第31話

 秋も半ばを過ぎ、日が暮れるのは早い。点灯夫がガス灯に火を入れて回るのを横目に、俺たちは川沿いの道を歩いていた。


 俺とベルカは、宿に向かっていた。盗んだ制服は着たままだ。返しに行かなくてはと思いながらも、そうする気力を俺たちはすっかり失っていた。

 会話は一切なかった。だが、俺たちは同じことを考えていた。


 俺たちはもう、犯人を喰い殺すことはできない。


 時間がないわけではない。今から刑場を襲撃することだって不可能じゃない。だが、問題はそこではなかった。

 川沿いの土手に、一本のクスノキが生えていた。その下に古い木のベンチが置いてある。ベルカはそこに腰を下ろした。時刻は午後五時ちょうどだった。


 死刑執行時刻は午後六時、辺りには金木犀の香りが漂っていた。

 ベルカと俺は、それから一時間、ベンチに座って暗い川を見つめ続けた。



 

 ガス灯が明るく感じられる頃、ベルカが立ち上がった。


 ▽帰るか。

「うん」


 土手を登って、道に戻る。

 俺はベルカに対する後ろめたさを、ずっと感じていた。今朝、死刑囚を標的にするとベルカが提案したときに、「よしわかった、今すぐ行ってさっさと喰い殺そう」と俺は答えるべきだったのだ。


 ……などと言うが、今朝の俺は逆立ちしたってそんなことはできなかっただろう。

 こんな差し迫った状況でなければ、今日の俺たちの行動は正しかったのかもしれない。だが、今朝に限って言えば、俺はベルカをけしかけるべきだったのだ。

 俺は、状況判断を誤った。だがそれでいて、どこかほっとしている自分もいる。それが後ろめたさをより複雑にする。


 道はいつしか、市街地に入っていた。大通りに人だかりができている。


「号外号外! 非道なる殺人者、ついに処刑される! 遺族の無念、ついに晴らされる!」


 号外を読む気にはならなかった。道行く人々が、晴れがましい表情で号外を広げている。

「いやぁこれで一安心」「これで女の子も浮かばれるわね」「当然の報いだざまぁ見ろ」と清々しく言い放ち、彼ら彼女らは夜の街へと消えていく。今日は週末だった。

 赤提灯をぶら下げた店から、笑い声が溢れてくる。

 彼らと同じように、「悪党をやっつけてスカッとする」程度の気持ちで、犯人を喰い殺せていれば、どれほど楽だったろうか。


 でも俺は、ベルカにそうはなって欲しくなかった。

 無性に腹が立った。彼らの熱しやすさ冷めやすさに。自分のせいでベルカを飢えさせてしまったことに。そしてどこか安堵している自分に。


 俺はずっと疑問に思っていて、あえて考えないようにしていたことを改めて思い出す。

 「被害者遺族の気持ちを考えろ」と言っていた人がいた。しかも、当の被害者遺族である犯人の父親に向かって。

 その人は、その発言に同意していた彼らは、どうなのだろう。彼らは被害者遺族の気持ちを理解していたのだろうか。


 実際に目にした女学生の父親の顔がよみがえる。後悔と諦めのどん底で、自らを切り裂き続ける気持ちなど理解できなかった。いや、理解したくなかった。だから逃げ出した。


 ガス灯を見上げ、俺はふと幼い頃によくやった影遊びを思い出す。


 光源との距離を変えると、手で造った影は大きくなり、ぼやけ、まるで化け物のように姿を変える。

 だが、それはあくまで影だ。どんなに恐ろしくても、実体とはほど遠い。


 拘置所に集まった人々が発散していた怒りや憎悪は、まさに影だ。

 考えてみれば当然だ。もし誰もが被害者遺族と同じ苦痛を理解すれば、悲惨な事件が起こる度に、人々の心はドロドロに濁っていくことになる。

 だが、実際はそうではない。


 でも、だからこそ、俺は不思議でならない。 

 さっきまで声高に犯人を非難していた人々はどこへ行ってしまったのか、と。

 いや、不思議でも何でもない。理由など解りきっている。

 彼らはただ、「いくらでも非難できる、どんな言葉でも投げつけていい人間」が現れたから、日々のストレス発散に大声を張り上げたに過ぎないんだ。

 その思考を非難することはできない。俺だって似たような経験はいくらでもある。


 彼らは、被害者の怒りに便乗しただけだったのだ。そして、俺たちはできなかった。そもそも自らの立ち位置を勘違いしていた。

 彼らは部外者だ。自分の家族が殺されたわけでもなければ、自分の手で犯人を殺すわけでもない。自分の手を汚さないことが解りきっているからこそ便乗できたのだ。


 でも俺たちは違う。俺たちは実際に人を殺す。

 彼らの憎悪を偽物だとは言わない。言うなれば刃の付いていない模造刀だ。たしかに武器の形をしているが、本当に人を斬り殺すためには造られていない。

 そんな憎悪を、人殺しという罪科に手を染めようとする俺たちが振りかざして何になるというのか。


 ベルカが今朝、「街の人たちが犯人を殺したがっていた」と口にしたとき感じた引っかかりを、俺はようやく言語化することができた。

 彼らは殺したがっていたわけじゃない。罰せられるの――もっと露骨に言えば、殺されるのを――を見たがっていただけだ。


 似ているようで、その二つには途方もなく距離がある。


 借り物の憎悪で「可害者」を作り上げようとする試みが、そもそも間違いだったのだ。

 だからどうしようもなく妬ましくて腹が立つ。


 興味をなくした人が捨てたのか、風に舞った号外がベルカの足に絡みついた。

 二人の父親の表情が再生される。万象記録素子が電子空間上でエミュレートする俺の表情筋も同じように硬直していく。

 怒りも悲しみも期待も何もかも奪われた、凍てついた表情に。


「ユーリ」

 ▽なんだ。

「ぼくはついさっきまで、街の人たちが一言、「殺人犯を殺してしまえ」と命じてくれたら、犯人を食い殺せるって思ってた。でも、今はそれがなんだか違うような気がするの」


 戸惑いを孕んだベルカの言葉はしかし、俺にとって降り積もった雪を溶かすひと筋の光に等しかった。


 ▽……ベルカがそう思ったのなら、それでいい。

「でも、ぼくはもともと誰かの命令で人を殺すように作られたんだよ?」


 縋るような、足下の砂が崩れていくことに怯えるような声だった。


 ▽確かに、そうかもしれない。でも、今は違う。お前に人殺しの命令をするやつはもういない。そんな奴らはとっくの昔にくたばった。


「だから、誰かが命令してくれないと、ぼくは」


 ▽罪悪感を誰かに転嫁できないって? 馬鹿言うな。命令されたからって罪悪感は無くならねぇよ。「上官の命令だから殺しました。仕方なかったんです」確かにそうさ。戦争じゃそうしないと自分が殺されるんだからな。でもな、だからって自分の罪悪感を誰かが綺麗さっぱり引き受けてくれるなんて都合の良いことがあるわけないだろ。そのときは命令を下した誰かに責任をなすり付けられても、時が経てば、命令者なんて曖昧な存在は消えてなくなる。後に残るのは、「どうしてあのときあんなことを……」っていう手に負えない疑問だけだ。


「じゃあ、一体ぼくにどうしろって言うの……!」


 地面を睨み、歯を食いしばり、ベルカが問う。突然声を上げて立ち止まったベルカに、通行人たちは眉をひそめ足早に通り過ぎていく。


 ▽簡単だ。責任の所在を他人に求めるな。自分の行動の主語は自分自身、一人称にしろ。俺が、ぼくが、私が、殺すんだ。なあベルカ、お前は死にたいか?


「嫌だ。死にたくない」


 即答だった。


 ▽俺もだ。俺はお前と一緒にもっと世界を見て回りたい。そのためには絶対に死ぬわけにはいかない。そして、俺たちにとって生きるってのは、誰かを殺すってことだ。

 ▽現に今、お前と俺が生きていられるのも、前回喰い殺した人間の命があるからだ、そうだろ?

「それは、そうだけど」


 ▽つまり俺たちにとって、自分の命は殺して奪った人の命だってことだ。俺たちは自分たちが生きたいがために身勝手に標的を選び、これから先ずっと続くはずだったその人の命を、たった百日ちょっとの燃料に変えて生きている。この行為は非難されて当然だ。だけど、どんなに非難されたって、俺たちが生きるためには必要だ。奪って自分のものにした命の分は、絶対に生き抜かなきゃならない。その責任がある。


 ▽身勝手に殺して奪った命に対して、俺たちは生き抜く責任がある。


 ▽なのに、その責任を負うべき当人が、「殺したのは誰かの命令だったから」なんて言い訳が、通じるとでも思っているのか。


 ついに、言ってしまった。ベルカを傷つけるんじゃないかと仕舞い込んでいた言葉を、俺は彼女にぶつけてしまっていた。


 立ち止まったまま、ベルカはしばらく黙っていた。かすかに膝が震えている。やがて、水面を揺らす小さなあぶくのような呻きを、ベルカが漏らす。


「でも、喰い殺すのはぼくだ。苦しいのはぼくだ。ユーリじゃない」


 ベルカのその言葉は、鋭い刃になって俺に突き刺さった。

 いつか言われてしまうのではないかと、恐れていた言葉だった。覚悟はしていたつもりだった。

 でもいざ言われてみると、そんな覚悟は薄っぺらなメッキみたいに剥がれ落ちて、なんの役にも立たなかった。


 後悔と、罪悪感で喉が詰まる。時間を巻き戻したい。全部、なかったことにしたい。

 だけど、ここで口籠もるわけにはいかない。


 ▽……ああそうさ。俺はお前の頭にくっ付いて、訳知り顔であれこれ口を出すだけの幽霊だ。実際に人を喰い殺すのも、その罪悪感をひっかぶるのも、全部お前一人だ。俺は結局一番近いところで傍観するしかできないさ、でもな。


 ▽傍観者だろうが口先だけの存在だろうが、お前を一番近いところで見ているのは俺なんだよ。だから、お前が楽な方向に流れて道を誤りそうだと気付ける。その先は崖だぞって注意できる。全部は気付けないさ。今回みたいに一緒になって流されることだってある。それでも、ギリギリで気付けた。命令者なんて曖昧な存在に頼ってちゃ、お前はいつか獣に堕ちる。そうはさせない。


 ▽だって、俺はお前のことが好きだからな。ベルカ。


 言い過ぎただろうか。でも、これは偽らざる俺の本音だ。でもやっぱり少し不安になる。


 ▽俺が何を言おうが、結局はただの気休めで、俺の自己満足で、クソの役にも立たん戯れ言さ。もしベルカを失望させたのなら、俺を消去したって──


「ユーリ、「それ」は怒るよ」


 冷たい刃のような一言に、俺は黙り込む。


「冗談でも、そんなこと言わないで。ぼくは、ユーリを殺したりしない。絶対に」


 卑小な予防線でベルカを傷つけたことを、心から恥じた。俺は、ベルカを一人ぼっちにしたくなくて、彼女と旅することを選んだって言うのに。


 ▽……すまん。

「もっとちゃんと謝って」

 ▽すみませんでした。

「何について?」

 ▽もう二度と、俺を消去しろなんて言いません。ごめんなさい。

「ほんとうに? ほんとうにもう言わない? 思ったりもしない?」

 ▽ああ、しないさ。だってさっき言っただろ、俺はお前のことがす──

「わかったからもう言わないで」


 そっぽを向いて口早にまくし立てるベルカに、俺は拍子抜けする。


 ▽なんだよ。照れてるのか。

「ちがう。ユーリがバカなこと言うから呆れてるの」

 ▽そうかい。


「そうだよ、ばか。」

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