第35話

「すみません。お話の途中だったのに」


 主治医は、気の弱そうな垂れ目を細めて頭を下げた。


「いえ、いいんです……」

「ヨシノさんに、無茶なお願いでもされましたか?」


 まさか聞かれていたのかと身構えたが、主治医はくたびれた笑みを浮かべていた。


「僕はヨシノさんに振り回されてばかりで。彼女だけでなく、看護婦のみなさんにもよく叱られます。きっとこの後もこってり絞られます」


 困ったように頬を掻き、主治医が首を傾げる。


「ええっと……お名前を訊いても?」

「ベルカです」


 主治医は瞬きして、それから微笑んだ。


「かわいい名前ですね。よく似合ってます。僕はハルゼイといいます。ベルカさんは、旅人ですか?」

「そうです」

「ひょっとして、列車でエゾに渡るおつもりですか?」

「はい。本当は、今日乗るつもりだったんですけど、乗りそびれてしまって」

「なるほど、それで……」


 ハルゼイ医師が頷く。


「ヨシノさんの病室からは、あのターミナルがよく見えるんです」


 埠頭のように海に突き出した一本だけのターミナルを、俺は思い出す。たしかに、背の高い建物からは、あそこはよく見えるだろう。


「病室にいるとき、ヨシノさんはよく外を眺めています。あのターミナルもお気に入りだと、以前教えてもらいました。きっと今日はベルカさんを見つけて、慌てて抜け出したんでしょうね」


 この医師は、どうしてターミナルがヨシノのお気に入りなのか、知っているのだろうか。

 どうしてターミナルにいたベルカに会うために、彼女が病室を抜け出したのか、その訳を知っているのだろうか。


「ヨシノは、あとどれくらい生きられるんですか」


 ベルカのストレートな質問に、ハルゼイは面食らっていた。


「……患者の個人情報なので、僕からは──」


 ハルゼイが息を呑んで黙り込んだ。ベルカの、睨み付けるような視線に気圧されて。


「お願いします」


 視線をベルカから逸らし、ハルゼイは降参とばかりに溜息をつく。


「……はっきりとは言えません。ただし、彼女は末期です。現に、ヨシノさんは消化器系が侵されてしまっています。今は点滴で何とかなりますが、これが呼吸器や循環器系に転移すれば、長くは保たないでしょう」


 どうしてこう、医者が口にする「長くは保たない」という言葉は厄介な重みを持つのだろうか。

 はっきり言って、俺たちとヨシノの関係など赤の他人に毛が生えたようなものだ。たかだか小一時間会って話しただけの関係だ。

 それなのに、ヨシノの主治医が口にした「長く保たない」という言葉は、その程度の関係を、それ以上の物のように思わせてしまう。 

 矛先を見失った苛立ちが、ふつふつと湧いて俺の毛並みを逆立てる。


「治療法は、ないんですか」


 眼鏡の奥で、ハルゼイが目を伏せる。


「……侵された臓器をすべて取り替えれば、ひょっとすれば。ですが、それができる医療技術は、ここにはありません」


 どこか言い訳めいた言葉に、また苛立ちが募る。

 俺も、ベルカも、ハルゼイも、黙り込んでテーブルに残された冷めた紅茶のカップを見つめた。


「彼女から、エゾに行く手伝いをお願いされませんでしたか?」


 唐突にハルゼイが会話の舵を切った。


「……いいえ」


 ベルカの否定に、俺は少なからず驚かされた。たしかにヨシノは「エゾに行きたい」わけではない。

 しかし、そんな細かい点をこの医師は確認したいわけではないだろうし、ベルカもそれは承知の上だろう。


 ベルカがヨシノを庇う嘘をついたことが、俺には驚きだった。


 ハルゼイは表情を変えず、静かにベルカを見つめていた。やがてゆっくりと口を開く。


「僕は、ヨシノさんの主治医です。自分の患者を奪われるわけにはいきません」


 眼鏡の奥で、気弱な瞳がベルカを射貫く。


「たとえ彼女の望みでも。ヨシノさんを、あなたに渡すわけにはいきません」


 彼の声には、怯えの色が混じっていた。


「エゾ……大学へ行った方が、ヨシノの治療の可能性はあるんじゃないんですか?」


 ベルカが睨み返す。ハルゼイが奥歯を噛む音が聞こえる。


「彼女はこちら側の人間です。旅人のベルカさんとは違います」

「そんなこと、関係ないじゃないですか」

「あるんですよ。少なくとも僕には」


 ハルゼイは吐き捨てるように言って、ベルカから目を背けた。

 ターミナルを出発する列車の汽笛が、カフェの窓ガラスをかすかに震わせた。

 再びハルゼイがベルカを睨み付ける。彼の動悸が激しくなるのを感じる。彼が怯えているのが、俺には分かった。


「ベルカさんの瞳……」


 上ずった声で、ハルゼイが言った。


「その虹彩のパターン。人造生命に特有のものですね」

「っ!?」


 警戒心よりも驚きが勝った。


「……ぼくのこと、通報するつもりですか?」

「いいえ」


 ハルゼイは首を振る。


「ただ、僕はあなたの正体を知っている。そのことを伝えておいただけです」

「どうしてそんなこと」


 ベルカの問いに被せるように、ハルゼイが口を開いた。


「僕は、大学からの亡命者です」





「僕はエゾで有名な、義体技師でした。人工臓器や、電脳、義体を患者のために用意して、調整し、移植を行う。それが僕の仕事でした。


 エゾで、僕は多くの人を延命させました。でも僕が担当した患者には、病気の人はほとんどいませんでした。多くが、自分の資産を子や孫に分け与えたくないから寿命を延ばしてくれとせがむ金持ち連中です。まあ、おかげでとても儲かりました。


 言うまでもないことですが、義体化手術や人工臓器移植にはお金がかかります。お金のない人が、それでも治療のためそれらを使おうとすれば、莫大な借金をするしかありません。中には、自分の身体の一部を担保にして、人工臓器を手に入れる人もいました。


 そんな人たちが借金の返済に窮すると、取立人がやって来ます。「腕を一本寄越せ」「腎臓を寄越せ」「肺を寄越せ」と詰め寄るんです。


 ひどい場合では、自分の子どもを担保にするんです。天然臓器の培養装置として、子どもを作って、売り飛ばすんです。彼らが生み出す「天然臓器」は闇で高値で売れます。僕の所へ来る患者には、それらを好んで使う金持ちもいました。


 僕の家は代々医者で、客のほとんどは金持ち連中でした。昔はそれが当たり前だと思っていたんです。自分も医者を継いで、親が決めた相手と結婚して。社会の底辺で自分の身体を切り売りする連中と、自分は違う世界の存在なんだと見下して。


 でも……。


 返済不履行者の腕や臓器を切り落とすたび、天然臓器の培養装置として育てられた子どもから臓器を抜き取るたび、それを金持ちの身体に移し変えるたび、僕の中で人を愛する気持ちが産声を上げ、直後に絞め殺されていくのを感じました。


 こんなことなら、エンジニアを目指せばよかった。僕がやっていたことは中古

車ディーラーと同じでした。廃車からパーツを取って、別の車に組み込み、高く売る。


 …………だから、


 仕事も家も婚約者も、何もかも置き去りにして、僕はここへ逃げてきたんです」

 

 長い一人語りを終え、ハルゼイはソファに深く沈み込んだ。


「だから僕は、ヨシノさんをエゾに行かせるわけには行かないのです。大学からの亡命者の患者が、エゾへ亡命した。そんなことになれば、真っ先に僕が手引きしたと疑われる。せっかく手に入れた教会での立場を、危うくするわけにはいかないんです」


「……そんなことのために、ヨシノを見殺しにするんですか」

「「そんなこと」? ええ、ベルカさんにしてみれば「そんなこと」でしょう。でも、僕にとっては、生きるか死ぬかの問題です」

「ヨシノの命は、どうでもいいって言うんですか? あなたの「人を愛する気持ち」は、その程度のものなんですか?」


 ベルカの追及に、ハルゼイは答えなかった。懐中時計で時間をたしかめ、胸ポケットから煙草を取り出し火を点ける。

 長々と煙を吸い込み、溜息とともに吐き出す。


「僕について教えたのは、僕なりの誠意です。ヨシノさんにこれ以上関わらなければ、ベルカさんの正体について言いふらすつもりはありません」


 吐き出した煙に、医者の顔がぼやける。


「エゾには、ベルカさん一人で行ってください」

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