第30話

 深松女学院までは、路面電車に揺られて二十分ほどだった。盆地の縁に沿ったなだらかな坂の途中に校舎は建っていて、見下ろせば街の様子が一望できた。

 校舎は落ち着いた赤煉瓦造りの、いかにもお嬢様学校といった佇まいだ。

 正門前を何食わぬ顔で通り過ぎ、校舎裏の路地に入ったところで、俺は素早く周囲を索敵する。


 ▽周辺に人はいない。今だ。


 俺の合図で、ベルカが跳ぶ。人間離れした身体能力で柵を乗り越え、そのまま植木の枝の中に飛び込んだ。

 猫のように枝に乗って、ベルカが訊ねる。


「どこか入れそうな場所はある?」

 ▽少し待て……


 走査範囲を拡大、校舎のおおまかな見取り図を作成し、拾えた限りの生体反応をマッピングしていく。出来上がったグラフをベルカの視界に転送した。


 ▽この教室、生徒がいないな。

「使ってない教室?」

 ▽いや、両隣の教室は使っている。並びの真ん中だけ空き教室ってことはないだろ。ってことは……


 走査範囲を敷地全体に拡大。すると、校舎に隣接する大きな平屋建てにいくつも生体反応を見つけた。

 意識を集中し、拾い集めた反響音と微弱な振動から、建物内の様子を再現する。


 ▽ビンゴ。薙刀とはまた古風だな。


 建物は武道場だった。広い板張りの屋内で、少女たちが袴姿で薙刀の稽古中だった。


 ▽ベルカ、更衣室に侵入、制服を手に入れるぞ。

「……」

 ▽どうした?

「予備の制服のほうがいいんじゃない?」

 ▽予備なんて、あったとしても新品だ。在学生に化けるってのに、折り目の付いた新品を着てたら怪しいだろ。それに、どこにあるとも知れない制服探して校舎内をうろつくわけにもいくまい。


 ベルカは一瞬黙り込んで、それからぶっきらぼうに言った。


「更衣室の中では、ユーリは目をつぶっててね」

 ▽?……なんで。

「なんでも」

 ▽無茶言うなよ。瞼もないってのに。


 俺の文句に、ベルカは頬を膨らませる。


「ユーリのえっち」

 ▽はあ? そんなこと言ったら、お前の着替えなんて毎日見てるだろ。

「それとこれとは別」

 ▽そうなのか?

「そうなの。」




 結局俺は手出しせず、ベルカは自分の力で更衣室に侵入して制服を入手した。

 丁度いいサイズを見つけ、ベルカがコートを脱ぐ。ブラウスにジャンパースカート、リボンタイとジャケットと、手際よく身にまとっていく。

 最後に、ベルカがやや大きめを選んだ帽子を申し訳なさそうに被った。


「ちょっと狭いけど、ごめんね」

 ▽気にするな。帽子ぐらいじゃスキャンに影響ない。

「どう、かな?」


 そう言ってベルカは更衣室の鏡の前でくるりとターンする。


 ▽おお、似合ってる似合ってる。


 お世辞ではない。年頃の少女のために作られた制服だけあって、ベルカの容姿にすんなりと馴染んでいる。継ぎ接ぎだらけのミリタリーコートより、よっぽど似合っていた。


 ▽せっかくだから、この国にいる間はそれ着てたらどうだ?

「だめだよ、使い終わったら返さなきゃ」


 そう言いながらも、ベルカは鏡に映る自分の姿に頬を緩めている。 

 教師の声とチョークが黒板を叩く音が微かに響くほかは、更衣室は静まりかえっている。買い物を楽しむ年頃の少女のように鏡を覗き込むベルカを、俺はもう少しだけ眺めていたい誘惑にかられる。

 そんな下心を戒めるように、無遠慮なチャイムが教室に響いた。椅子が引かれる音、少女たちの声が廊下に溢れていく。


 ▽……さて、じゃあ行くか。




 堂々と校門から外に出た俺たちは、手始めに犯行現場となった住宅、つまり犯人の自宅を訪ねてみることにした。住所は過去の新聞記事を探せば簡単に分かった。

 住宅地の中にぽつんと、しかし異様な存在感を持ってその住宅は佇んでいた。

 住宅にはまだ父親が住んでいる。報復などを防ぐためか警官が配置されていた。だが、壁中いたるところ「天誅」「罪を償え」「人殺しは吊せ」といったビラや落書きであふれているのを見るに、どうやら形だけの警備らしい。

 黒い詰め襟を着た若い警官は、近づいてくるベルカを見て制帽の下で僅かに目を細めた。


 変装の小道具にと、河原で摘んだ花を持って、ベルカが「友達のためにお花を供えたいのですが」と儚げな口調で呟く。警官は苦い顔で「申し訳ないけど、関係者以外は敷地に入れてはいけない決まりなんだ」と説明した。

 目を伏せるベルカに、警官は素早く周囲に目をやり、「私が個人的に預かることはできる。それでも良かったら私が供えておこう」と囁いた。


 ▽まあいいさ。くれてやれよ。

「では、お願いします……」


 警官に花を手渡し、俺たちは現場となった住宅を離れる。警官がベルカから渡された花を手に、俺たちを、実際にはベルカをずっと見つめていた。

 角を曲がったところで、神妙な顔を保っていたベルカがくすっと吹き出した。


「ユーリ、やきもち?」

 ▽へっ。あからさまに鼻の下伸ばしやがって。




 新聞記事には犠牲になった女学生の自宅が犯人宅の近くであることも書いてあった。女学生に扮したベルカが道を尋ねれば、近隣の住民はあっさりと女学生の家を教えてくれた。

 女学生の自宅は、現場の住宅とほとんど同じ、ごくありふれた二階建ての木造住宅だった。

 呼び鈴を押すと、女学生の父親が俺たちを出迎えた。もともと痩せ形なのだろうが、頬の肉は落ちて、無精ひげが目立つ。ベルカの身に付けた制服に、死んだ娘を思い出すのかしばし目を伏せた。


 来意を告げると、父親は「わざわざありがとう」と頭を下げて俺たちを家に上げた。突然の訪問を不審がる様子はなく、ベルカが家の中でも帽子を取らないことにも、そもそも気付いていないのか何も言わない。


 俺たちは仏間に案内された。畳の上に、父親は娘の遺影に向かって座り込む。

 どうやら家には父親一人のようだ。訊けば母親は事件後体調を崩し、今は療養所にいるらしい。


 焼香し、ベルカは遺影に両手を合わせる。入学時に撮った写真なのだろう、少女が身に付けた制服には折り目が付いている。どことなく緊張した笑顔を浮かべていた。


「犯人の死刑が、今夜執行されますね」


 ベルカの言葉に、父親は応えない。胡座をかいた足の上に脱力した両手を置いて、娘の遺影を見つめている。


「あの……?」


 ベルカの呼びかけに、父親がベルカを振り返る。その動きは時間が引き延ばされたようにゆっくりで、父親のやつれた風貌と相まってひどく不安にさせられた。


「せっかく来てくれたのに、お茶も出せなくて申し訳ないね」


 父親はばつが悪そうに眉を寄せ、丁寧に頭を下げた。


「そんな、お気遣いなく」

「あの子の物以外、全部捨ててしまって」

 ▽……なんだって?

「それは、どういう……」

「食器をね、捨てたんだ。包丁や鍋も、全部」


 一体何を言っているんだ。ベルカも首を傾げている。


「あの子は、台所で殺されたんだ」


 さくり、と言葉が畳に刺さった。


「最初に包丁で刺された。次に、箸で目をえぐられた。茶碗で殴られ、鉄鍋で顔を潰された。割れたガラスのコップで腹を引き裂かれた。その場にあった食器や調理器具で、手当たり次第に」


 言葉は次々に溢れ出し、砕け散ったガラス片が降り注ぐように部屋を満たしていく。身じろぎ一つしただけで全身を切り裂かれる言葉に囲まれ、呼吸が要らないはずの俺が息苦しさを覚える。


「あの子の遺体を見てから、私には食器や調理器具が犯人の男に見えるようになった。だから捨てた、全部捨てた。粉々に割って、踏みつけて、燃やして、投げつけて」


 俯いたまま畳に唾を飛ばして叫ぶその声が、不意に止む。 


「あの子のものだけは、捨てられなかった」


 万力に締め上げられたかのようにいきり立っていた父親の肩が、すっと下がる。


「私はね、あの男を、あの子の遺品を使って殺してやりたいのです」


 父親は淡々と言った。あまりに淡々としすぎて、俺もベルカも、呆気にとられて固まっていた。


「我慢ならなかった、あの男の全てを同じようにしてやりたい、殴って刺して潰して引き裂いて。あの子が味わった苦痛全てを、いやそれ以上の苦しみをあの男に刻みつけて懺悔させて許しを請うても俺は許さない、絶対にあの男を、私は」


 この父親は、俺たちが持ちあぐねているもの――人間に対する殺意の刃を、素手で握り締めていた。


 恐ろしかった。

 誰かに対してはっきりと殺意を抱いている人間と一緒にいることが、これほどまでストレスになるとは知らなかった。一刻も早く、この食器のない家から逃げ出したかった。


 甘かった。ここに来るべきではなかった。もっとよく考えるべきだった。被害者遺族の憎悪を共有しようなどと、考えるべきではなかった。


 この家は海だ。目に見えない、言葉のガラス片で満たされた海だ。

 その中心で父親は娘の遺影を背負い、自らが吐き出した破片で血まみれになっている。


「……それも今日で意味を失います。そもそも、彼が逮捕された時点で、私に復讐の機会などなかった。初めから私は矛先のない怒りを抱え込むことが決まっていたのです」


 枯れ葉が擦れるような声を漏らすと、父親は暗い穴のような目でこちらを見つめた。


「それでも私はあの男を殺しに行くべきだと、思いますか?」

 ベルカが息を詰まらせる。答えることなどできない。視線を逸らすことも、身じろぎ一つすることもできない。


「……あの日、私はあの子を止めなかった。あの家にさえ行かなければ、今ここに居るのはあなたではなく、あの子なんです。私があの子を止めてさえいれば、あの子は、まだ……」


 父親の身体がぶるぶると震え出す。火に炙られたスルメのように身をよじる。顔面の筋肉が、誤作動を起こしたかのように激しく波打つ。 

 そして突然、それは糸を切られたようにぴたりと止んだ。

 うつむく父親に、俺は犯人の父親と同じ顔を見た。


「死んだんだ。あの子はもう、いないんだ。だから、私が何をしてもしなくても、あの子はもう喜びも怒りもしない」

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