第33話 選ばれた娘


 額からジンジンと熱く痛みが伝わる中、冷えた床のせいで手足先から体温が抜けて行く。緊張のせいか息が詰まって前進が苦しいけれど、ここで自分に構ってはいられない。

 アレッシアはひたすら、至近距離で床を見つめている。右手にさらりとした髪の手触りを感じるなか、トリュファイナが抵抗しないのだけがせめてもの幸いだった。

 ひんやりと冷たい空気、この場で熱くなっているのは自分だけだとアレッシアは知っている。


「……どういうつもりかな?」


 マグナリスが発したたった一言で、こめかみを汗が伝う。運命の女神を前にした時の威圧感など比にならない。カラカラになった喉が乾きを訴えた。

 ――謝りなさい。いまなら間に合う。

 頭の片隅で、冷静な自分はそう警告している。トリュファイナを差し出せば、もしかしたら許してくれるかもしれない。見逃してもらえるかもしれない。

 だけど……と、拳を握った。

 覚悟を決めて息を吸う。


「トリュファイナは馬鹿です!」


 ごめん、と心の中で謝る。


「本当に彼女は大馬鹿です。愚かです。巫女でありながら、惑い、神々へ信奉すべき心を失いました」


 こんな場所で個人を貶すなんてあってはならない。けれど、何度だって繰り返すけれど、ここは現代日本ではないのだ。話し合えばきっと通じ合えるなんて理想は、相手が同じ倫理観・道徳が備わるからこそ活きると、身を以て知ってしまった。

 ゆえにアレッシアにはこの方法しか思いつかない。

 マグナリスは何も言わない。頭を上げて良いとは言われないが、黙れとも言われないので続けた。


「ですが彼女の過ちは、神々を敬うからこそのものです。私たちは神々の慈悲なくば生きていけない矮小な存在だと、聡明な主神でしたらご存知のはずです」


 続ける、続ける、続ける。もはや口上なんて考えている暇はない。マグナリスに口を挟ませたら、アレッシアの緊張の糸が切れる。

 

「トリュファイナは他に縋れるものがなかったのだと私は考えます。愛して期待したからこそ、誰よりも裏切られた気持ちになったんです。ですから……」

「から?」


 言葉を詰まらせた一瞬で、男の声が降った。

 たった一瞬で相手はアレッシア達を殺せてしまう。

 ――怖い。

 今度は痛みを感じる暇はないかもしれないが、それでもやっぱり死にたくない。


「……また信仰心さえ戻れば、彼女は誰よりも深く神々を称える存在に、力強い伝道師になれます。人々の心に訴えかけることができる声をもつトリュファイナなら、きっと、皆さまのお役に立てます」

「ふぅん。……で?」

「殺すには惜しいです。生かしてください」


 最後はもう言葉が尽きた。馬鹿、と自分で自分を罵るがどうしようもない。

 短くはない時間が流れる。誰もマグナリスが喋って良いと言わないから声を発せないし、動いて良いと言われないから息を殺している。

 主神の御前に人間が立つとは、そういうことだ。

 顔を上げられないからマグナリスの様子もわからない。じっと待っていると、やっとマグナリスが喋った。


「長い目で見れば巫女は生かす価値があるという。だが、問題はそこではなかろう。その巫女の心はどうやって改心させる」

「それは……」

「母親か?」


 やっぱり見ていた。マグナリスはなにもかも承知している。

 そうです、と返せば薄く笑われた。

 

「そうだとすると問題だ。なにせその娘はマルマーの巫女だから、ここで認めては私が規律違反を認めたという話になるね」

「いえ、いいえ。そうはなりません」

「なぜそう言いきれる?」

「いまのトリュファイナはマルマーの巫女である以前に、女神の後継者のひとりです」

「……ははぁ、つまり見逃せって話か」

「はい」


 この時になると、マグナリスから剣呑さがなくなった。油断してはならないと思いつつも、少し安堵してしまっている。なあ、と主神が誰かに問うた。


「候補はこう言うが、お前はどう思う、ミールケ」

「まあ、なぜわたくしにお尋ねになるのです」

「マルマーは豊穣の神を崇めるものだろう」


 女神はなんと答えてくれるだろう。胃と心臓がわけもない痛みを覚えていたのだが、この会話に割り込む者がいた。

 カツン、と運命の女神が杖をならしたのだ。


「そこまで」


 茶番はお終いだと言わんばかりに宣言した。彼女の杖の先端がアレッシアの顎にかけられる。杖に導かれるまま顔を持ち上げると、彼女の顔が神々に晒された。運命の女神の双眸がアレッシアを一瞥し、マグナリスに語りかけた。


「アレッシア及びトリュファイナの命は、たったいま私の管轄下になりました。貴方がたは手出しをしないでもらいたい」

「理由は?」

「見ればわかるでしょう」

「少なくとも、私以外の神は把握できていない。説明を行うのがお前の義務だ」

「どこまでも歌劇を好むのは、貴方の悪い癖ですね」


 しょうのない子供を相手にしているような態度だ。

 片手で扱うには重すぎる杖を軽々と動かし、アレッシアの顔を神々に見せびらかすように杖を動かす。


「ご覧の通りです。誰よりも運命わたしに遠いと思われた娘が運命を繰る力を行使した。与えるはずだった試練をこなしてしまっては、改変の結果となったトリュファイナは生かしておくべきでしょう」

「お前はアレッシアがトリュファイナの死を変えたと言うのですね」

「ええ、ヘレネ。本来であれば証明は難しいが、この姿を見ればわかるでしょう」


 大地の女神と目が合った。どうやら大地の女神はアレッシアが気に入らないらしいが、鼻息荒く、持っていた扇を広げ振る。


「いいわ。お前の説明はわかった。主神もなにもおっしゃらないし、であればなのでしょう。たしかに試練に関して、私たちはお前に任せると言ったものね」

「聡明な神である貴方に感謝しましょう」


 ヘレネが大きく腕を動かそうとしたときだ。美神が彼女に呼びかけると「ああ」と投げやりな態度で人間達を見下ろした。


「神々を失望させぬように励みなさい。神への感謝を忘れず使命に励むのであれば、その熱意に我々は必ず振り向くでしょう」


 玲瓏な祝福が人間たちに降り注ぐと、今度こそ大地の女神は扇を振った。すると階上の席にいた神々は姿を消しており、何事もなかったかのように空席だけが残っている。

 唯一残っているのはマグナリスだけだ。

 彼はアレッシアの前にしゃがみ込み、愉快そうに笑う。

 人さし指の爪が目尻に浮かんでいた涙を拭い、自身の唇に運んだ。気が気ではない行動だが、ひとえにマグナリスが桁外れの美貌の持ち主だからこそ様になる行為だ。


「無意識にやったのだとしたら大したものだ。まあ、降りたくなったら私の名前を呼ぶことを許そう。お前達の定めは変えようがないのだろうが、一人くらいは融通してやれる」

「マグナリス」

「おお、怖い女神のお出ましだ」


 主神は立ち上がり踵を返す。最後に候補者達に告げた。


「裁可は下った。あとはせいぜい励むがいい」


 空間にひずみが生まれると姿を消してしまった。呆然とするアレッシアだが、再び女神がカツンと杖を叩くと、その先端から光が発生し、いまだ床に伏していた女性二人に走って行く。


「う……」

「ここは……」


 トリュファイナの護役、ドリとグラが身を起こした。

 そういえば、トリュファイナの死ぬ直前に戻ったのだから、双子は助からなかったはず。床や服に血痕は残っていたものの、見事に復活している。


「ドリ、グラ!」


 トリュファイナが駆けて、二人に飛びついた。混乱している双子は状況が掴めないようで目を白黒させている。

 アレッシアは呆然と呟いた。


「助か、った……?」


 もしかしなくとも、見逃してもらえたのか。

 かつての自分は救えなかったけれど、トリュファイナと双子は助けられたのか。命永らえたのだとようやく認識し始めた頃、同じように緊張から解放されたディオゲネスがアレッシアの肩を叩いた。


「主神を前に、よくあれだけ言いきった。……大丈夫か?」


 力が入らないが、手を貸してくれるらしい。ありがたく助けを借りようとしたら、伸ばした指先を見て気が付いた。


「え……?」


 手の甲、手の平をじっくり見つめる。記憶違いでなければ、こころなしか手が、少しだけ大きくなっているような気がするのだ。なぜ、と腕を伸ばしたら肩甲骨のあたりが苦しい。身体も同じだ。緩めに設えられているはずの装いが、いまは少し苦しいくらいになっている。平らだった胸も少し成長しているし、髪も伸びていた。

 他の神々と違い、いまだ撤収せずに残っていた女神が再び杖を動かす。アレッシアの肩に先端を置くと、ディオゲネスが差し出そうとした手を下げ、彼女は立てなくなった。


「備えも持たず、時織りを行ったためです。数歳とはいえ、力を行使した代償と思いなさい」


 そこで初めて、運命の女神が神々にアレッシアを見せびらかした意味を理解した。

 はじめっからそうだ。主神マグナリスも、運命の女神も、アレッシアがトリュファイナを救うために何をしたのか、しようとしていたのか知っていた。

 あの過去に遡った力こそが、運命の女神の権能。そして代償としてアレッシアの肉体がわずかに成長した──。

 女神は他の候補者達にも告げる。


「お前達も心に留めておきなさい。このような始まりは異例だが、候補者アレッシアが第九の試練を突破したのだと。お前達を抜きん出て、誰よりも運命わたしに近づいたのです」


 それはアレッシアが一歩、彼らの先を行った宣言だった。

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