第39話 お姉ちゃんと弟とレース編みと
七月二十三日 午後六時二十八分
梅雨が明けた。このまま秋になればいいのに。
駅近くの広場で私は人混みの中に弟の姿を探した。改札の向こう側に見える時計の下に弟の姿を見つけると、自然と笑みが溢れる。弟は私に気づくと笑顔を浮かべ手を振った。私も手を振り返す。だが視界の端に私服の葉梨がいる。
私は葉梨を見たが、ハンドサインは『仕事中』だった。声をかけてはいけない。
弟は私に駆け寄ってきた。
大学を卒業し、国税局に奉職した弟は税務大学校で二ヶ月ほどみっちり研修を受け、勤務が始まった。
弟は一回り下だ。
母に赤ちゃんが出来たと、奈緒ちゃんはお姉ちゃんになるんだよと言われた日を今でも覚えている。
「お姉ちゃんお待たせ」
「うん、スーツ姿、カッコいいね」
「んふふ……本当に?」
黒のスラックスにノーネクタイの半袖の白いワイシャツ、ショルダーバッグを斜めに掛けた弟は照れている。髪は短く切り揃えられ、少し痩せたのかも知れないが元気そうだ。
父によく似た目元には笑いジワがある。可愛いな。
実家のマロンは弟が飼いたいと言い出した。
高校生の時、犬の里親募集で生後四ヶ月のマロンを見つけ、『この子は絶対に賢い子だよ!』と言ってマロンを迎えたが、マロンのアホっぷりに両親は生暖かい目を弟に向けていた。
人生は想定外のことが起きる。奉職し、公僕として想定外のことが起きるだろう。だが警察官よりいくらかマシだ。頑張れ、弟。私はそう思った。
「お姉ちゃんね、スペインバルに予約取ったよ」
「どんなお店なの?」
「スペイン料理と酒の店」
私の目を見て少し首を傾げる弟には、言葉足らずは引き継がれていない。よかった。お姉ちゃんはそれだけで安心だ。
◇
駅の階段を下ると、ロータリーの一般車両の車列に公用車を見つけた。
――岡島の公用車だ。
車両には誰も乗っていない。
私たちは葉梨の前を通ってここまで来たが、岡島の姿は見えなかった。まあ、いいか。葉梨のサインは仕事中だったのだし、今の私には関係の無いことだ。
弟は立ち止まり、一般車両を見る私にどうしたのか聞いてきた。
「ああ、会社の車があるから、何かなと思ってね」
弟の手を引いて歩き出すと、後ろから肩を叩かれた。振り返ると岡島がいた。
岡島は弟に笑顔を向けているが警戒している。髪型、肌の質、耳の形、服装、所持品、腕時計、靴、全てを眼球を動かすことなく視界に入れて弟の顔を見ている。
黒縁のメガネをかけ、スタイリング剤を使ってないのだろう、視界を遮る長めの髪をかき上げた。
ベージュのストレートパンツにオレンジのTシャツを着た岡島は、爽やかな笑顔で私たちに挨拶をした。
岡島はチンピラを卒業して一年は経つが、まだ目つきはチンピラのままの時があるから、弟は後退りしている。
「ああ、あのね、お姉ちゃんの会社の人だよ。岡島さん」
「えっ、ああ、こんばんは、はじめまして」
「弟だよ」
「え、弟さん?」
「うん」
私が紹介すると、岡島はぎこちない動きで頭を下げた。
――岡島よ、どうした。
岡島は私に弟がいるとは知らなかったという。話した記憶はあるのだが、まあいいか。
弟も頭を下げると、岡島は笑顔を崩さずにいるが口元は強張っているように見えた。私をちらりと見る。話があるのか。
「お姉ちゃんね、少し話するから待ってて。ごめんね」
弟から離れて背を向け、岡島の腕を掴んで話を聞いた。
「どうしたの」
「今日、松永さんが熱中症で入院した」
「はあっ!?」
「相澤が官舎で見つけて救急搬送」
「容態は?」
「大丈夫みたい。入院予定は三日」
エアコンをつけずに官舎で寝てしまい、たまたま帰宅した相澤が見つけたという。もし一人のままだったら――。
「六月からずっと一人で潜ってたでしょ? キツかったみたい」
「ああ……そっか……」
「須藤さんがね、退院後は実家で一週間は療養させるって言ってた」
「うん、それがいいだろうね」
岡島は私の目を見た。私は岡島が何を言いたいかわかる。須藤さん――。
町内会の防犯講話の後に忙しくなった須藤さんだったが、松永さんが入院したとなると八月の特別任務は須藤さんも動かないとならない。
それにホストクラブで勤務する捜査員から初回の報告が上がり、何かがあったようだ。
須藤さんのメンタルとフィジカルがこの夏、全力でやられるだろう。
「レース編み、一心不乱にやってる」
「ああ……もう、そうなっちゃたんだ……」
「何かね、仕事以外でも何かあったみたいだし、ヤバそう」
須藤さんの趣味はレース編みだが、ひたすら目を数えて現実逃避していると言っていた。レース編みをしている間だけ、正気を保っていられるらしい。
須藤さんは防犯講話で私が着ていたワンピースの付け襟が興味深かったようで、レース編みの付け襟を作ってくれると言った。クリスマスまでには仕上げるよと言われて楽しみにしているのだが、このペースだと夏が終わるまでには出来上がりそうだ。
「中山さんも忙しくなるね」
「うん。ピーポくんも今年の夏はイベント回数多いんだって」
「中に人などいない」
「うん」
岡島は待たせている弟に向き直り、笑顔で挨拶をして立ち去った。
――お姉ちゃんの夏も、ヤバそうだ。
「行こう。美味しいごはんをいっぱい食べよう」
「どんな料理があるのかな?」
「スペイン料理」
「うん、そっか」
◇
午後九時三十三分
私は今、改札口の向こうの弟を見ている。
寮生活になり、築四十年超えの寮に入寮していろいろと衝撃を受けたと話していた。
共同のキッチンはガスコンロではなく業務用の鋳物コンロで使い方がわからず、管理人さんが教えてくれたという。トイレと風呂は共同で、風呂は大浴場らしい。
管理人さんがお湯を張ってくれるから、帰寮したらすぐにお風呂だと。いいじゃないか。大きいお風呂。
私が官舎住まいだった時はバランス釜だった。初めて見たバランス釜が一体何なのかわからなかったが、『一酸化炭素中毒には気をつけろ』の注意もわけがわからなかった。
弟は階段を下りる前に振り向いた。
手を上げる弟に、私も大きく手を振った。
◇
午後十時五十八分
帰りの電車で松永さんにメッセージを送ったが返ってこない。須藤さんにもメッセージを送ったが、仕事なのかレース編みで現実逃避中なのか不明だが返事が無い。
――二人とも、大変なんだろう。
風呂から上がり、リビングに戻ったところでメッセージアプリの通知音が鳴った。どっちだろうか。そう思いながらメッセージアプリをタップすると、葉梨からだった。
『こんばんは』
『男性とご一緒だったのでお声がけは遠慮しました』
「うん、それで?」
画面を見つめながら思わず独り言が出た。
メッセージは続く様子もない。
――メッセージを返せ、と?
『弟だよ』
『スペインバルに行ってきた』
これ以外に言うことも無いが、これでいいだろう。
しばらく待つと返信が届いた。
『弟さんでしたか』
弟を恋人と誤認したのだろうか。だが弟は一回り下だ。スーツを着こなすにはまだ早い、スーツに着られているフレッシャーズの弟を私の男だと誤認したのか。思わず口元が緩んだ。
『彼氏だと思ったの?』
送ったメッセージはすぐに既読がついた。画面を見ていたのだろう。
『そうです』
『一回り下の弟だよ』
『そうなんですか』
『国税局勤めだよ』
『確かお父様もでしたよね』
『そうだよ』
ラリーは終わった。
既読はついたが返事がない。
私の言葉足らずが原因だ。
スマートフォンを肘掛けに置き、正面にあるエアロバイクを見た。スイーツブッフェで貰った葉梨とお揃いのキャラクターマスコットは、エアロバイクにつけてある。
――同じ色。
葉梨が白い薔薇五本に込めた想いは何だろうか。聞いたら負けかなと思って、聞けないままだ。
いつか聞いてみようか。
――葉梨の誕生日に。
私は口元を緩ませて、スマートフォンを手に取った。
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