第41話 タワマンとフラグとたっくんと
八月二十八日 午前二時四分
松永さん不在の特別任務は私の警察人生において記憶に残るものとなった。
いつか笑い話になりますようにと願いながら任務を終えたが、今は目の前にいる
葉梨は時間を指定され、ワンボックスカーを運転して指定された場所に私たち三人を送る任務を与えられたのだが、私たちには自力で車に乗る気力が残っていなかった。
コインパーキングに停めたワンボックスカーまで私たちは歩いた。頑張った。だが車道から見えないワンボックスカーの陰に辿り着いた時に、私たちは崩折れた。
すぐに葉梨は現れたが、まるでこの世の地獄を見るようなお目々で私たちを見つめていた。
「お疲れ様。私たちはもう無理だから、乗せてくれないかな」
葉梨は須藤さんと中山さんを先に乗せて、私を助手席に乗せて車を発進させた。
◇
葉梨は後部座席のシートに並んで座る二人をルームミラー越しに見て、笑ったような気がした。
振り向いて見てみると、二人は寄り添うようにして眠っている。中山さんは微笑んでいた。
葉梨が口を開いたが、それは私に聞かせるという感じではなく、独り言のような言い方だった。
「須藤さん、中山さんの肩を抱いてます」
二人は師弟関係というか兄弟というか、強固な信頼関係で結ばれている。それは言葉や態度の端々からも伝わってくるし、今回の任務でも痛感させられた。
『奈緒ちゃん、走る体力だけは残しておいて。何かあったら俺らを見捨てていい。走って逃げて』
私は任務中、その言葉を何度も頭の中で繰り返し再生していた。
特別任務の際に生命が危ぶまれる状況になった場合は、松永さん、私の順に切り捨てられる。
松永さんは次男で独身、長男の敦志さんには既に男の子が二人いるからだ。
中山さんは特別任務をするために警察官になった人だから、生きていなければならない人――。なのに、須藤さんは私に逃げろと言った。その意味は重い。
「葉梨はこの後の世話もしてくれるの?」
「はい。そのように言われています」
「そっか……先に言っておくけど、この前の比じゃないよ」
「えっ……」
前回同様に療養中の私たちへ水や食事の用意をして、あとは生存確認をするだけだと思っているのだろう。
だが須藤さんが
「頑張ってね」
「……はい」
◇
午前三時二十九分
私は今、ベイエリアのタワーマンション三十二階にいる。
眼下に広がるのは海っぺりのナイスな夜景だ。
そんな高級マンションのリビングに私たち四人はいる。だが家具も何もない四十畳はありそうな空間に寝袋が三つ並んでいるのはどういうことだ。
私たちは寝袋に入れられて東京湾に沈められるのかも知れない。そんなことを考えてしまうような情景だ。
「須藤さん。多分ですけど、敬志の手配ミスですよね?」
「ああ、俺もそう思う」
――やっぱりな。
松永さんは中野区と中央区を間違えたのだろう。でもまあ良い。
車の中で一時間弱の睡眠を取ったチンパンジー親子は少し元気になっていた。それでもまだ動くのは難しいようで、二人はさっさと寝袋に収まろうとしている。
「加藤も寝ろよ」
「シャワー浴びてからにします」
「いいね!! 体力残ってて!!」
そう言って若干プリプリしながら寝袋のファスナーを閉めた中山さんはもう寝息を立てている。早い。一秒も経っていない。
「シャワー浴びてくるけど、早くて三分後には
「えっと、どのようなことが想定されますか?」
「……須藤さんはフラグを立てる」
「フラグ」
「中山さんは多分、たっくんを探す」
「たっくん」
私が初めて中山さんとペアで組んだ時に須藤さんもサポートで一緒だったが、その時はフラグを立てていた。
俺、この任務終えたら実家に帰るんだ――。
いきなり何を言い出すんだ、まさかの死亡フラグかと思ったが、任務後の週末、普通に実家に帰って普通に戻って来た。
だが今回は松永さん不在の特別任務だったから、フラグを立てるだけじゃ済まないだろう。私は離れて寝よう思った。
「じゃ、シャワー浴びてくるね」
不安そうな顔をする葉梨に背を向け、リビングのドアに向かった。
◇
リビングを出たが、私はあることに気づいた。浴室の場所がわからない。
ここだろうか。廊下左手にあるドアを開けると、また廊下があった。
左右に伸びる廊下には三つのドアがあり、向かい合って二つのドアがあった。どんだけ広いんだこのマンションは。軽く二百平米を超えるだろう。ならば私たちはあんな広いリビングでぽつんと寝袋に収まらなくともよいではないかと思った。
ひとつひとつドアを開けて浴室を探しながら歩くうちに、最後のドアになった。だがそこはスタイリッシュなトイレだった。
――まさかの風呂無しか?
そんなはずはない。
私はもう一度リビングに戻った。
◇
「ねえ葉梨、お風呂場ってどこかわかる?」
須藤さんの脇で正座をする葉梨に背後から声をかけたが、振り向いた葉梨は『どうすればいいですか』と言う。どうした。
私は葉梨の視線の先を目で追った。そこにはスヤスヤ眠る中山さんと須藤さんの姿がある。
寝袋に入った二人は熟睡しているが、
「フラグとたっくんは出てきた?」
「はい。あの、たっくんってどなたですか?」
「松永さん。松永敬志さん」
「ああっ、玲緒奈さんの」
「そうそう。義理の弟さん。中山さんと同期だよ」
「そうなんですね」
リビングには明かりはついていない。キッチンの明かりが微かに届く程度で暗い。
私は今回、減量はプラス六百グラムに収めた。
激務により疲労と心労が重なりげっそりとやつれていた須藤さんも、例年よりアグレッシブ版ピーポくんのイベント出演回数が多かった中山さんも、特別任務に備えて完全に体を仕上げてあった。
プラス二キロまでは許容範囲だと言われているが、六百グラムに落としたことを褒めた。褒めたが、二人とも『ごめんね』と言っていた。
申し訳なさそうな顔をしていたが、その顔を見て私は何も言えなかった。だが、謝る必要は全くない。私たちは悪くない。悪いのはたっくんだ。
「私も寝る」
「えっ、シャワーは?」
「疲れたからあとにする」
中山さんの隣の寝袋を持ち、私はリビングの隅に移動した。
「私の体力はいつもより残ってるから、たまに生存確認するだけでいいからね。二人には適当に合いの手を入れておけば良いよ」
そう言って私は寝袋に収まり、目を閉じた。
中山さんはやはりたっくんを探しているし、須藤さんはフラグを立てているが二人とも、まあ大丈夫そうだ。
◇
午前八時二十三分
私は寝袋から出て、寝ている二人の生存確認をした。
二人は熟睡している。
リビングを見渡すが葉梨がいない。キッチンだろうか。
睡眠時間は少なかったが、体力が残っていたせいか回復はしている。キッチンに行くと葉梨がいた。
冷蔵庫を開けて飲み物の補充をしている。
私はそっと近づき、葉梨の脇の下からそっと手を伸ばして飲み物を取った。
「ひいっ!!」
観音開きの冷蔵庫のドアに体をぶつけ、こちらを振り向いた葉梨は目を見開いて私を見た。
「びっくりした。もー、加藤さん……」
「アハハハ」
私はペットボトルのキャップを外してミネラルウォーターを口に含んだ。そして口の中の水分を補給してから言った。
「須藤さん、何か言ってた?」
「ああ、えっと、彼女にプ――」
「葉梨」
「痛たたたたっ!」
私は葉梨の耳朶に爪を立てて引っ張った。その先を言ってはならない。知り得た情報は漏らしてはならないのだ。
「葉梨、あんたがここにいる意味を、よーく考えなよ」
意味を探ろうと私の目を見る葉梨は不安そうな顔をしている。私は口元に笑みを浮かべ、背を向けて歩き出した。
正直なところ、私もなぜ葉梨がいるのか理由を知らないが、少しくらい脅しても良いだろう。油断をしてはならないのだから。だが、そんな先輩の目論見は早くも崩れた。須藤さんのまあまあ大きい声が聞こえた。
「俺、この任務を終えたら彼女にプロポーズするんだ」
――今、言うな。このチンパンジーめ。台無しじゃないか。
私は葉梨に振り向かず、そのまま須藤さんの元へと行った。
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