命の女神の戦士……というよりは、孤児院の護衛役の方が馴染みがある。懐かしい少年と再会を果たすのだが、アレッシアは肉体の成長に伴い、背も少し伸びていた。少年とあまり変わらない目線に不思議な感慨を抱いていると、カリトンは困った様子で彼女の後頭部に手を伸ばす。そのまま力尽くで、ロアに向かって頭を下げさせた。
「ちょうどこの娘を待っていたところでございました。戦神のお手を煩わせてしまったこと、まこと申し訳なく存じます」
そこに青年の声が降りかかる。
「まったく、運命のやつはもう少しなんとかならないのか。俺が見つけなかったら歩きで帰ろうとしていたところだぞ」
「なんと、歩きで……それは、我らの教育不足でした。申し訳ございませぬ」
「お前に言ってるわけじゃない。ひとえにその娘の無知と、自由にさせすぎる連中の責任だ」
「いえ、元は教育を担っていた我らの管轄ですので……」
「…………運命のところの戦士はみなお前みたいなやつなのか。真面目すぎるのもどうかと思うぞ」
「それは同意す……いだっ」
最後のアレッシアの呟きは、カリトンに肩口をつねられて封じられた。
痛みで涙目になっているとロアと目が合う。珍妙な生き物を見る様子だったロアは鼻で笑うと、もう一度白狼の首を叩いた。
「まあ、父上と対峙してそれだけ元気なら問題あるまい」
「は?」
思わず反応するアレッシアをカリトンが制する。
「喧嘩腰をやめろ、馬鹿」
その間にロアは飛び去ってしまった。一体あの戦神はなにをしに来たのだろう。呆然と立ちすくむアレッシアに、カリトンが盛大なため息をつく。
「アレッシア……ロア様の手を煩わせておいて、礼の言えないのはどうかと思う。ストラトス家は礼儀作法の一つも教えなかったのか」
「だって、あいつは」
「だってもなにもない。彼の御方だから許されたようなものだぞ」
あの神はいまだいけ好かない一柱だ。大体誘拐紛いの手法で勝手に連れてきて、叱られるなど理不尽ではないか。露骨に不貞腐れるアレッシアに、カリトンは言い含める。
「それにロア様のお言葉によれば、ひとりで神殿を出て帰ろうとしていたそうじゃないか。なんでそんなことをした」
「聞いてないですもん」
いっそう頭痛を堪える面持ちを隠せないカリトン様である。
「……常識的に考えろ。女神の候補者たるものを、神殿が護衛も付けず一人で返してなるものか。そういうときは送迎があるのが当然なんだから、こちらに来い」
「そもそも場所知らないです」
「ストラトスめ……」
知らぬところでヴァンゲリスが恨まれている。
機嫌の悪いアレッシアだが、いない神へいつまでも気を揉んでいたくない。気を取り直して質問した。
「それより、私の送迎ってカリトン様なんですか?」
「送迎と言うよりは……」
「カリトン様?」
「……それは後で説明する。それより、ほら、ストラトスへ戻るぞ」
そう言ったカリトンが用意したのは、以前もアレッシアを乗せてくれた狼だ。彼女は喜んで狼の頭を撫でるのだが、カリトンの教育が行き届いているのか大人しくしている。
「私、こっちの方が好きです」
「馬鹿者。戦神の白狼は狼たちを統括する偉大な神なんだぞ。それをお前、神の乗り物と比べたりするんじゃない」
とはいえ、自身の狼を褒められたのは嬉しそうだ。
アレッシアを背に乗せると自身も狼に跨がり、狼は浮遊を始める。そしてアレッシアが逃げられない瞬間を狙い、ここぞとばかりに説教を行った。
「次にロア様にお会いしたら、必ず礼を言うんだ」
「ええ……」
「ええ、じゃない。どれだけ長い道のりだったのかをもう忘れたのか。あの口ぶりでは、きっとまともに帰り着けなくなるのを見かねて手助けしてくださったんだ。この時間に帰路を辿るなんて、
「……そんなの出ましたっけ?」
「冗談で聞いていると言ってくれ」
街と神殿を挟む道中は、ある限定的な場所において、朝昼といった決められた時間帯以外は怪物が出現する。神殿を守るために、女神があえて残しているのだと少年はアレッシアに教えた。
「だからロア様はわざわざ助けてくださったんだろう。いわば命の恩人だ」
「……なんで助けてくれたんでしょうか」
「それは無論、無謀にも一人で帰る女神の後継を見かねてだろうけど」
「そうじゃないです。なんでわざわざロイーダラーナにいたのかなって……」
しかもちょっと前まではマグナリスの神殿にいたはずなのだが、それがロイーダラーナにいて、おまけにいまにして思えば気に掛かる言葉を言っていた。「様子見」とは、まさかアレッシアを見に来たわけでもないはずだ。
疑問を覚えている間にストラトス家に到着するも、当然ながらヴァンゲリス達は帰ってきていない。羊角を生やす執事のパパリズが頭を垂れて出迎えるのだが、アレッシアを送迎したカリトンは帰る気配がない。それどころか共にヴァンゲリス達の帰りを待つらしく、それまでの間、アレッシアは孤児院の話を聞くことができた。
皆は元気にやっているらしい。アレッシアが出した手紙をエレンシアは大事にしているらしく、神殿で同胞に出会ったのもあって郷愁が湧くも、なんとなしに尋ねた帰宅の望みは断られた。
「神官長様も許しはしないはずだ。それにアレッシア、お前はエレンシアの髪をどう思う?」
「……また髪の質問ですか?」
「いいから答えろ」
「綺麗な黒髪。私は大好きです」
いつかの神官長と同じ質問だ。綺麗な髪だと答えれば、カリトンは一瞬だけ視線を逸らし、やはりアレッシアの帰宅を拒否した。
「やはり務めを果たすまでは駄目だ。神官長様も扉を開くことはないだろう」
「もー!」
「文句を言うな。最初からそれで了解したじゃないか」
「わかってますよ。そのお務めがどういうものかはとにかく……まあ、カリトン様に会えたからいいです」
懐かしい顔に会えたのは望外の喜びというものだ。
だらしなく長椅子に横になるのを叱られつつ、皆の帰宅を待っていると、やがてヴァンゲリス達の帰宅を知らされた。パパリズと共に出迎えに出たのだが、ヴァンゲリスをはじめ、ルドやリベルト達に続いて馬車を降りたのは金髪の美少女である。
双子の護役を連れたトリュファイナが、複雑そうな表情でアレッシアを手招きする。誰もなにも言わないので大人しく近寄れば、突如抱きしめられた。
「ト、トリュファイナ?」
トリュファイナはうまく言葉が出ない様子で、深く息を吸っている。背後の双子は瞳を潤ませており、アレッシアには深々と頭を下げている。なにがなんだか、といった様子だったのだが、双子の言葉で意味を理解した。
「帰りの道中にて、ソフィア様からあらましを聞いています」
「トリュファイナをお救いいただき、本当にありがとうございました」
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