#7「雪女」


 屋敷を後にする頃にはすっかり陽が落ちて、辺りは真っ暗闇になっていた。


 広い道に出ると、山道の脇に等間隔で設置された電灯が古いアスファルトを照らしている。


 俺はバスの時間が差し迫っているため、早歩きで坂道を下った。


 スマホで時間を確認し、さらに歩調を速めたとき――。


 不意に、ジー……というノイズが走り、金属を弾いたような音とともに電灯の明かりが落ちる。


 周囲が草木に覆われた山道は暗闇に閉ざされ、辺りを見回してもなにも見えやしなかった。


 風に草木が煽られ、葉擦れの音だけが聞こえてくる。


 俺は急いでスマホの懐中電灯で辺りを照らし――。


「ひッ……!?」


 声にならない声が漏れた。


 懐中電灯を点けた瞬間、ぎろりとした気味の悪い大きな目玉が眼前にあったのだ。


 ライトの明かりがの全貌を照らし出す。


 途端――全身に悪寒が走り抜け、俺は鳥肌に覆いつくされた。


 全長三メートルはありそうな巨躯。その全身にはいくつもの目玉が付いており、長い手足を器用に折りたたんで俺のすぐ目の前に佇んでいる。


 思わず尻もちをついて、そのまま動けなくなってしまった。


 その化け物はずりずりと巨体を引きずりながらこちらに近付いてくる。


 次第に俺の体に覆いかぶさるような状態になり、茫然としながらその巨体を見上げると、黒ずんだ瞳孔と視線がぶつかった。


 大きな瞳孔がぎろりと開く。


「アァア……メダマ、クレ……」


 ――ズキッ。


 突如、鈍器で後頭部をめいっぱい殴られたような痛みが押し寄せた。


 文字通り頭が割れそうになるほどの頭痛。視界が徐々にぼやけていき、同時に胃の底から苦い液体が押し上げてくる。


 心臓が早鐘を打ち、ぎゅうううと縮んでいくのが分かった。


 上手く息が吸えず、全身から血の気が引いていく。


 危機管理能力がけたたましいアラームを鳴らし、死が間近に迫っていることを報せていた。


 ――に、逃げないと……。


 それは本能的なシナプス伝達であった。


 俺は咄嗟に瞳孔が開いた目玉にライトを当てる。


 すると化け物は甲高い悲鳴を上げながら大きく仰け反った。


 鋭い爪で自身の目を掻きむしり、ドロドロの赤黒い血液が流れ出る。


 その隙に俺はなんとか立ち上がり、道路脇のガードレールを飛び越えて山の中に逃げ込んだ。


 木々の隙間を駆け抜けながら一瞬後ろを振り返ると、化け物が四足で地を駆け、木々をなぎ倒しながら追いかけてくる。


 ズキッ、と強い動悸が胸を締め付ける。


 あの化け物と目を合わせてから胸の動悸がおさまらず、すぐに酸欠になってしまった。


 それでも俺はひたすら地を這ってでも逃げ惑った。


 しかし、運に見放されたか……次第に崖際に追い詰められてしまう。


 足元の小石が崖の下に落ちていった。


 暗くて終わりの見えない急斜面。


 ここは完全に行き止まりだ。


 来た道を引き返そうにも、すでに化け物が近くまで迫っていた。


「こ、こっちに来るなッ……!」


 叫んだ瞬間、ズキッと心臓が握りつぶされるような感覚に襲われ、俺は地面に膝をついたまま大量の血を吐き出した。喉が焼けるように痛い。酸素が回っていないのか、頭がくらくらする。


 そのまま、俺は身動きが取れなくなってしまった。


 体にまったく力が入らないのだ。


 ぼやける視界。


 体を引きずりながら徐々に迫ってくる化け物の姿があった。


 やがて、眼前まで瞳孔が開ききった黒ずんだ目玉が近付いてくる。


 ――死ぬのか、こんなところで……。


 そう、なにもかも諦めてしまおうと思ったそのとき。



 季節外れの吹雪が、辺り一面を氷で覆いつくした。



 次に目を開けたとき、目の前にあった瞳が白く濁っている。


 何度か目を瞬かせて、再度目を開けると、化け物は氷漬けになっていたのだ。


 地面についた手の近くまで氷が広がり、周囲の植物が霜をまとっている。


 ふと、ひんやりとした冷気に首元を撫でられた。


「気を付けなさい、と忠告したはずよ?」


 声の方に意識を向けると、屋敷にいた少女――雪城ゆきしろ 雪那せつなの姿があった。


 しかし、さっき会った時とはまるで雰囲気が違う。


 表情は変わらず無表情のままだが、綺麗な黒髪が毛先まで色素が抜け落ちたように真っ白になっていたのだ。


 雪城は地面にへたり込む俺を見下ろすように一瞥し、深くため息を吐く。


 そして、軽く咳払いをしてから口を開いた。


「さっきの質問だけれど……」


 唐突にそう切り出され、俺はすぐに『彼女が冬にしか学校に来ない理由』のことだと察する。


 雪城は躊躇うような間を取ってから言った。


「見ての通りよ。私、だから夏場は外に出られないの。どう、これで納得した?」


 言いながら、雪城が氷漬けになった目玉の化け物に指先で触れると氷が砕け散る。


 はぁ? 雪女だから、だって……? そんなの意味わかんねぇよ……。


 あー、ダメだ。頭が全然回らない……。


 ああ、そうか。これは夢だ、全部夢だったんだ――。


「ちょっと、聞いているの?」


 ふと、体の力が抜けて俺は地面に倒れこんだ。


 すぐに雪城が駆け寄ってくるのが分かる。


 そして首元にひんやりとした手が触れた。


 だけど、どこか暖かい感じ……。


「妖気を体に吸ってしまったようね……」


 よ、ようき……? なんだよそれ。


 咳が出て、口の中に血の味が広がった。


 キーン、と耳鳴りがして音が遠ざかっていく。


 マジかよ……。俺、このまま死ぬのか?


 まだ、あの人にだって会えていないのに……。


 嫌だ……まだ、死にたくない――。


「大丈夫よ、安心しなさい。アナタを絶対に死なせはしないから」


 水の中みたいにほとんど聞き取れなかったが……凛として、それでいて優しい声だった。


 この声には聞き覚えがある。


 瞼の裏に一年前のクリスマスの出来事がフラッシュバックした。


 そういえば、あのときも彼女は優しい声で安心させてくれたな。


 かすかに目を開けると、白い髪の女性が上から覗き込んでいた。


 そのとき、カメラのピントがぴたと合ったみたいに記憶の中で靄のかかっていた彼女の顔が鮮明になる。


 ――あ、あの人に似てる……。


 彼女の背後に浮かぶ満月を見て、思えばあの日も同じ満月だったような気がした。

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雪女は雪解けの夢を見る。 更科 転 @amakusasion

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