第27話 巻き戻し、あるいは

マグナリスはあからさまに不機……でもなかったが、それを助長したのは運命の女神の態度だ。彼女はマグナリスの問いを、露骨に呆れた様子で首を振る。冷笑であったが、この女神の人らしい部分を初めて目撃したのである。


「何度も呼ぶから何事かと思っていましたが、そのようなことに拘っていたのですか」

「私を相手にそのようなこと、とはいい度胸だ」

「事実を述べているのです。貴方は常々万物を見通すと自ら声にしていながら、大事なことはなにひとつわかっていない」


 神々を束ねる存在を前に、堂々と言ってのけるではないか。十二柱にも数えられない神なのに、物怖じしない態度には、アレッシア以外の人間は身を震わせる。神々においてはまたか、とも言いたげな者、露骨に顔を顰めたりと様々だ。マグナリスにおいては明らかに目元を険しくさせている。

 大神を前に、運命の女神はさらに続けた。


「私は常々、運命とは決定されたものではなく、常に変動してゆくものである、と告げている。我が神託もまた然りと、何度も口にしていたはずです」

「それでもお前は過去において様々な偉業や反逆を宣託してみせた。外したのは今回が初めてだ」


 これを聞いていた運命の女神は、心底呆れた様子で首を振った。


「貴方のことだから、神々を前にした神託の間違いを、どう償うのかと聞いているのでしょうが……その傲慢、なんと度しがたい」


 大神を前になんて傲慢な態度だろう。神官長ソフィアの顔色は、青色を通り越して真っ白になっている。マグナリスの横に座る、大地の女神ヘレネは「またか」とでも言いたげだったから、この二柱の仲は、神々にとって周知の事実なのかもしれなかった。

 真顔になり行くマグナリスを、運命の女神は真正面から見返す。

 

「世界とは得てしてそのように作られている。ニルンこの世界が貴方のものではないように、私のものではない。私はただ、時の織り神として、そのときの運命を告げるだけ。我が預言は、時織りの副次的権能であると、もうお忘れですか」

「忘れてはいない。それでも神々を前にした大言壮語を違えるとは何事だ」

「ならば喜びなさい、マグナリス」


 運命の女神は、朗々と言い返した。

 マグナリスの不機嫌は増す一方だが、運命の女神はやはり変わらない。


「貴方がやるべきことは、神託の間違いを追及することではない。我が神託を違えるに至った人の子の誕生を尊ぶことではありませんか」

「それを決めるのはお前ではない、神々を統べるこの私だ」


 この二柱の主張はどこまでも違えるらしい。運命の女神もそれがわかっているのか、聞き分けのない子どもと話しているように言いきかせている節がある、とアレッシアは感じるも、ただ楽観的に眺めているだけはできない。

 なぜなら肝心のアレッシアがマグナリスの言う五人目だからだ。トリュファイナが神託を告げていたように、あの時、あの場において乱入したのはアレッシアに他ならず、他の誰かが該当するとは思えない。マグナリスはいまだ不機嫌なままだし、固唾を呑み、両手を握りマグナリスの御座を見上げていたら、目が合ってしまう。

 するとどうだろう。先ほどまではなにも感じなかったのに、言葉では言い表せないほどの畏怖が全身を襲う。存在そのものが心に響く力強さを感じてしまい、たしかにこれは人ではないのだと思わせるには充分だ。

 目を合わせられなくなって、ぎゅっと目をつむる。

 もっと率直に言えば恐怖がアレッシアを襲ったのだ。戦神ロフと対峙したときだってここまで恐ろしくはなかったのに、いまのアレッシアには言葉ひとつ発するのがままならない。

 ただ視線が交差しただけなのに、自分が小さな虫になった錯覚に陥った。

こわい、と涙さえ滲ませていると、足が突然浮き上がる。

 驚いて目を開けると、世界すら羨むような美貌が眼前にあったのだ。身を切るような強大な恐怖が潜められていた。

 主神マグナリスがアレッシアを片手で抱き上げ、指で涙を拭っていた。


「どういうおつもりですか」

 

 運命の女神の問いにマグナリスは答える。


「どういうもなにも、お前の失態に対する、私自らの帳尻合わせだ」

「不要です。四人が五人になったところで試練は変わらない。成すべきことを成すだけです」

「言っただろう。それは私が決めることであり、お前が決めることではない。運命の女神の後継候補は四人である、と他ならぬお前の声で、私たちに宣託された。それは守られるべき声だ」

「……マグナリス」


 運命の女神は、初めて不快感を隠そうともせず大神を咎めた。アレッシアもまた、自らが置かれた状況に目を白黒させている。護役に救いを求めてみたが、当然ながらルドやリベルトには手出しができない。彼らも困惑を隠せないのだ。

 神々の御座から声が降った。


「……あなた」


 底冷えするような声は、主神の妻たる大地の女神のものだ。マグナリスは苦笑しながら彼女に手を振る。


「違う違う。子どもに手を出すほど、私は見境無しではないよ」

「ではその娘が年頃の娘になれば?」


 妻の問いに、マグナリスは答えない。

 代わりに笑顔で運命の女神に向き合い、こう言った。


「みたところ候補者の中でも、この娘だけが著しく能力に欠けていた」


 トリュファイナやディオゲネスにも言われていたが、主神にまでばっさりである。

 

「実力も、名声も伴わない落ちこぼれだ。お前の不始末はこの娘で決着をつけてやろうかと思っていたけど、この娘はなかなかどうして、私に対する畏敬と、美しいものを正しく見分ける審美眼を備えている」

「マグナリス。貴方は……」

「それにこの娘はお前にとって特別だ。それを手折るほど、私は無慈悲じゃない」


 言葉の意味を理解しかねるも、マグナリスは人間の疑問など意に介さない。ただ明らかに様子の変わった運命の女神に対しては、すっかり機嫌を取り戻している。

 空いた片手を目の前にかざして指を鳴らした。


「だからこうして帳尻を合わせるのはどうだ」


 何かが起こったようには見えなかった。

 マグナリスが一体なにをしたのか考えあぐねていると、後ろの方で何かが倒れる。

 抱きかかえられたまま首を向けると、二人の女性が床に伏して倒れていた。

 え? と声をあげたのはアレッシアではない。

 自らの護役達からじわじわと血が流れる様を、トリュファイナが呆然と見つめている。

 彼女の反応に満足したのはマグナリスだけだった。


「ことを理解できていないお前のために、私がわざわざ説明するとだな。これは五人目として誰を減らす、という話になる」


 誰に話しかけたのか、名を呼ばずともトリュファイナがゆっくりと振り返る。目に恐怖を一杯に溜めて、口を半開きにしながら、一歩下がってニルンこの世界の神を見た。

 乙女のおびえはマグナリスも承知している。それをあえて、この神は言いきかせるように喋った。


「私も精査したのだが、巫女でありながら神々に不審を抱き、不満ばかりを漏らす愚か者がいるじゃないか」

「……わ、わたくし、は」

「言っていたろう? 昔から、たくさんの不平不満を声にして神々を疑った。マルマーにいたときからのお前の声を、私の鷲たちはいつも耳を澄ませてきいていたとも」


 思いだしたのは、神殿に到着した折、外を飛んでいた鷲たちだ。

 ……なぜ、とアレッシアは思った。

 なぜ、運命の女神はなにも言わないのだろう。

 神官長ソフィアは諦めた様子で目を閉じるのだろう。

 ディオゲネスは憐れみをもってトリュファイナを見るのだろう。

 その答えを、ニルンこの世界を統べる神が告げた。


「神々を疑う者が神の仲間入りを果たそうとするとは、傲慢にも程がある」


 トリュファイナは反射的に膝をついた。きっと慈悲を乞うためであり、アレッシアさえも理解した。

 しかしマグナリスは、乙女の喉が音を発するのを許さなかった。

 地響きのような音と、肉と骨が砕ける酷い音は同時だった。強大ななにかの……ヒビだらけの足が降ってきて、地面を叩くと、すぐに消えた。

 消えた後に残っていたのは、トリュファイナだったものの残骸だ。

 上から思い切り押しつぶされて、命絶えてしまった、十七才の乙女。彼女が備えていた美貌は無残にも面影ひとつ残していない。

 アレッシアははじめ、なにが起こったか理解できず、脳もまた理解を拒んだ。

 何故そうしたのかは彼女自身もわかり得ない。ただ、反射的に手を伸ばそうとして、その手をマグナリスに押さえられる。いい子いい子と幼子にするように頭を撫でられた。


「これで人数合わせは完了だ。うん、堂々と女神の後継を名乗るといい」


 とても良いことをした、と言わんばかりに微笑んでいる。傲慢すらもおこがましい、まさに世界の中心は己だと、心底疑っていない神の姿だ。真実、アレッシアのためにもなったと信じており、同じように問いかけている。

 そうかもしれない。

 トリュファイナは嫌なことを言う女の子だった。好きかどうかで問われたら、微妙な線。友達とも言えないし、ただの顔見知りとしか言いようはない。

 ない、けれど。

 ……でも、トリュファイナは、こんな風に無残に殺されるだけの行いをしたのだろうか。

 彼女はただ、己の境遇を、不安を神に当てつけただけではなかったか。

 縋れるものが神しかいないのだから、嘆きもまた身近な神に向かってしまった。それを殺されたのは、仕方ないと言っても良いのか。

 そんなのは、同じようにあっけなく殺されてしまった、前の自分と変わらない。

 疑問が胸をかすめる。

 こんなのは認めたくない。認めてはならない。純粋無垢に良い行いをしたと信じる、主神マグナリス=ソルの目を見たとき、彼女は心から「嫌だ」と思った。

 その瞬間だ。

 アレッシアは青空の中に、ひとりだけで立っていた。

 あるのは空と海だけ。大陸はどこにもなくて、神も、人も、音もなにもない世界。そんなものを彼女は視た……ような気がしている。

 気がしている、となったのは記憶が曖昧なためだ。

 覚えているのは、ひたすら走ったこと。無我夢中になり、声にならない声をあげながら、わけもない衝動に突き動かされ手足を動かした。

 青は段々と色を失せ、白に変わる。

 眩しいくらいの、目を開けていられない眩さに視界が満たされたとき、アレッシアの目に飛び込む世界が再び変わった。




 

 それはいつかみた、ルドがアレッシアとトリュファイナを連れて行った、街道の休憩所。

 あの日と変わらない、あの時のままの景色、空の色と――。

 怒りを露わにして、背中から大剣を抜こうとしているルドがいる。


「そんな親切なことをしてやるつもりはしない。俺が貴様に手を上げる前に、さっさと迎えに来させろと言っている」

「あっそ。……その様子じゃ、神々の管理する土地外でなにが起こってるか知ってるくせに、無駄に忠誠を捧げてるのね」

 

 対する相手は、トリュファイナ。彼女を街で見かけて助けるも、事情を聞く間に彼女がルドを怒らせた。二人はそのときと同じ会話をしている。

 他にいるのはアレッシアだけで、神々の姿はどこにもない。

 口元を押さえた。

 この状況に目を向ける余裕はない。

 遅れてこみ上げてくる胃の内容物たちは、ついさっき、無残な姿を晒した彼女の姿が脳裏に蘇っているためである。

 耳鳴りが酷い。頭が痛い。

 最初にアレッシアの異常に気付いたのはトリュファイナだった。怪訝そうな彼女の反応に、遅れてルドも振り返り、顔色の悪いアレッシアに怒気を引っ込める。


「アレッシア、どうした。なにがあった」

 

 肩を掴まれ、ほんの少し揺れただけだが駄目だった。

 こみ上げる吐き気に負け、胃の中身をすべて吐きだした。

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