#28 Rose
そういえば、レイネが一年間僕と暮らす中で、レイネに絵を一度も書かせてこなかった事を思い出した。いずれやらせようかなと頭の中で考えた時はあったけど、考えたっきりそれを実行に移す事はなかった。ここで思い出しておいて本当に良かった。もう二度と会えなくなるから。
ということで、僕はレイネに尋ねた。「絵を描くことに興味はないか」と。するとレイネは「かきたいってずっとおもってたけど、わたしはかいちゃいけないようなきがしてた」なんてことを言った。絵は自由なもので、誰がどんな絵を描いてもいいんだと思っていたけど、どうやら話を聞く限り、彼女は僕の絵に対するこだわりを強く感じるあまりに、絵描くのは難易度が高いものだと思い込んでしまっていた様だ。これは今まで僕が犯してきたやらかしの中で一番大きいと言えるかもしれない。なにせ、一年間絵の素晴らしさを背中で教えてきたはずが、それが誤解を生んでしまう結果になったのだから。
アトリエに二人、僕はレイネに相棒とも言える筆を渡して言った。彼女は少し緊張している様子だった。
「レイネ、僕はどうやら誤解を生んでしまっていたみたいなんだけど、絵っていうのは難しく考えなくていい。ただ自分の描きたいものを意のままに描けば、それでいいんだ。結局それが一番楽しくて、一番人の心を動かす。芸術ってのはそんなもんさ」
「わたし、なにがかきたいのかわからない」
筆を見つめて固まるレイネ。
「そうだな、今まで自分が見てきたもの、感じてきたものを思い出してごらん。その中で印象に残った何かが、自分の心と共鳴する感じがするんだ」
「きょうめい」
今、彼女の頭の中はどうなっているのだろう。こうアドバイスしようかな。「心の中に夜空を浮かべてみろ。頭上を覆い尽くす夜空の中に、輝く星がいくつもある。その中で一際輝く一番星。それが描きたいものだ」なんて、父さんみたいだな。
「ばら」
レイネは呟いた。溢れた言葉が地面に落ちないようにそっと僕はそれを掬い上げる。
「薔薇か。なるほどな。確か出会って一か月くらいした時に、僕が君に赤い薔薇の絵をあげた事があったよな。ま、あげたと言っても、いつもペントの籠の傍に置いてあるんだけどね」
「ばらをかきたい」
彼女が薔薇を描きたいと言い出したのは実に素晴らしい事だ。だけど一つだけ問題がある。それは、今の時期は薔薇の季節ではないという事。僕はレイネにこの問題を伝え、どうしたものかと考えたが、答えは彼女が素早く出してくれた。
「むかしくれたばらのえ、まねしてみる」
僕は「その手があったか」と言いかけたが、自分の頭の固さを露呈してしまうので言うのはやめた。レイネは揚げ足を取るような人じゃないけど、妙に恥ずかしかったし。
「いいアイディアだ。取ってくるから、レイネはそのエプロン付けて待ってて」
僕がレイネくらいの身長の時に使っていたベージュ色のエプロンは、元がベージュ色だとは分からない程にボロボロになっていたが、まだ使えるだろうと踏んで、昨晩必死に手入れした。
薔薇の絵を持ってアトリエへ戻ると、彼女は思った以上にエプロンを着こなしていた。どうやら僕に似たらしい。
「このえ、すき」
「照れるな」
「ほんとだもん」
さて、何から教えたらいいかな。好きに描いたらいいんだとは言ったものの、いきなり薔薇を描こうなんて流石に無茶だったかもしれない。ひとまず、父さんに教わったのと同じ様にやってみるか。
「レイネ、まずはね……」
人に何かを教えるのってすごく難しいことなんだって実感した。気が付けば、「あの」とか「えっと」とか、そんな言葉を多用していた。
レイネが僕の絵を描いている姿を見て色々吸収していたのかもしれないが、彼女の成長速度は驚くほど速かった。
レイネは生まれて初めて絵を描くなんて言っていたけど、本当は記憶がないだけで、あっちでも絵を描いていたんじゃないか……なんて、それはないかな。
そういえば、恐らく……いや間違いなく、レイネは僕の夢の中に何度も出てきた子だろう。彼女がなぜ僕の夢の中に出てきたのか、改めて訊いてみようと思う。昔こそ彼女は何を言っても記憶がなくて答えられなかったけど、今だったら答えられるかもしれないから。
「レイネ」
「なに?」
「やっぱりこれだけは訊きたいと思ってたんだけど、レイネはなんで、僕の夢の中に出てきたの?」
レイネは黙り込んで薔薇の絵を描き進めた。そして、その茎に纏った棘を描き終えた後、レイネは言った。
「こたえたくない。はずかしい」
レイネがなぜ恥ずかしいなんて思ったのか、それは、彼女が絵を描き終えた後も、結局分からなかった。
描き終わったその赤い赤い薔薇は、レイネの純粋さが溢れ出している様だった。
「すごいや、レイネ。初めてとは思えないよ」
僕はレイネを抱きしめた。後何回、こうやって触れていられるだろう。
「ちょっとはずかしい」
「君は急に恥ずかしがりになったな」
今日のレイネを見ていると、昔の僕みたいで、自分まで恥ずかしい気持ちになってしまった。
レイネは、僕の思いを、優しく抱きしめ返した。
君が月へ帰るまで、後二日、か。
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