第40話 変態紳士と強い母と狂犬の親玉と

 七月二十九日 午後二時十三分


 私は今、松永さんのご実家に来ている。


 今日は須藤さんと一緒に退院して療養をしている松永さんの見舞いに訪れた。

 松永さんは元気そうだ。須藤さんと違って。


 私たちは先にお線香を上げさせていただいた。

 お仏壇には制服姿の松永署長の遺影と、産まれたばかりの理志さとしさんを腕に抱き、幼い敦志あつしさんと松永さんが松永署長にまとわりつく写真がある。

 子煩悩で息子三人を甘やかしていたというのは本当だったのか。敦志さんと松永さんの甘えた顔が嘘ではないと示している。


 私の隣で、長袖のジャージを腕まくりする松永さんは座布団を当てずに正座している。なぜそのジャージを着ているのだろうか。


 松永さんのお母様にお会いするのは八年ぶりだ。

 八年前、私は玲緒奈さんの後輩として初めてご挨拶をした。場所は斎場でだった。


 松永さんとも斎場で初めてお会いした。

 憔悴しきった表情の松永さんは無理に笑顔を作ろうとしていた。

 私は事件当日、玲緒奈さんの子供を学校へ迎えに行き、松永さんのお父様が救急搬送された病院に送り届けたのだが、その件について松永さんは頭を下げた。


『加藤さんのお陰で父は孫に会えました。本当にありがとうございました』


 涙を堪え、唇をギュッと噛み締めて私に頭を下げた松永さんの記憶は今もある。

 あれから八年経った今、相澤が帰宅しなかったら危うくお父様の元へ行きそうだった松永さんは、須藤さんの姿を見て目を彷徨わせている。


 ――私も、直視出来ない。


「須藤くんは試合前なのかしら? 減量は大変ねえ」

「えっ、いえ、違います」

「あらそうなの?」


 松永さんのお母様は、長男の敦志さんと高校生の頃からの友達である須藤さんをボクシングの試合前だと誤認している。高校時代、ボクシング部だった須藤さんの記憶が色濃く残っているのだろう。


 ――お母様、須藤くんはやつれているだけです。げっそりと。


 お母様はお茶の準備をすると言い、席を外した。私もお手伝いすると申し出たが、ちらりと松永さんを見て、私の申し出を断った。


 ――さすが、警察官の妻だ。


 三人で仕事の話をしなくてはならない。

 来月の特別任務は松永さんの代わりに須藤さんが入る。その話があるのだ。


「本当に、申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけしています」

「いい。いいから頭を上げて」


 手を付き、頭を下げた松永さんはしょんぼり顔だ。私にも頭を下げた。やめてくれ。後が怖い。


「ところでさ、何で高校ジャージなの? すげー懐かしいんだけど」

「はい、あの……」


 松永さんは官舎に戻り、シャワーを浴びて部屋で寝ようと思ったが、あまりの疲労で部屋に辿り着けずに廊下で寝てしまったそうだ。

 疲労と睡眠不足により泥のように眠ってしまい、相澤が見つけた時には意識が混濁していたという。


「パンイチで救急搬送されて、退院する時の服が無くて母がこのジャージを持って来ました」


 相澤は救急隊員に松永さんの靴を持って来るように言われ、革靴を持って救急車に同乗したという。

 パンイチで革靴。とんだ変態紳士だ。


「俺のも実家にあるよ。帰ると出される」

「んふっ」

「お待たせしました」


 お母様がお茶の準備をして和室にいらした。

 立ち上がりお盆を受け取る松永さんとお母様は小声で話している。


 お盆に乗せられた飲み物と果物、菓子は三人分だった。


「ごゆっくり」


 そう言ってお母様は和室の扉を閉めた。



 ◇



 午後四時二十五分


 松永さんのご実家を辞し、須藤さんの私有車に乗り込んだ。日陰に停めたとはいえ、車内温度は上昇している。

 ここは松永さんのご実家の南面の土地だが、小さな戸建てと月極駐車場がある。車は戸建ての住人の駐車スペースに停めさせてもらった。


 四年前、この場所で放火殺人事件が起きた。

 一人住まいの五十代の女性が殺傷され、容疑者は持ち込んだガソリンを撒き、自らも腹を刺して火を付けた。

 臨場したのは相澤だった。

 当時別に住んでいた被害者の一人娘は松永さんと同級生で、家族ぐるみのお付き合いがあったそうだ。


 四年前は、松永さんが署で暴れ、玲緒奈さんは葉梨と制服をグーパンして鼻血ブー、そして敦志さんは大怪我を負った。


「四年前の松永家は大変でしたよね」

「あー、そうだね……あの、ふふっ、加藤はさ、玲緒奈さんが怖いものって知ってる?」

「そんなもの、この世にあるんですか?」


 車は走り出し、エアコンの冷たい風が車内温度を徐々に下げていた。

 須藤さんの横顔を見ると笑いを堪えている。


「玲緒奈さんはね、敦志のお母さんが怖いんだよ」

「えっ、でもいいお義母さまだと聞いてますけど」

「そうみたいね。玲緒奈さんを松永家の嫁じゃなくて、『よそのお宅で大切に育てられたお嬢さん』として接してるみたいね」

「ええ、そうだと聞いてます」


 玲緒奈さんが家族で敦志さんの実家に行くと、お義母さまは敦志さんをこき使い、玲緒奈さんは座ったままで、出される飲み物やお菓子、料理は玲緒奈さんが好きなものばかりだと言っていた。


「玲緒奈さんがグーパンかましたのをさ、なぜかおばさんは知ってたんだよ。敦志は黙ってたのに」

「それは……お義母さまも、情報網を持ってる、と?」

「うん。玲緒奈さんがグーパンして、おばさんに呼ばれてね、ガチギレされたんだって」


 おかしいとは思っていた。

 あの玲緒奈さんが、副署長に正座させられて説教食らった程度で反省するわけがないのだ。頭を下げながら舌を出すような女だ。副署長など秒で潰せる狂犬の親玉だ。


「お義母さまは、そんなに怖いんですか?」

「……うん、怖いよ」


 疲労と心労により、趣味のレース編みでギリギリ正気を保っている須藤さんは、何かを思い浮かべて見たことの無い顔をしている。大丈夫だろうか。


「俺さ、大学に行ってボクシングを続けようと思ってたんだけどね」


 須藤さんは大学進学を決めていたが、松永さんのお母さまのひと言で高卒で警察官になろうと決めたという。


「おばさんがさ、『ケンカふっかけられても、ボクシングしてると一般人相手に何も出来ないでしょ? それなら警察官になってみたら? 好きなだけ殴れるわよ?』って言ったんだよ」


 ――お母さま、警察官も殴れませんよ。


 だが私は思った。

 警察官は逮捕術を学ぶが、逮捕術は生け捕りにするためのものだ。そうだ、生け捕りだ。生きていれば、いい――。


 ――あながち、お母さまのセールストークも間違ってはいない。


「まあ俺もね、敦志と仲が良くてさ、敦志と会えなくなるのは嫌だなと思ってたから、敦志が警察官になるなら俺もって思ったんだよ」

「ふふふっ、いいですね、ずっと仲良くて」


 敦志さんとの思い出に頬を緩ませる須藤さんを眺めていたが、笑顔が消えた。どうしたのだろうか。


「玲緒奈さんがグーパンしてガチギレされた件で、俺は興味本位で調べた。おばさんの情報網をね」


 須藤さんは続けた。

 調べていくうちに、背後に迫る不穏な空気を感じたと。ある日、官舎に戻り施錠した瞬間に電話が鳴ったそうだ。電話に出た須藤さんの耳に届いたのは悪魔の囁き――。


『須藤くん。いろいろと調べているようだけど、もう手を引いた方が須藤くんのためよ』


「俺もさ、いろんな脅しは経験してるけど、おばさんの声は無理だった。しばらく寝れなかったよ」


 狂犬の親玉の親玉はお母さまなのか……。背筋が凍る。


「エアコン、温度上げてもいいですか?」

「うん」


 松永署長は子供を甘やかし、お母さまはすごく厳しかったとは聞いたことがある。

 だが応対して下さったお母さまは、柔和な笑顔で明るく朗らかな女性だ。客対応だから当たり前だが、そんな方には見えない。


「話は続きがある。玲緒奈さんは、腹立たしくても物理攻撃は止めろとおばさんに説教されて、精神的に追い込めって言われたんだって」

「…………」

「そこでおばさんの情報網の存在を、玲緒奈さんは初めて教えられた」


 松永署長の情報網と、警察官の妻としての情報網を持つお母さまは、敦志さん、玲緒奈さん、松永さんの三人に引き継いでるという。だが、その情報網の全貌を知ろうとしてはいけないと、各人に伝えてあるそうだ。


「それぞれの情報網を繋ぐものは、俺が引き継いでる」


 俺が警察官になったのも、全て仕組まれていたんだよ――。


「エアコン、温度上げてもいいですか?」

「……二十八度になっちゃうよ?」


 フロントガラスとサイドから差し込む日差しで体表は熱いが、私の体は凍りついていた。須藤さんは横目で私を見ている。だが視線を返すことが出来ない。


 しばらくすると、須藤さんは正面を向いたまま、私の名を呼んだ。そして――。


「俺がこの話をした意味を、考えろ」


 私も狂犬の親玉の親玉の支配下になったのか――。


 久しぶりに私は思った。

 警察官になるんじゃなかった、と。





 

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