第32話 再び時は進み
視界が歪むも、トリュファイナの邪魔はできない。幸い二十ほど数える間に目眩は納まったので平常を戻ったが、目の合ったリベルトが険しい表情をしていたから、きっと気付いたのだろう。
この間にトリュファイナは男にさらなる情報収集の依頼を決めている。前報酬としてさらに金貨を渡したところだ。
「毎度あり。じゃ、次はもうちょっとマシな話を持ってくるよ」
「ええ、是非そうしてちょうだい」
酒場を後にしようと席を立つと、その際、それとなく背中を支えたのがルドだ。思わず見上げると、彼もまた不服げにアレッシアを見下ろしている。
――気付いてたんだ。
申し訳ないような、くすぐったくて嬉しいような心地だ。
大丈夫だと伝えるためにうっすら微笑む。トリュファイナは始終緊張していたのか、安全な場所に移動し終えると胸をなで下ろした。
「お母さんは見つからなかったけど、手がかりがあって良かったね、トリュファイナ」
「う、うん。……そうね、まさかこんな簡単に名前が知れるなんて思わなかった。あ、決まったわけじゃないっていうのはわかってるんだけど」
両手に頬をあて、ほう、と息を吐く彼女の目は輝き、そんな主を優しく見守る護役の双子が苦笑している。妹を見守る姉のような眼差しに、双子とトリュファイナの関係が気になったが、その前にトリュファイナがアレッシアの前に立っている。
「え、トリュファイナ?」
目を白黒させている間に、なぜか彼女に抱きしめられている。彼女の肩はわずかに震えており、心配になって背中をさすると小声で囁かれた。
「……ありがとう」
離れるとぱっと後ろを向いてしまったが、その耳は真っ赤に染まっている。照れていると気付いたのは一呼吸置いてからで、アレッシアは呆気にとられた。後ろ手に手を回したトリュファイナは、恥ずかしいのか早口になっている。
「貴女が協力を申し出てくれなかったら、手がかりが見つからなかったからよ……わ、わたくしから直接抱擁されるなんて、ものすごい名誉なんですからね」
双子のうち、短髪のドリが「すみません」と苦笑気味に頭を下げている。なるほど、素直になるのがきっと苦手なのだろう。素直でないが、やはり悪い娘ではない。
「次はもうちょっと何か聞けるかな?」
そう発しようとしたきだ。視界の揺らぎが襲ってきて、身体が揺れた。立ったままだったから、手を伸ばしても支えはない。倒れかけた彼女をルドが支えると、珍しく焦ったリベルトが名前を呼んた。
「アレッシア!」
なんでもない、と言おうとして失敗した。また目がチカチカして、視力が次第に失われて行く。手はルドの腕を支えにしていたはずだが、感覚が失せたと思ったら、いつの間にか膝をついていた。四つん這いの姿勢になって、苦しくなる胸に手を当て呼吸を繰り返す。耳鳴りが襲い、はあはあと息を吐くうちに、額からは汗が流れていた。
――これ、たしか。
ついこの間、体験した感覚は覚えている。
主神マグナリスの神殿で、トリュファイナが死んでしまった後に体験したアレだ。ただ、あの時と違って心臓が痛いし、まるで全身が軋むような悲鳴を上げている。
「痛い、痛い痛い……!」
目尻に涙を浮かべ、混乱のままに呟く。指先が地面を抉るも、目はなにも見えない。こめかみから伝った汗が顎に流れ落ち、流れる感覚に呻きを上げる。
痛みが治まるまで十分はかかったはずだ。体感的にはそれ以上を苦しんでから顔を上げると、なんとか視力は回復している。しかし瞳に映る光景はロイーダラーナの街並みではなかった。
抜けるような青空と、空に混じる雲が間近にあった。
足元は一面海が広がり、アレッシアは宙に浮いている。本来感じられるはずの風も、海の匂いはない。無風のなかで景色だけが点在していて、まるで絵画の中に立っている錯覚を覚えた。
神も、人も、音もなにもない世界に再びやってきたのだ。あのときはわけもわからず、無我夢中で駆け抜けた空間だったが、いまは周りを見る余裕ができている。
涙を拭うと、おそるおそる立ち上がった。
「ここ……どこ、なんだろう」
ルドやリベルトの名を呼んだが、やはりといおうか誰もいない。後にも先にも進めず辺りを見回す表情には、不安が宿っている。
どこに行けばいいのだろう。
時間をおくと仕方なしに進み始め、目を皿にしながら人を探した。立て続けに不思議な体験をしていたが、この天地に広がる光景にしたって、謎はなにひとつ解明できていない。事態を解明するには時間も情報も足りないばかりだ。
恐れてばかりもいられないから先に進むけれど、二度目となれば、少しは考えるだけの余力もある。
そこで思うのは、また時間を逆行するのは困る、の一点だ。
トリュファイナの母捜しはまだ終わっていない。彼女を改心させる間に、マグナリスへの対策を考えねばならないのだ。
その思いが歩みを遅く、歩幅を小さくさせている。
行けども行けども景色は変わらず、うんざりとしていたら、やがて気付いた。
――なにかある。
空に一つだけぽつんと点になって点在している。駆け足で近寄ると、黒い外套を目深に被った老婆が立っていた。簡素な木の杖をついた、ひどく背の曲がった老婆で、フードと伸びた前髪で目元は見えない。顔の半分に刻まれた深い皺が相当な年齢を伺わせる。
アレッシアはその老婆に見覚えがあった。
それも二度だ。
一度目はまだ記憶に残っている。
「……なんで忘れてたんだろう」
思わず呟いたのは、言葉通り二度目を失念していたせいだ。この老婆とは、最初にこの空間に到達した時に会った。会話はなかったけど、ある方向を指差し、まるで道しるべの如く行く先を示した。がむしゃらになって走った先で、アレッシアは時間の逆行を果たし、過去へ戻ったのだ。
老婆と対峙したアレッシアだが、しかし相手はうんともすんとも喋らない。
「ねえ、あなた、一体何なの」
呼吸していなかったら精巧な置物かと疑ったくらいだ。微動だにしない老婆を前にしばらく待ったが、やがて飽きて欠伸を零したときだった。
「進みなさい。そこがお前の、行くところだから」
「しゃ、喋った!?」
しわがれた声で、やがてある方向を指差した。指し示された方角には青空しかないが、老婆はそこに行けといっている。
この空間にいても困るだけだ。従来なら従うのが正しいのだろうが……。
「いや、まってよ。そんなこと突然言われても……って」
はじめから存在しなかったかのように老婆は姿を消している。何度か呼んでみたが音沙汰はなく、以降は姿を現さない。アレッシアの妄想の産物ではなさそうだけど、人間とも思えず頭を抱えたが……やがて、諦めて指し示された方角に向かって、再び歩を進めた。素直に言うことを聞いたのは理由がある。何処へ行けばいいのかわからなかったのもあるが、なにより三百六十度、見渡しても景色が代わり映えしなかったせいだ。指し示された方向を誤ると、進むべき方角を見失う。怖いのは間違った道へ進み、ここを抜け出せなくなることだ。
はっきり言って、踊らされてばかりで気分は良くない。
言うことを聞くのは癪だったが、困ったことにアレッシアの頭のどこかが、下手に彷徨うなとも警告している。ここで彷徨っては戻れなくなる――そんなわけもない予感に、不承不承ながら歩を進めた。
「どうしよう。みんな心配してるし、私、どこに向かってるの?」
答えがもたらされたのは、息が切れるくらい歩き続けた先だった。
太陽光を反射する海の輝きが増し、目を開けていられなくなるくらいの眩しさになる。片腕で両目を庇い続けながら、それでも歩くのを止めなかった先で、アレッシアの耳は音を拾った。
「神々を疑う者が神の仲間入りを果たそうとするとは、傲慢にも程がある」
…………どこか既視感のある台詞。
忘れがたい美貌を持つ男の声は、まだ本能にこびり付いている。
それはそうだ、時間にしたって、アレッシアにしてみればつい昨日の話。彼女は主神たる神の腕に抱かれていて、間近で宣言するのを聞いていた。
「――トリュファイナ!」
叫んだ。
頭が理解するより先に身体は動いている。目はまだ見えていないが、両腕で力いっぱい男をはね除け、着地と共に飛び出した。視力が回復したとき、視界一杯に飛び込むのは驚くマルマーの巫女の美しいかんばせだ。
飛び込むように抱きつき、勢いと共に彼女の身体を押した。アレッシアに倒されるトリュファイナは、彼女自身が非力だったのもあり、後ろへ大きく退くことになった。
「何をするのよ!」と叫ぶ前に、先ほどまで彼女がいた場所に何かが降ってくる。それはところどころひび割れているが肌色をしており、人の足の形をしていた。地面を揺らすほどの質量が襲い、トリュファイナはその場に立ち尽くしていたら、潰されていた事実に気付いて顔から血の気を引かせる。
一方でアレッシアは、トリュファイナを押し倒した後、背後で巨大な音を聞いた。無理な体勢から後ろを振り返れば、あのとき、人を踏み潰した質量が消え去る瞬間を視界に捉える。
戻ってきた!
二度目となっては、もはや戸惑いはしない。間違いなく、神々への謁見を行った日の出来事だ。上階に多数の神々、招集された他の女神の候補者達と……なぜかトリュファイナが殺される直前に戻れたらしい。彼女を助けられたことに胸をなで下ろしたい気分だったが、感慨に浸る時間はない。
何故なら消え行く巨大な足の向こうに、神がいる。
美貌の青年。主神マグナリス=ソルが驚愕に目を見張って彼女達を見つめているのだ。
アレッシアは学んでいる。ことここに及んで、一度助けた程度でトリュファイナの命を見逃してもらえるとは思わない。
トリュファイナの改心はできていない。母親は見つけられなかった。踏み潰しが発生したということは、彼女の意思を変えられなかった。アレッシアは中途半端で戻ってきてしまった──。
ないない尽くしで泣きたくなる。しかし後悔している時間は非ず、次にアレッシアが取った行動は、トリュファイナの後頭部に腕を伸ばすことだった。
――どう生きる、どう生かす?
考える暇はない。考えるより先に身体が動いている。
「えっ、な、なに――!?」
火事場の馬鹿力というやつだ。彼女の頭を引き寄せ、前のめりに倒して額から地面に押しつける。勢い余って聞くだけでも痛い音が響いたが、構っている余裕はない。
アレッシアも頭を下げたが、こちらも距離の推測を見誤って額をぶつける。目がチカチカとして星が飛ぶが、そんなのは後回しだ。
二人で主神に向かって、ほとんど土下座の勢いで頭を下げる。
「すみませんでした!!!」
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