第34話

 街で一番豪華なホテルに併設されたカフェの、おあつらえ向きの個室で俺たちと少女は向かい合っていた。

 少女が注文した紅茶が二つとアップルパイが一つ、テーブルに並んでいる。


「とりあえずどうぞ。けっこう美味しいよ」


 上機嫌な口調で少女が勧める。ベルカがおずおずと紅茶のカップに手を伸ばす。


「ヨシノ」

 少女が言った。

「わたしの名前。よろしくね」


 自分は紅茶に手を付けないまま、少女──ヨシノが名乗った。


「ぼくは、ベルカ……あの、これって」

「ここはわたしが奢るから、気にしないで」

「そうじゃなくて」


 ベルカの否定に、ヨシノが「ん?」と楽しげに片眉を上げる。


「何が目的?」

「パイもどうぞ。この街の特産なんだ、リンゴ」


 噛み合わない会話に溜息をつき、ベルカはフォークを手に取る。


「どう、美味しいでしょ」

「……うん」


 さくさくしたパイ生地とリンゴの甘さを感じながら、ベルカは時折ヨシノに視線を送る。物言いたげな視線をものともせず、パイを囓るベルカを楽しげに見つめている。

 パイが半分ほどになったころ、ヨシノが口を開いた。


「わたしね、あの列車に乗りたいの。ベルカにはそれを手伝ってもらう」


 ベルカのカップがソーサーの上で音を立てた。


「それは──」

「断れば、ベルカのことを警邏局けいらきょくに通報する」

 ▽なんだ、こいつ……


 ただただ困惑するベルカに、ヨシノは頬杖をついて勝ち誇った笑みを浮かべている。


「ヨシノは、エゾに行きたいの?」

「違う」


 ヨシノはきっぱりと否定した。


「わたしは、あの列車に乗りたいの。別にエゾに行きたいってワケじゃない。この街から出て、どこでもない場所に行きたいだけ」

「どう違うの……?」


 湯気の少なくなった紅茶のカップを脇にどけ、ヨシノが身を乗り出す。


「わたしにとって、列車は自由の象徴なんだ。駅から列車に乗るだけで、どこにでもいける。プラットホームに並ぶ列車を見て、どれに乗ろうって目移りする気持ち。旅人なら、分かるよね?」

「だったら、ヨシノも旅行に行けばいいじゃないか」


 ヨシノが首を横に振る。


「他の列車じゃない。あの列車に乗るの」


 頑とした意志が、退路を断った者の決意が、そこにはあった。


「そうでなきゃ、ベルカを脅迫する理由がないでしょ。この街の、教会側の人間が、おいそれとあの列車に乗れると思って? わたし一人じゃ、あの列車にはどうやっても乗れない。だから、協力しなさい」


 なんだこの娘は。


 ▽いくら何でも強引すぎるだろ。なあベルカ。


 同意を求めたベルカはしかし、うんともすんとも言わなかった。心ここにあらずといった顔で、焦点のずれた視線をヨシノに向けていた。


 ▽ベルカ?


 俺の呼びかけにベルカが目を瞬く。ヨシノをまじまじと見つめて、ベルカは問うた。


「列車に乗って、ヨシノはどうしたいの?」


 ベルカの問いに、ヨシノはよくぞ聞いてくれたとばかりに唇の端を持ち上げた。


「ベルカにはもう一つ、やってもらいたいことがあるの。むしろ、そっちが本命」


 ヨシノが更に身を乗り出す。光の加減で青みがかって見える瞳が、朱に染まった青ざめた頬が、すぐ目の前に迫る。


 大事な秘密を打ち明けるときのように、ヨシノはベルカの耳元で囁いた。


「列車の中で、わたしを喰い殺して」 




  * * *





 人造生命という、人間によく似ていながら全く異なる存在を消し去るための戦争は、それ以前の戦争がいかに「節度ある」ものだったのか人類に思い知らせた。


 核・生物・化学兵器の乱用。快適な我が家に突如現れたゴキブリに過剰なまでに殺虫剤を振りかけるかのように、大量破壊兵器の引き金を軽くさせた。


 そんなわけで、生命戦争は後世に数え切れないほどの厄災を残した。


 『大戦病』と呼ばれる多臓器不全症候群も、その一つ。


 大戦病は、突然変異したウィルスと特定の遺伝形質が合致することで発症する。

 患者は母体内で感染し、出生時には既に発症している。多くの場合、二十歳を前に末期を迎え、死に至る。


 大戦病の有効な治療法は確立されていない。致死率は百パーセントだが、感染力は低く、患者そのものが少ない。

 戦時中こそ猛威を振るったが、生命戦争が停戦となると急激に患者数は減少した。他にも無数の新病が生まれた時代、患者が少ない病気は研究の優先順位から外された。


 それでも、大戦病の患者がゼロになったわけではない。

 つまり、そういうことなのだ。


「わたしはもうすぐ死ぬの。もう、消化器系は駄目になってるんだ」


 いっさい手を付けられることなく冷めきった紅茶を前に、ヨシノの表情は静かだった。


「だから──」

「だから、ぼくに殺してくれって言うの……」

「そうだよ」


 さも当然のことのように、ヨシノは頷く。


「わたしはね、この街では、病院のベッドの上では死にたくない。じわじわと自分が腐っていくのを感じながら、何も出来ずに死んでいくのは嫌なんだ。だから、最期は自分で終わらせようって決めた。あとは、どこで、どんな方法で、が問題だった」


 ベルカを見つめる眼差しは、柔らかかった。


「わたしはあの列車というやつが好きなんだ。あれに乗れば、どこにでも行ける。自由の象徴だよ。でも、どこか別の街というのもちょっと違う。どこか一カ所に縛られるのは嫌なんだ。どこでもない場所で死にたい。だったら、列車の中が一番だと思わない?」


 楽しげに、ヨシノが語る。端から見れば、二人は旅行の計画を立てる学生のように見えることだろう。


「それに!」


 ヨシノがトーンを上げる。


「旅の人造妖精に喰われて死ぬのって、一等上等だと思わない? だって、わたしが死んでも、その命でベルカが生きて、旅を続けるわけでしょ。死んだ後で旅が出来るなんて、最高じゃない」


 期待に胸を膨らませながら、というのはまさにこういうことを言うのだろう。ヨシノの瞳は微かに潤んで、まるで恋する乙女だった。


「ね、どうかな?」


 ベルカと俺は、呆気にとられていた。


「どうって、言われても……」

「嫌なの?」


 戸惑うベルカに、ヨシノが眉間にシワを寄せる。


「嫌とか、嫌じゃないとか、そういうことじゃ……」

「ねえベルカ。あなた人造妖精なんだよね? 人造妖精は人を喰い殺さないと生きていけないんでしょ? だったら、目の前に「どうぞ食べてください」って人間がいるのに、どうして悩むの?」

「そんな簡単に言わないで」

「簡単だよ」


 ヨシノはベルカから目を逸らさず、きっぱりと言い切った。


「たとえ人殺しだろうと、それをすれば生きていけるのなら、そうするべきなんだ。曲げることのできない生き方から目を背けるなんて、どうかしてる」

「勝手なこと、言わないでよ……っ」 


 俺がベルカと出会ったときと、今の状況は酷似しているようで、決定的に違う。


 『自分はもうすぐ死ぬからいっそ殺して欲しい』と願う人間は、ベルカにとってありがたい存在だ。

 だがしかし、一見健康に見える五体満足な人間が目を輝かせて「どうぞわたしを食べてください」と言い寄ってくるのは望んでいない。


 崖から落ちて死にかけていた俺のように、戦場で助かる見込みのない傷を受けた兵士のように、死がすぐそこまで迫っているのが明白な外傷を負った人間でないと、ベルカが感じる罪悪感を軽くすることはできない。


 医者から見れば、ヨシノは死に瀕しているのだろう。戦場で銃弾に倒れた兵士や、崖から転落した旅人と同じレベルで。


 でも俺たちは医者じゃない。大事なのは見た目なのだ。こんなに生き生きと瞳を輝かせる少女を喰えば、ベルカは間違いなく心を犯されてしまう。


 この少女は危険だ。


 ▽ベルカ、議論する必要なんてない。嫌だったらここから逃げ出せばいい。


 そう言う俺を、ベルカはそっと撫でた。まだ、ここから立ち去るつもりはない。彼女の指先はそう語っていた。

 なら、ベルカの意志を尊重する。


 ▽……分かった。無理はするなよ。


 静かに深呼吸して、ベルカが口を開く。


「……ヨシノは、生きる努力を諦めてる。どうして病気だからって死ななきゃいけないの? 病気の人間は、生きていちゃいけないの?」


 『病気の人間は、生きていてはいけないのか』という問いは、ベルカにとって「人造妖精は、生きていてはいけないのか」という問いに等しく思えたのだろう。だからこそ、認めるわけにはいかなかった。

 唇を噛むベルカに、ヨシノは出来の悪い子供を見るような視線を向けていた。


「桜はね、短命なんだ」


 突然、ヨシノが言った。


「ソメイヨシノ──わたしと同じ名前の桜は、寿命が六十年くらいしかないんだ」


 ベルカは目を丸くして、ヨシノの声に耳を傾けている。そんなベルカの顔に、彼女は目を細める。


「でもそれで、桜が悲しむと思う? 自分は短命で哀れな存在だって、嘆くとでも思う?」


 青ざめた頬を紅潮させ、ヨシノがベルカを睨む。


「馬鹿にするな」


 ヨシノが吐き捨てる。


「わたしは一度だって、病気の人間は生きてちゃいけない、なんて思ったことはない。病人は周りに迷惑をかけるからさっさと死んだ方がいい、みたいな理由でわたしが死のうとしていると思ったのなら、ベルカ、それはわたしに対する侮辱だ」


 墨のように黒い髪を震わせ、ヨシノは低く、静かに言った。


「わたしが生きるのはわたしのため。わたしが死ぬのはわたしのため。あの人たちのためじゃない」


 その言葉に、ベルカがはっと顔を上げる。まるで思いがけない場所で知人に出会ったかのように、ヨシノを見つめる鉄錆色の瞳が見開かれていく。


「……──シュトレルカ」


 ▽……え?


 ベルカの口から零れ落ちた名前に、俺は妙な胸騒ぎを覚える。そのときベルカは、ここではないどこか遠くを見ていた。


「わたしは、この街の人間が大嫌い」


 不意に、ヨシノが言った。


「わたしが大戦病患者だと知ると、あいつらは二言目には「頑張って」とか「辛いのに偉いね」とか言ってくる。わたしはただ生きているだけで、なにも褒められるようなことはしてないのに」


 冷え切っていたヨシノの声に、熱がこもっていく。


「わたしは生まれたときから大戦病患者で、生まれたときから「お前は二十歳前に苦しんで死ぬ」って教え込まれて育ってきた。だから、骨が折れやすいのも、固形物が食べられなくなることも、髪の毛が抜けて爪が剥がれることも、内臓が溶けて肉が腐っていくことも全部、わたしにしてみれば当たり前の人生なんだよ」


 ヨシノが己の胸に手を当てる。


「わたしはふつうに生きているだけなのに、奴らは「頑張ったね」だの「偉い」だの、まるでわたしが生きているだけで精一杯で、それ以外のことはなんにもできないみたいな言い方。ほんとに腹が立つ」


 胸に当てたヨシノの手がきつく握られる。忌々しい存在を握りつぶすように、服の布地に指が食いこむ。


「この街には、大戦病の患者がわたし以外にもう一人いた。その子が死んだとき、知らない人たちから山ほどお見舞いや励ましの手紙が来た。新聞にも載って、千羽鶴が病室に収まりきらないほど届いた」


 ヨシノは押し殺した静かな声で淡々と語った。


「わたしたちの生き死にで、見ず知らずの人たちが一喜一憂することが本当に、ほんっとうに不愉快だった。わたしはお前たちに「お涙頂戴の感動劇」を提供するために生きてるんじゃない。だれもわたしを見るな、聞くな、興味を持つな。気持ち悪いんだよ!」


 すべてを吐き出したように、彼女はしばらく黙り込んだ。そして唐突に言い放った。


「ほんとはね、わたしは爆弾魔になるつもりだった」


 ベルカも俺も、一瞬虚を突かれた。


「駅の広場とか、人がたくさん集まるところで演説会をするの。大戦病について多くの人に知ってもらいたい、とか適当な理由をでっち上げてね。きっとたくさん人が集まる。百人か、二百人か。ひょっとしたらもっと集まるかも」


 ヨシノは瞳をギラつかせ、息も荒く頬を朱く染めて語った。


「演説会の会場で、わたしは自爆する。爆弾の作り方も勉強した。案外簡単なんだよ、爆薬を造るのって。たくさん人を巻き添えに殺せるように、クギとかもいっぱい詰める。その爆弾で、わたしの話でお目々をウルウルさせる予定だった奴らを全員挽肉に変えてやる。なんのためにこんなことをするって? この「儀式」で、わたしのことを「可哀想な病人」と思い込んでいた連中の頬をはり飛ばしてやるため。わたしはお前らが勝手に想像していたような人間じゃないって思い知らせてやるために、一生忘れられないくらいの、トラウマ級の花火を咲かせて散ってやるの」


 きっと、ヨシノの目にははっきりとその様子が見えているのだろう。現実から焦点を逸らした瞳が、すっと冷えてベルカを見つめた。


「でも、もうそんなことどうでもいい。だって、ベルカがいるもの。どうでもいい連中と一緒に壁の染みになるより、ベルカに食べてもらった方がずぅっと綺麗で清々しい」


 そう言って、ヨシノは微笑んだ。ガキの頃の俺なら、一発で恋に落ちてしまうような、そんな笑顔だった。

 その笑顔のまま、ヨシノは言う。


「もしベルカが断るのなら、やっぱり爆弾魔になるから」


 途端に、ベルカの目に熱が宿った。


「だめ!」

「そ。じゃあ決まりだね」

「え……ちょ、ちょっと待って!」


 立ち上がったベルカに、ヨシノは腕組みをしたまま首を振る。


「残念だけど、時間切れ」


 窓の外を見やっていたヨシノが、つまらなそうな顔で呟いた。数人の足音が近づいてくるのを俺は感知する。


 ▽人が来る。帽子かぶれ。


 ベルカがさっとニットを被る。同時に個室の扉が開かれた。


「見つけましたよヨシノさん! ああ良かった! 心配したんですよ」


 白衣の上からコートを羽織った看護婦が、疲労した顔に安堵を滲ませ駆け込んできた。目尻には涙まで浮かんでいる。


「さ、戻りますよ。もし風邪でも引いたらどうするんです!」

「外に出たくらいで風邪なんて引かないでしょ?」

「そんなこと言って! みんながあなたのことをどれだけ心配しているか、少しは自覚して身体を大事にしてください……」


 看護婦の言葉に、ヨシノの表情がほんの一瞬、しかし猛烈な嫌悪に歪むのを俺は見逃さなかった。


「はいはい。分かったよ……じゃあね、ベルカ。またよろしく」


 次のお茶の約束をするように呆気なく、ヨシノはそれだけ言うと手を振って出て行ってしまった。小言を撒き散らす看護婦をあしらうヨシノの声が遠ざかっていく。

 取り残された俺たちは、しばし言葉もなく開け放たれたままの扉を見つめ続けた。


 その扉を、閉める手が現れた。


「すこし、いいですか?」


 仕立てのいい三つ揃いの背広を着た、小綺麗な印象の四十歳くらいの男だった。

 縁の丸い眼鏡の奥で、気弱そうな垂れ目がこちらを見つめている。

 ベルカの答えを待たず、男はヨシノが座っていた場所に腰を下ろした。ベストのポケットから伸びる懐中時計のチェーンが小さな音を立てる。


「あなたは……?」


 一応、ベルカが訊ねる。消毒液の匂いがする男の正体など、解りきっていたが。


「僕は、ヨシノさんの主治医です」

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