第20話 目を背けてはいけない
帰宅したばかりで疲れているが、この様子ではいい加減アレッシアもイリアディスとストラトス家の使用人だけに任せるのは難しい。
なぜなら一度はルドが彼をどうにかしようとしたのだ。しかしイリアディスが仲介に入り、怪しい人物とは関わり合いにならないと約束させたからこそ据え置きとされた。
アレッシアとしても「女神の試練」に挑むからにはストラトス家のこれ以上の過ちは無視できない。否、本音を言えば、邪魔にならないならヴァンゲリスの行動だって黙認するつもりだった。それが個人の自由意思だし、彼らと円滑に物事を進めるならそれが一番良い。これがアレッシアの前身となった現代人としての生き方だったし、いまもその考えは少なからず根付いている。
同居する仲でもプライバシーは必要だ、と思っていたのだ。
けれどいざライバルと接触してみるとどうだ、女神の候補者といえど自らはただの子供で、肩書き以外はそれこそ役立たず。どんな試練が行われるかも不明なのに、打ちひしがれている中で見つけたのが、このぶら下がったヴァンゲリスだ。
――これ以上彼に任せていて良いのか。
トリュファイナに騙されただけでなく、イリアディスにストラトス家を任せきりで、悪い人を引き寄せそうな情けない人。
ライバルが男達に襲われ、ルドが躊躇いなく人へ暴力を振るうのを見、なにより自らも頬を殴られたことで自覚した。
いつか、目の前で戦神に“前の自分”を殺されて、あれほどの慟哭を吐いていながらやっとだ。
知覚できる痛みを受け、初めて甘えていたのだと知った。
情けない自分に打ちひしがれていたのは、無力感以外にも、あれからどこか楽観的に物事を捉えていた自身に対してもだ。二人の護役を与えられ、ストラトス家に温かく迎えてもらって、ほんの少しでもいい気になっていなかったと誰が保証できる。
“前の自分”の仇を討つと決めたはずなのに、一刺しで“前の自分”を殺した戦神を土下座させるには必死さが不足している。
もっとしっかり地盤を固めねば、いつか足を掬われる。
ヴァンゲリスの人柄を思ったとき、疲労を押して執務室へ足を向けた。
少女の登場にはイリアディスに、執事のパパリズも表情を緩めたが、当主の名を出せば渋い表情になる。
どうして彼は再び酒場に行ったのか、理由を聞けばイリアディスはわからない、と首を振った。
「賭け事とか借金じゃないんだよね」
「違うはずよ。あれからお金の管理はあたしがしてるし……それにね、彼、本当は元々賭け事なんて好きじゃないの」
「イリアがそう言うなら信じるけど、そもそもヴァンってなんであんな風にお金づかいが荒いの? 私にもやたら買い与えようとして、使用人さんに怒られてる」
「……それは、おじさまとおばさまが亡くなって、心のより所がなくなったから、お金を消費することで心の隙間を埋めているんじゃないかと思うんだけど」
まただ、と思う。
ヴァンゲリスについて尋ねると、イリアディスの瞳は暗く落ち込む。
婚約者の醜態だからか、思い溜息が吐いていた。
「たしかに彼は領地運営が下手よ。当主を継いでから収入は減ったけど、でも無駄遣いを減らせばやっていけるだけの収入はあるのよ。あたしの家からだって援助してるし、充分なお小遣いだってあげてる。わざわざあんなところに行く必要ないのに……」
「逆にお金を貸してるとかはないの?」
「前はそれもあったんだけど、返ってくる気配がなかったから止めさせたし、そもそも手持ちがないはず。アレッシア、彼の問題は、あたしが……」
「ごめん。酒場に出入りするところは私もみたんだ。ヴァンはイリアと二度としないって約束してたでしょ。だけどその後の動向を見てると、後見人として頼りにして良いのか不安になってる」
どちらかといえば、酒場への出入りは真剣になって顔を合わせ、憂うほどの案件ではない。いまとなってはトリュファイナの口車に乗ってしまったのは仕方ないと考えるが、婚約者に頼り切りになっているのに、結局改善する見込みがない現状が問題なのだ。
イリアディスは落ち込んだが、返す言葉はなかったらしい。しゅん、と肩を落とす姿に罪悪感を覚えながら護役に振り返った。
「ルド、ヴァンが誰に会おうとしていたかは見なかった?」
「すまんが、そこまでは見ていない。合流する前に殴った」
アレッシアは誤魔化されたが、実際は主との繋がりを断たれたことに焦ったため、ひとまずヴァンゲリスを止めようと手を出したのが原因だ。しかしそれを言えば少女が落ち込むので、ルドはあえて黙りを決め込んでいる。そのくらいならばこの人狼でも察してやることが可能だった。
しかし借金や賭博でないなら、ヴァンゲリスは何をしに酒場へ向かっていたのだろう。
議論しても埒は明かず、やはりこういった問題は本人に口を割らせるのが一番だ。
この時にはリベルトも戻ってきたので事情を説明したのだが、なぜか喉を震わせ笑った。彼は顔を隠したがる傾向があるから表情は読み取れないが、瞳は緩やかに和んでいる。
「言いたいことがあるならちゃんと言ってほしいな」
「すまない、別に君を笑ったわけではないよ」
なにがおかしいのかは、アレッシアにはさっぱりわからない。
「従僕として提言しておく必要があると思ってね。君の今後に関わる話だから、今回は私も介入する必要があると思う。だから口を割らせたいならとても簡単な方法があるが、君は私を使うつもりはあるかな?」
ルドが顔を顰めた。パパリズもわずかながら反応を示し、毛髪に埋もれた獣の耳をひそかに傾けている。
「……使うって、例えばどんな風に?」
「どんなでもさ。君が望むならいくらでも、迅速に、あるいは時間をかけてゆっくりと洗いざらい吐かせられる」
「危ないことする?」
「危ない、が誰にかかるかの定義によるだろう」
「ヴァンが」
「だとしたら、そうだ、と答えよう。彼はいくら人より丈夫でも、不死ではないからね。たとえば神の御業がないかぎり、失った四肢は取り戻せない」
「リベルト、お前、ここで言うべき場面ではないぞ」
「相棒、アレッシアの意思に従うのも大事だが、試練のために場を整えておくのも我々の仕事ではないかな。……それにね、彼は一向に改心する気配がない。いい加減私も黙っている気はなかったよ」
イリアディスがぎょっと腰を浮かせるも、アレッシアの返答は早かった。
「いらない」
ぷい、と顔を背ければイリアディスが胸をなで下ろす。ルドが相棒に咎める視線を送ったが、彼は穏やかな笑みを称え肩をすくめるだけだ。
少女はストラトス家当主を解放すべく立ち上がったが、そこで振り返った。
「リベルト。次からそういう試し行動禁止ね」
「気に障ったかな?」
「うん、嫌いになるからやめて」
「わかった。二度と言わないと誓うよ」
果たして本当に理解しているのかもわからないが、少女に向けた言葉は真摯だった。
一方でアレッシアはリベルトへの苦手意識が芽生えて行くのを自覚するのだが、いまはそれよりも足元を固めたい。
ルドがヴァンゲリスを引きずるのだが、リベルトが小さな個室に誘導した。
一部屋に六人が入れば狭苦しいが、内緒話をするならこのくらいが丁度良い。
唯一の出入り口をルドが塞ぎ、リベルトによって縄が切られる。青年は解放されたが、その表情はこれから訪れる詰問に備え警戒していた。
真向かいに座るのはアレッシアだ。
正直、目上相手に説教じみたことなんてやりたくないが、これは避けられない問題だ。なぜなら先ほど、さりげなくこの尋問をイリアディスに譲ろうとしたところで、リベルトに止められたのだ。彼は目だけで語った。
「君がやらなきゃ駄目だ」と。
それで悟った。アレッシアが「聞く」と決めた時点で、とっくにこの問題は彼女に移った。嫌な役目でもやらねばならない、そのためにまず、プライバシーなんて言葉を上手く使って目を背けていたヴァンゲリスの問題に向き合え、と。
はっきりと言われてはいないが、心を見透かされた気がして奥歯を噛んでいた。
イリアディスも今回の醜態はどう対処したら良いのかわからないのか、怒りに身を任せてばかりはいられないようで悲しげに瞳を揺らめかせている。パパリズが無言で全員分の飲み物を用意したが、ルドとリベルトには動作のみで断られていた。
「ごめんヴァン、酒場に出入りするのは私もみてたよ」
この一言に相手はがっかりと肩を落とした。
「肩を落としたいのはイリアディスの方だと思う。あと、ストラトス家の人達」
「……けっこう言うね」
「だってもうしないって約束破ってるもん」
「……だね」
「なんであんな所に行ったの?」
言いたくないのか、ヴァンゲリスは口を噤む。ヴァン、と語気を強めれば気まずそうに視線を逸らすのだが、行き先がないのか床を見つめている。
いい年をした大人の態度ではないが、大人だからって潔く格好良い人間性を獲得するわけではない。これは孤児院でカリトンや神官長等と接し、ストラトス家に来てから感じるのだが、いくら年月を重ねていようと、その人を育む環境や時の流れが一定なら成長しようがない。
そもそも年相応の振る舞いは、見た目にも左右されるのではないかと考え始めている。
アレッシアとて"前の自分"は会社を通し社会性を身につけたからこそ、大人の自覚を経た。大人になろうと思ってなったわけではなく、いつの間にか年を取っていた、それだけだ。二百年以上生きていようと『すごい』わけではないんだなと、ある意味失礼な思考だが……そう考えている。
「ヴァン、私ね、お世話になった期間は短いけど、ストラトス家が好きなんだよ」
“前の自分”だったらなんて説得していただろう。ぼんやりとした記憶はあるのに、個人情報がほとんど頭にないからまるで参考にならない。
「だからね、イリアが悲しいのも、ヴァンが苦しんでるのも嫌なんだよ」
「苦しんでる?」
「苦しくないの? 笑って誤魔化してるけど、ずっと辛そうにしてるじゃない。イリアのことも、見てるみたいでまともに見てない」
ヴァンゲリスとイリアディスは大概が喧嘩ばかりだ。それもヴァンゲリスが醜態を晒し、イリアディスが怒ってが定番だったけれど、アレッシアは気付いている。他の者が考えているよりは、少女は周りを深く観察している。
「……そうかい」
「うん。……イリアに席外してもらう?」
返答はかなり時間がかかった。迷いは長く、時折逃げ切れないかも模索しているかのように窓や扉を見る。いずれも護役達の存在を認めると諦めるのだが、その姿は酷く諦めが悪い。
「……やっぱりこんな当主だと後見人を変えたいって思うかな」
まだそこまでは至っていない。口を開こうとしたが、すかさず割り込む者がいた。
「はじめに彼女の存在を忘れて醜態を晒した時点で、私はすでに後見替えを検討していたよ」
「リベルト、いまはやめろ」
「だが真実だろう、ルド。君もまた同意していた」
そこで初めて護役たちの考えを知った。
だがいまはアレッシアにもらった時間だ。リベルトには黙るよう言いつける。予想はしていたのだろうが、やはり家の鞍替え発言は堪えたらしい。ほとんど泣き出す寸前だが、自業自得とあってか奥歯を噛みしめるに留めている。
やはり婚約者がいると答えにくいのだろうか。イリアディスには席を外してもらうよう頼んだが、彼女を制したのはストラトス家の執事だ。
羊の角を持った彼女は人間とは少し違う存在であり、なにより生まれながらの長命種だ。先代からヴァンゲリスの面倒を見ているのもあって、彼の両親と同等の愛情を注いでいる――とこの時の彼女の様子で感じたのである。
「お坊ちゃま。いい加減、ご自身の想いを先延ばしにするのは難しくございませんか」
この言葉にヴァンゲリスは信じられないと言わんばかりに目を見開き、くしゃりと顔を歪め、そして俯いた。
困惑するのはアレッシアとイリアディスなのだが、ここにのんびりとした声が耳朶を打つ。
「ああ、ではやはり……」
リベルトだ。さっき黙るよう命じたばかりなのに、主に任せてはくれないらしい。
「あの噂は間違いじゃなかったのか。七十年ほど前にストラトス家を追放された長男アイオロスの事件。
彼が神々への反抗の意思を示し、その告発を行ったのが君だという話は」
リベルト、ともう一度叱咤した。
もちろん知らなかったし驚いている。彼の話す内容は半分も頭に入りきっていないが、それでも止められずにいられなかったのは、アイオロス、の名前を聞いたヴァンゲリスが仮面を被るのを止めたせいだ。
ただただ疲れ果てた、見たこともない青年がそこにいた。
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