第26話 進捗状況
遥がアパートに着いたのは夜の十時を過ぎた辺りだった。階段を登ると、何故か廊下に座り込む男の姿…、
「……凪人?」
名を呼ぶと、パッと顔を上げる。遥を見、一瞬顔をほころばせるも、次の瞬間、眉を寄せ、今にも胸倉を掴みそうな勢いでズンズンと詰め寄ってくる。
「遥さんっ、一体、今何時だと思ってるんですか!」
思春期の娘に詰め寄る母のようだな、と遥は思った。腕時計を見て答える。
「夜の十時二十分……だな」
遥の言葉を聞き、一瞬ぽかん、と口を開ける凪人。天を仰ぎ、明後日の方向を見て、ぼそりと呟く。
「……そうですか、十時……、」
急に凪人の勢いが、落ちる。おかしな顔で視線を泳がせる凪人を前に、今度は遥が詰め寄った。
「一体どうした? お前、変だぞ? もしかして具合でも悪いのか?」
そういえば触角に元気がない。顔色は青いからよくわからないが、病気かもしれない。
「熱は?」
スッと凪人の頬に手を伸ばす。凪人が変な顔になる。ああ、顔を赤くしているんだな、とわかる。青いけど、わかる。
「熱はない。しかし、精神状態が不安定なのは間違いなさそうだな…、これはやはり奈々の言う通りか……」
「へっ? あっ、な、」
急に遥に触れられたことで動揺を隠せない凪人。いや、そもそも遥が帰ってこないことで悶々としすぎて、おかしな行動を取ってしまったことを今やっと悔いているのだ。
(まだ、十時だった……まだ、十時……、)
なかなか帰らない遥を待ち続け、部屋を出たり入ったりしていた凪人の感覚的には、もうとっくに午前様のイメージだったのだ。
そもそも『人を待つ』ことなど今までほとんどない人生だった。こんなにも不安で、寂しくて、会いたくて仕方なくなるなんて知らない。帰ってきた遥を見た時の安堵感と、飛びつきたくなるような嬉しさ。そしてそれがどうしてイライラに変わったのか、まったく理解出来ない。
「あの、俺、ちょっとおかしい……、」
頭がグルグルする。
そんな凪人を見、遥が凪人の腕をとった。
「うにっ?」
腕に絡みついてくる遥を見、また凪人が変な声を出す。
「ちょっと、来い」
遥が部屋の鍵を開け、強引に凪人を部屋に押し込んだ。
「あ、あの、遥さん?」
「いいから、入れ!」
玄関で乱暴に靴を脱ぎ、ソファまで辿り着くと、肩をトンと押されそのままソファに沈み込む。目の前には仁王立ちの遥。腰を屈めると、そのまま顔を近付け…、
(え? キス?!)
思わずぎゅっと目を閉じる凪人の額に、トン、と当たるなにか。いい香りがふわりと漂い思わず目を開ける。そこには、目を閉じた遥の顔。おでこがくっついている。
プチッ
凪人の中で何かがキレる。そのまま遥の背中に手を伸ばし思い切り抱き締めっ、
「やはり熱はなさそうだ」
ぎゅっとする前に遥が離れたせいで、自分で自分を抱き締める結果になった凪人。その姿を見て
「寒いのかっ?」
遥が顔を覗き込んでくる。
「……いえ、あ、はいちょっと…心が」
脱力し、ソファに顔をうずめる凪人。
「今、なにか温かいものを淹れるから、待ってなさい」
そう言って遥がキッチンに向かった。
(ああああああああああ、)
穴があったら入りたいの境地に降り立ってしまった凪人なのである。
*****
温かいコーヒーを前に、大きく息を吐き出す。失態に続く失態。凪人は、今までの王子だった自分をまったく思い出せなくなっていた。いかなる時もスマートな立ち振る舞い。流れるように紡ぎ出される甘い言葉。隙のないオラオラ系イケメンだったはずなのに、今ではただの情けないヘタレ男……。
「ナーバスだな」
溜息をつく凪人を見て、遥。
「すみません」
素直に謝る凪人。
「今日のオーディションが上手くいかなかったのか?」
「いえ、そういうわけでは……、」
「じゃ、やはりホームシッ、」
「それも違います」
「そうか」
「……」
「……」
どちらともなく口を閉ざす。ただ、ゆっくりとコーヒーを流し込んでいるだけの時間。
チラリと視線を上げれば、そこには遥の顔がある。手を伸ばせば届く場所に、いる。ただそれだけのことで、どうしてこんなに安心するのか。凪人は心が穏やかに、落ち着いていくのを感じた。
「こんな風に、」
じっと遥を見つめる。
「ん?」
「サカキも、こんな風にアルロアを見つめていたのか?」
触れたい。
触れてはいけない。
そこにいてくれればいい。
もっと近くにきてほしい。
二つの事柄が背中合わせにピッタリとくっついて離れない。
そんな風に考え込んでいる凪人を前に、遥はまったく違うことを考えていた。
(オーディションのこと、そんなに気にしているのか)
自分が引き込んでしまったサカキ沼に嵌った凪人。サカキへの思いが募るあまり、頭の中はサカキでいっぱいになってしまったに違いない。(違う)
そんなときに舞い込んできた、映画の話。自分の好きなキャラクターがそこにあるのなら、自分が演じたいと思うのが、芸能人としては普通なのだろう。(そうでもない)
初めてのオーディション。緊張がマックスに達し、この話が出来る人間に話を聞いてほしかったに違いない。そんな日にたまたま自分の帰りが遅かったせいで、不安を募らせてしまったのだろう。(だいぶズレた)
(最初の頃の、自分に自信があるような振る舞いは、彼の硝子のハートを隠すための行為なのかもしれんな……、)
完全なる深読みである。
「凪人……こんなに(サカキに)夢中にさせて、すまなかったな」
「えっ?」
凪人が激しく目を瞬かせる。
「私も同じ(ようにサカキが好き)気持ちだから」
「えええっ?」
凪人の心拍数が爆上がる。
「遥……さん? あのっ」
「サカキへの愛を語りたくなったら、いつでも連絡しなさい!」
ドーンと胸を叩く遥を見、再度ソファに突っ伏した凪人なのであった。
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